呉編 第二章 出航
建業から会稽への道中、衛温はほとんど口を利かなかった。
馬上で揺られながら、彼は幾度も懐の詔書に触れた。触れたところで文字が変わるわけでもないのに、確かめずにはいられなかった。夷洲及び亶洲を求め、未知の地の民と交誼を結ぶべし——短い文言の裏に、どれほどの距離が隠されているのか、詔書自体は何も語らない。
「衛温殿は、海がお嫌いか」
並んで馬を進める諸葛直が、そう声をかけた。まだ若い。若さゆえの軽さで、この遠征を、単なる功名の機会だと信じている節がある。
「嫌いも好きもない。知らぬだけだ」
「知らぬから怖い、と」
「怖い、とは言っておらぬ」
衛温はそれ以上答えなかった。答えれば、若い諸葛直に見透かされる気がした。
会稽の港に着いたとき、衛温は初めて、詔書の言葉が現実の重みを持つのを見た。一万の兵。それだけの人数を運ぶための船が、幾艘も岸に並び、水夫たちが荷を積み込んでいる。米、水、薬——薬の量が、衛温には妙に多く思えた。多く積まねば足りぬと、誰かが最初から見越していたかのようだった。
「陸遜殿が用意させたものです」
随行の官吏がそう教えてくれた。反対しながら、最後には最も細やかに準備をする。そういう男なのだろう、と衛温は思った。反対することと、支えることは、この男の中では矛盾しないらしい。
出航の朝、空は晴れていた。晴れすぎるほどに晴れていて、衛温にはそれがかえって不吉に思えた。良い兆しというものは、後から悪い兆しだったと語られることが多い。
諸葛直が舳先に立ち、兵たちに何か声をかけている。威勢のいい言葉だった。夷洲には金があるという噂、亶洲には不老の術があるという噂——根も葉もない話を、まるで真実であるかのように語って聞かせている。兵たちの顔に、束の間の高揚が浮かぶ。衛温はそれを黙って見ていた。噓だと分かっていて黙っているのは、自分もまた、この若者の噓に縋りたいからかもしれなかった。
船が岸を離れる。
衛温は最後にもう一度、詔書に触れた。今度は確かめるためではなく、これから始まる旅の重さを、自分の胸に刻みつけるためだった。
水平線の向こうに、まだ何も見えない。
見えないまま、船は東へ進んだ。
数日が経ち、陸地が完全に見えなくなった頃、兵の一人が高熱を出して倒れた。医師が診たが、はきとした病名は分からなかった。ただの船酔いだ、と誰かが言い、誰もがそう信じたがった。
衛温だけが、その兵の顔色を長く見つめていた。陸を離れて、まだ十日と経っていない。




