表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
物部王朝  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/9

呉編 第一章 徐福の亡霊

 建業の宮殿は、初夏だというのに冷えていた。


 石造りの床に反射する灯りが、孫権の顔の上半分だけを照らしている。目のあたりだけが妙に若く、口元はもう若くない。齢五十に近いこの男が、まだ何かを欲しがっている顔をしているということに、陸遜は昔から薄気味の悪さを覚えていた。


「徐福、という名を覚えているか」


 孫権が唐突にそう言ったとき、陸遜はすぐには答えなかった。答えを急がないことを、この主君は好まない。だが今日ばかりは、間を置くことそのものが答えのようなものだった。


「始皇帝の方士でございますな。東海に神山があると奏上し、童男女数千人と共に船出したまま、二度と戻らなんだ」


「戻らなんだ、ではない。戻らなかった、のだ」


 孫権はその言い直しに、わずかに笑みを浮かべた。戻る理由がなかった、と言いたいのだろう。陸遜にはそれが分かった。


「その方士の船出から、五百年近くが経っております」


「五百年経とうと、海の向こうに国があるという話が消えるわけではない。会稽の漁師どもが、嵐に流されて辿り着いたという島の話を、私は聞いた。人が住み、田がある、と」


「風の噂にございます」


「噂で構わぬ。噂ですら、我らの他に誰も知らぬ土地の話だ」


 陸遜は、この会話がどこへ向かうのか、すでに察していた。察していながら、止める言葉を探すことしかできなかった。


 魏は北にある。蜀は西にある。呉に残された広さは、南と、そして海しかない。孫権という男は、山越を討ち、交州を平らげ、常に領土の外側にしか目を向けてこなかった。それは決して蛮勇ではなく、むしろこの国の弱さを誰よりも知っている者の計算だった。魏と正面から国力を競えば、いずれ削り負ける。ならば魏の目の届かぬ場所に、呉だけの版図を作ればいい。


 理屈としては、分かる。


 分かるからこそ、陸遜は今回だけは強く言った。


「衛温と諸葛直に一万の兵を預けるおつもりですか」


「一万で足りぬか」


「足りる足りぬの話ではございませぬ。海の向こうがどれほどの距離か、誰も知らぬのです。知らぬ距離を、知らぬ兵数で測ることはできませぬ」


 孫権は答えなかった。答えの代わりに、卓上の地図——というにはあまりに空白の多い、海だけが広がった絹布——に指を這わせた。指の先には、何も描かれていない。描かれていない場所にこそ、この男は手を伸ばしたがっている。


「全琮も同じことを言うだろう」


「全琮殿だけではございませぬ。朝議の誰もが」


「誰もが、というのは正しくない。私が言っている」


 その一言で、陸遜は口を閉じた。長く仕えてきた主君の、こういう声を知っている。これより先は、諫言ではなく、命令に対する服従だけが許される声だ。


 窓の外、長江の水面が夕陽を弾いていた。あの水がどこまでも東へ流れ、いつか海に出て、誰も見たことのない岸に届くのだと思うと、陸遜は不思議な感慨を覚えた。主君の欲望も、この水と同じように、届くはずのない場所まで流れていこうとしている。


「夷洲へ向かわせよ。ついでに、亶洲も探させる」


「亶洲、でございますか」


「徐福が消えた先だ。会稽の民が、稀に流れ着くという島だ」


 陸遜は一瞬、答えに詰まった。夷洲はまだ良い。海図にこそないが、行き来した者の噂は多く、実体のある土地だ。だが亶洲は、五百年前の伝説と、嵐に流された漁師の記憶が混ざり合った、輪郭のない場所だった。


「もし辿り着けなんだ場合は」


「辿り着けばよい話だ」


 孫権はそう言って、絹布の上の空白から指を離した。


「衛温と諸葛直を呼べ。一万の兵を用意させよ」


 陸遜は一礼し、退出した。廊下を歩きながら、彼の脳裏には、まだ見ぬ二つの島影ではなく、まだ見ぬ二人の将軍の、これから背負うことになる重さのことばかりが浮かんでいた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ