邪馬台編 第二章 境の国
西の海の噂が過ぎ去ってから、幾年かが経った。
トヨメは、もはや女王の言葉をただ覚えるだけの子供ではなくなっていた。神事の後、女王に問われずとも、自分から気づいたことを口にするようになっていた。女王はそれを咎めなかった。咎めない、ということが、トヨメにとっては何よりの許しだった。
「狗奴国が、また兵を動かしております」
ある日、南から来た使いがそう告げた。狗奴国——女王の国とは相容れぬ、南方の国だった。境を接する幾つかの邑で、小競り合いが絶えないという。
「いつものことだ」
女王はそう言ったが、その声には、以前にはなかった疲れがあった。長く女王の座にあるということは、長く戦い続けるということでもあるのだと、カガリはこの頃ようやく理解し始めていた。
「いつものこと、と仰いますが」
「言え」
「狗奴国の背後に、大陸の影が見えると、南からの使いが申しておりました。大陸との交易を持つのやもしれませぬ。」
女王は眉を動かした。
「呉、か」
「まことかどうかは、分かりませぬ。ただ、狗奴国が持つ鏡に、こちらでは見慣れぬ紋様のものがあると」
女王はしばらく黙り込んだ。トヨメは、その沈黙が、以前に西の海の噂を聞いたときの沈黙と、どこか似ていることに気づいた。あの時と違うのは、今度の噂には、もっと確かな手触りがあるということだった。
「もし狗奴国が呉と結んでおるならば」
女王がそう呟いたとき、トヨメは思わず言葉を継いだ。
「我らは、魏と結ぶべきかと」
女王は、トヨメの顔をじっと見た。長い沈黙の後、女王は初めて笑みらしきものを見せた。
「そなた、いつの間にそこまで考えるようになった」
「分かりませぬ。ただ、狗奴国の背に大国があるならば、我らの背にも大国がなければ、いずれ押し潰されると、それだけが」
「それだけが、分かる、か」
女王は繰り返し、それから静かに続けた。
「私が魏に使いを出すとすれば、それは私の代では終わらぬ話になる。そなたが、それを継ぐことになるやもしれぬ」
トヨメは、その言葉の重みを、すぐには受け止めきれなかった。継ぐ、という言葉が、まだ遠い先のことのように思えた。だが女王の目は、すでにカガリを、次の荷を負う者として見ていた。
「いずれ魏へ使いを送る日が来よう。その使いに、そなたを加える」
「私を、でございますか」
「そなたは、覚えることに長けておる。神託だけでなく、人の顔も、言葉の裏も、忘れずに持ち帰ることができよう」
トヨメは、その夜、一人で外に出て、南の空を見上げた。狗奴国のある方角だった。そこに大陸の影がどれほど差し込んでいるのか、まだ確かめようがなかった。だが、いつか自分がその答えを、自らの目で確かめに行くことになるのだと、この時初めて、はっきりとした予感として胸に落ちた。




