第2話『不眠の伯爵と、解けゆく孤独』
「……今日もいらしたのですか、アレクシス様」
あの大雨の断罪の夜から、数週間が経ったある日の午後。
私の小さな屋敷のテラスに、ごく自然な動作で腰を下ろしている長身の影を見つけ、私は思わず手に持っていた如雨露を置いて息を吐いた。
「私の領地だ。どこに行こうと私の自由だろう」
ヴァルハイト領の主であるアレクシス様は、美しい漆黒の髪を風に揺らしながら、悪びれもせずにそう言ってのけた。相変わらず、ぞっとするほど整った美貌だ。けれど、初めて出会ったあの日のような、死人のような青白さは消え、肌には僅かに健康的な血色が戻っている。目の下に刻まれていたあの濃い隈も、今ではほとんど目立たなくなっていた。
あの日、特製の鎮静茶で呪いの発作を抑え込んで以来、アレクシス様は頻繁に私の屋敷を訪れるようになった。
最初の数日間は、明らかに私を警戒していた。私が淹れるお茶に何か裏があるのではないか、王都の公爵令嬢が何の目的で辺境に潜んでいるのかと、探るような冷たい視線を向けていたものだ。
だが、私が毎日ただ黙々と薬草をいじり、彼がやってくれば「はい、お茶ですよ」と淡々と差し出すだけの生活を続けているうちに、彼の頑なな態度は少しずつ軟化していった。
「まぁ、確かにアレクシス様の領地ですけれど。公務はお忙しくないのですか?」
「お前に会う時間くらいは、どうとでも作れる。……それより、早くあのお茶をくれ。少し頭痛がする」
そう言って、アレクシス様はテラスの椅子にもたれかかった。
私は苦笑しながら室内に戻り、手慣れた手つきでお湯を沸かす。今日調合するのは、彼の魔力を安定させ、深い睡眠を促す「安らぎのお茶」だ。乾燥させた星見草の葉と、蜂蜜を少々。
あたたかい湯気と共に、甘く優しい香りが室内に広がる。
お茶を乗せたトレイを持ってテラスに戻ると、アレクシス様は待ち兼ねたようにカップを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
一口飲むごとに、彼の張り詰めていた肩の力が抜けていくのがわかる。
「……相変わらず、不思議な茶だ。どんな高級な魔力回復薬よりも、お前の淹れる茶の方が、私の身体に深く染み渡る」
「それは良かったです。魔力を無理に抑え込むのではなく、流れをスムーズに整えるように調合していますから。アレクシス様の身体には、それが一番合っているのだと思いますわ」
前世の医療知識が、この世界でこれほど役に立つとは思わなかった。
アレクシス様が幼い頃にかけられた「生殺しの呪い」は、彼の膨大な魔力そのものを暴走させ、内側から肉体を破壊し続けるという最悪のものだった。数年間、激痛のせいでまともな睡眠をとれていなかったという。
そんな人間が、今、私の目の前で、信じられないほど無防備な姿を見せている。
「お前は、本当に私を恐れないのだな」
カップをソーサーに戻し、アレクシス様が赤い瞳を細めて私を見た。
「恐れる理由がありませんわ」
「私は『死にたがり悪魔』だぞ。王都の連中は、私の名前を聞いただけで顔を青くする」
「私の前では、ただの『ちょっと手のかかる患者様』です。それに……」
私は彼の漆黒の髪に隠れた、綺麗な顔立ちをじっと見つめた。
「……本当にお綺麗な顔立ちをなさっているのに、いつも不機嫌そうな顔をされているのは、勿体ないなと思いまして」
本音がぽろりと口からこぼれてしまった。
アレクシス様は一瞬、ハッとしたように目を見開いたが、すぐにふいっと顔を背けた。その耳の尖端が、ほんのりと赤くなっているように見えたのは気のせいだろうか。
「……妙な女だ。そんなことを私に言ったのは、お前が初めてだ」
静かな沈黙が流れる。
お茶の効果が覿面に現れたのか、アレクシス様の長い睫毛が次第に重たげに揺れ始めた。数年間、不眠に苦しんできた彼の身体が、ようやく深い休息を求めているのだ。
彼は抗うことなく目を閉じ、テラスのソファーにゆっくりと身体を預けた。規則正しい寝息が聞こえ始める。
(本当に、寝ている時はただの綺麗な青年なのにね)
私はそっと室内に戻り、薄手の毛布を持ってくると、彼の長身を覆うように優しくかけてあげた。
その瞬間――。
「っ……!」
視界がぐらりと揺れた。
毛布をかけ終えた私の手首を、アレクシス様の大きな手が、驚くほどの速さと力で掴んだのだ。
「あ、アレクシス様……? 起きていらしたのですか?」
声をかけるが、彼の目は薄っすらと開いているだけだった。完全に覚醒しているわけではない。夢と現実の狭間にいるような、虚ろな赤い瞳。
けれど、その瞳の奥には、強烈な、息が詰まるほどの『深い執着』の色が混ざり合っていた。
「……どこへ行く、シャーロット」
低く、掠れた声が、私の名前を呼ぶ。初めて、彼に名前を呼ばれた。
「どこへも行きませんよ。お茶の葉を、中に補充しに行こうとしただけです」
なるべく安心させるように優しい声で言うが、彼の手の力は緩まない。それどころか、私の手首を掴んだまま、じわじわと自分の胸元へと引き寄せていく。
「ここにいろ。お前が離れると、またあの痛みが襲ってくる……暗闇が、私を飲み込もうとするんだ」
「それは……呪いのせいではなく、ただの我が儘では?」
「我が儘で結構だ。……行くな」
ドクドクと、彼の服越しに、力強い心臓の鼓動が私の手のひらに伝わってくる。その鼓動の早さが、彼の内面の恐怖と、私を求める切実さを物語っていた。
アレクシス様は私の手を離さないまま、縋るように私の顔を見上げた。
「お前は、私を恐れない。私を恐ろしい悪魔としてではなく、ただの人間として扱う。……そんな人間は、私の人生の中で、お前が初めてなんだ」
その声には、途方もない寂しさと、長年誰にも触れられなかった孤独が滲んでいた。
強力すぎる魔力ゆえに実の家族からも怪物扱いされ、遠ざけられ、果ては敵対勢力から呪いまでかけられた。死にたくても死ねない苦しみの中で、彼はたった一人で、世界の全てを呪いながら戦ってきたのだ。
そんな彼の絶望の深さを知った時、元医療従事者としての私の魂に、火がついてしまった。
(この人を、ここで一人にしてはいけない)
「アレクシス様」
私は掴まれていない方の手をそっと伸ばし、彼の冷たい頬に優しく触れた。
「私でよろしければ、いつでもお茶を淹れますわ。あなたが『生きていてよかった』と思える日が来るまで、何度でも、いくらでも」
それは、患者を気遣う医療従事者としての、ごく自然な言葉のつもりだった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、アレクシス様の赤い瞳に宿った光は、私の想像を遥かに超えて重く、暗く、そして熱いものへと変貌した。
「……後悔するなよ、シャーロット」
アレクシス様は低く呟くと、私が彼の頬に当てていた手首を捕らえ、まるで誓いを立てるように、その白い肌へ深く唇を寄せた。
ちゅ、と、静かな音がテラスに響く。
「な、何を……っ!?」
「一度私に生を与えたのだ。……二度と逃げられると思うな」
彼の赤い瞳が、妖しく、獲物を捕らえた肉食獣のように爛々と輝いていた。
その日を境に、アレクシス様の態度は明確に変わり始めた。
私が町へ薬草の買い出しに行こうとすれば、「辺境は物騒だ。危険だ」と言って、公務を放り出して護衛の名目で必ず付いてくるようになった。
農園で薬草の知識を伝授している時も、かつて「死にたがり」と呼ばれた男の瞳から不吉な影は完全に消え去り、代わりに、熱っぽい視線が常に私の動きを追うようになっていた。
「シャーロット、この花の名前は?」
「それはカモミールに似た効能を持つ野草です。あ、アレクシス様、あまり顔を近づけないでください……!」
「なぜだ? お前の匂いがすると、酷く落ち着く」
息が触れ合うほどの至近距離で囁かれ、私の心臓が不規則に跳ね上がる。
(おかしいわ。私はただの元・悪役令嬢で、ここではのんびりスローライフを送るはずだったのに……)
彼のおかげで呪いの発作は激減し、アレクシス様は本来の圧倒的な美貌と健康を取り戻していた。それは喜ばしいことのはずなのに、元気になった伯爵様は、四六時中私に執着し、甘えてくるようになってしまったのだ。
しかし、そんな甘くも慌ただしい平穏な日々を揺るがす影が、確実に近づいていた。
コンコン、と。
ある日、我が家の扉を激しく叩く音が響いた。
アレクシス様が公務で城に戻っている、珍しいお留守の日のことだ。
「失礼するわ、シャーロットお義姉様」
扉を開けた先にいたのは、見覚えのある黄金色の髪を持つ少女。
かつて王都の夜会で、セドリック殿下の隣で哀れっぽく泣いていた、ゲームのヒロイン――ミリアだった。その背後には、いかにも不機嫌そうな顔をした元婚約者、セドリック殿下の姿もあった。
平穏だった私の辺境ライフに、再び王都の泥沼が押し寄せようとしていた。




