使節団編 第三章 持衰(じさい)
対馬を発つ朝、船団の中に、トヨメがそれまで気に留めていなかった男が一人いた。
髪を結わず、ざんばらに垂らしたまま。顔にも垢が浮き、着ているものはただの一枚布で、繕われた跡もない。まるで喪に服しているかのような姿だった。誰もその男に近づかず、話しかけもしない。船底の隅、荷駄の陰に、ただ座り込んでいるだけだった。
「あれは」
トヨメが尋ねると、案内役の年配の水夫が、声を落として答えた。
「持衰にございます」
「持衰」
「海を渡る間、われらに代わって禁忌を負う者にございます。髪を梳らず、虱も取らせず、肉も食わず、女子にも近づけぬ。喪に服する者と同じ有様で、船が着くまでその身を保たねばなりませぬ」
「なぜ、そのような」
「航海が無事であれば、褒美を与えられまする。されど、もし船中に病人が出たり、嵐に遭うたりすれば――」
水夫は、そこで言葉を切った。トヨメは、その先を促さなかった。促さずとも、分かった。
「持衰が禁忌を怠ったが故だと、責めを負わされまする」
トヨメは、その男を見た。男は、こちらの視線に気づいているのかいないのか、微動だにせず、膝を抱えて座り続けていた。若くはない。だが老いてもいない。年の頃合いさえ、はっきりとは分からぬ顔つきだった。
「あの者は、望んでこの役目を負うたのですか」
「望んで、と言えるかどうか。氏族の中で、籤で定められることもあれば、他に代えの利かぬ貧しき者が担わされることもございます」
その晩、トヨメは持衰の男に近づいた。誰も近づかぬ場所に、あえて足を運んだ。男は、トヨメが来たことに気づくと、わずかに身を固くした。
「名は」
男は、しばらく答えなかった。答えることに慣れていない、というふうだった。
「……ない」
「ない、とは」
「持衰である間は、名を持たぬ。名を持てば、その名の主として、また普段の暮らしに戻りとうなる。それでは、この役目は務まらぬ」
トヨメは、その答えに、何も返せなかった。名を持たぬことで、自分を保っている者がいる。トヨメ自身は、名を二つ持つことで、自分を保っている。まるで裏表のようだった。
「そなたは、恐ろしくはないのか」
トヨメがそう問うと、男は初めて、わずかに顔を上げた。
「恐ろしいも何も、これがわが役目だ。船が無事に着けば、それでよい」
「もし、無事に着かねば」
「その時は、その時のことだ」
男は、それきり口を閉ざした。トヨメは、それ以上何も問わず、その場を離れた。
その夜、トヨメは懐の木簡に、その男のことを刻んだ。名を持たぬ男。役目のために、自らを空にした者。だが、記す段になって、トヨメは筆を止めた。名のない者を、どう記せばよいのか、分からなかった。
結局、トヨメはこう記した。
――船中、一人あり。名を秘し、禁忌を一身に負う。
名を記さぬまま、その存在だけを記す。それもまた、一つの記録の形だと、トヨメはその時、初めて知った。




