使節団編 第二章 壱岐・対馬
海を渡るということが、これほど身の内を揺さぶるものだとは、トヨメは知らなかった。
船が対馬海峡に差しかかる頃には、随行の若い者たちの何人かが、すでに青い顔をして舷側にしがみついていた。その中でも、ひときわ大きな声を上げていたのが、巴利だった。
「これしきの海で、音を上げてなるものか」
声は威勢がいいが、顔色は誰よりも悪かった。トヨメは、それを見て、思わず小さく笑いを噛み殺した。
巴利は、巴利国の長の子だった。父はこの遠征に多くの物資と兵を出しており、その功によって、若い巴利にも一行に加わる席が与えられた。だが本人にどれほどの覚悟があってこの旅に加わったのか、トヨメには量りかねるところがあった。
「巴利殿は、なぜこの使節に」
ある夜、甲板でトヨメがそう尋ねると、巴利は少し得意げに胸を張った。
「我が父は、女王への忠義篤きことで知られておる。此度の使いにも、他のどの国より多くの兵と物とを差し出した。その功により、我が家からも人を出すことになったのだ」
「巴利殿ご自身は、行きたいと望まれたのですか」
その問いに、巴利は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……父が、行けと申した」
その正直な答えに、トヨメはかえって好感を持った。飾らぬ言葉だった。
「大陸へ渡れば、我が国の名も知れよう。父は、そう申していた」
「巴利殿は、それを望まれますか」
「望む、というより」
巴利は、海の向こうを見やった。まだ何も見えぬ、ただ暗いだけの水平線だった。
「父の望みを、継がねばならぬのだと思うている。それだけだ」
その言葉に、トヨメは自分自身の胸の内にあるものと、どこか似たものを感じた。トヨメもまた、女王の望みを継ぐ者として、この船に乗っている。継ぐということの重さを、まだ本当には量りきれていないという点で、二人は似ていた。
対馬に着くと、島の民が一行を迎えた。険しい山ばかりの島で、田を作る土地が少なく、交易だけで暮らしを立てているのだと、案内の者が語った。巴利は、その様子を見て、初めて声を落とした。
「これほど、貧しき暮らしをしている者たちがおるとは」
「巴利国は、豊かな地でございますか」
「豊かとは言えぬが……この島に比べれば、恵まれている」
その一言に、トヨメは巴利の中で、何かが変わり始めているのを感じた。父の望みを継ぐだけだった若者が、初めて自分の目で、この国の広さと、その中にある差を見始めていた。
壱岐に渡ってからも、船旅は続いた。荒れる日もあれば、凪ぐ日もあった。凪いだ夜、巴利はトヨメの傍らに来て、ぽつりと言った。
「トヨメ殿は、すべてを覚える役目だと聞いた」
「はい」
「ならば、この旅で私が何を見て、何を思うたかも、覚えてくれるか」
トヨメは、少し驚いてから、頷いた。
「巴利殿がお望みならば」
「望む。父の使いとしてでなく、私自身が、この旅で何を見たかを、誰かに覚えていてほしい」
トヨメは、懐の木簡に、その夜のことを刻んだ。巴利という若者が、父の名の下でこの船に乗り、ある夜、自分自身の言葉で、自分の見たものを語った、と。




