使節団編 第一章 出立
女王が使いを魏へ出すと定めたのは、あの狗奴国の背に呉の影を見てから、幾年も経ってのことだった。
急いた話ではなかった。女王は、事を急いては誤ると、常々言っていた。使いを出すからには、相応の支度がいる。言葉を交わすための知恵者、贈り物として持たせる品々、そして何より、大陸の官吏という手強い相手と対等に渡り合えるだけの者――その人選に、女王は幾月もかけた。
「難升米を正使とする」
その名が告げられたとき、トヨメは驚かなかった。難升米は、氏族の中でも武に長け、諸国との折衝にも慣れた男だった。だが、続けて女王の口から出た言葉に、トヨメは息を止めた。
「トヨメ、そなたも共に行け」
「私が、でございますか」
「そなたは、覚えることに長けておる。難升米が言葉を交わし、都市牛利が贈り物を差配する。そなたは、そのすべてを見て、聞いて、忘れずに持ち帰る役目を負え」
トヨメは、深く頭を下げた。頭を下げながら、胸の内では、これまで幾度となく想像してきた光景――海の向こうの、まだ見ぬ大国の都――が、初めて現実の重みを持って迫ってくるのを感じていた。
支度の日々は、慌ただしく過ぎた。難升米、都市牛利のほか、伊声耆、掖邪狗、そして巴利という若い男も随行することになった。それぞれに得手があった。難升米は折衝、都市牛利は算段、伊声耆と掖邪狗は道中の警護、巴利は荷駄の差配――トヨメは、その一人一人の顔と役目を、まず自分の中に書き留めるようにして覚えた。
「なぜ、これほど多くの者を私に覚えさせるのですか」
出立の前夜、トヨメは女王に尋ねた。
「大陸の官吏は、記録を重んじる。誰が何を語ったか、誰が何を約したか、すべてを書き留めるという。もし我らの誰かが、道半ばで言葉を違えたなら――違えたことにすら気づかぬまま帰ってくるやもしれぬ。そなたが、すべてを覚えていれば、それを正すことができる」
「正す、とは」
「我らの誰も、大陸の言葉を、大陸の官吏ほどには操れぬ。だが、覚えていれば、後で正しく語り直すことができる。記録に残されてしまう前に」
女王のその言葉を、トヨメは長く胸に刻むことになる。記録に残されてしまう前に――その一言の重さを、この時のトヨメは、まだ半分も理解していなかった。
出立の朝、港には多くの者が見送りに立った。難升米が先頭に立ち、贈り物を積んだ船に乗り込む一行を見送る人々に手を上げた。トヨメは、その喧騒の中で、一人静かに海を見ていた。
海の向こうに、かつて呉の船団が届かなかったという話を、トヨメは覚えている。あの船団が届かなかった海を、今度は自分たちが渡っていく。届かなかった者たちがいた海を、届く者として渡るということの意味を、トヨメはまだ言葉にできなかった。
船が岸を離れる。
トヨメは、懐に忍ばせた小さな木簡――これから覚えることのすべてを、後で刻みつけるための、まだ何も書かれていない木簡に、そっと触れた。




