第90話 それぞれが背負ったもの
俺は必死で追い掛けた。
自ら刺した足から血を流しながらも、前へ進んでいく。
しかし、俺も右目の激痛に阻まれ、思ったように真っ直ぐに歩けない。
「クソ……っ、こんな時に……!」
俺は肩で呼吸をしながら、一度立ち止まり壁に手をつく。
不幸中の幸いか……聖明が酷い発作を起こしたまま移動しているため、闇の刻印から流れ出たのであろう血が、病棟からずっと続いている。
お陰で行き先には困りそうにない。
俺は再び足元を確認しながら、前に進んでいく。
この順路だと、恐らく自宅に向かっている。
聖明、瑠璃。
頼むから──早まらないでくれ。
俺はどうにか聖明の家まで辿り着く。
血は聖明の家の中に続いているが、家の明かりがともっていない。
俺は嫌な予感がしながらも、中に踏み入った。
「聖明!どこにいる!?」
「う……っ、うっ」
微かに泣き声がリビングから聞こえる。
俺はその泣き声を頼りにリビングへ駆け込んだ。
「聖明!」
そこには、聖明が座り込んでいた。
ちょうど月が雲に隠れているせいで見えにくい。
「せいめ──」
もう一度呼びかけた時に異変に気付いた。
部屋中に充満する血の匂い。
俺の足元にぬるっとした液体が広がっている。
徐々に雲が動き、月明かりが部屋の中を暴いていく。
そこには──壊れたような顔で涙を流す聖明と、血の気を失い、冷たくなった瑠璃が横たわっていた。
──間に合わなかった。
最悪の光景だった。
起きてはならないことが、起きてしまった。
「せ、めい……」
「守れなかった。たった一人の、大切な……」
あまりにも痛々しい表情に声も出せず、無意識に後退った。
ここまで壊れきったような聖明を見たことがなかった。
聖明はそっと瑠璃を床に横たわらせ、ふらっと立ち上がる。
その瞳は酷く暗く──絶望の色に染まっていた。
「セレス……君には迷惑をかけたね」
そう言って一歩、また一歩と俺に近付く。
彼女は涙を流しながら壊れたように微笑んだ。
「もう……後悔はしたくない」
聖明の手が俺に伸び、顔が近付く。
そして──彼女の唇が俺の右目の薔薇に触れた。
「──!!?」
途端に今までに無いぐらいの激痛が右目に走る。
「ああああ!?」
俺は一気にその場に崩れ、右目を押さえた。
「私を一生恨んでいい。憎んでいい。呪ってもいい」
痛みに抗いながらも揺れる視界でどうにか聖明を見上げる。
「せいめ……っ」
「それでも──セレスは生きて。
私の呪いを──不死を、力を、君に……っ!」
俺を中心に真っ赤な薔薇が咲き乱れ、黒い茨が俺を絡め取る。
同時に全身に闇の刻印が深く刻まれ、激痛が襲う。
「あああああああああああああ!!?」
焼けるように血が熱い。
全身が引き裂かれ、組み替えられるような感覚が止め処無く襲ってくる。
「君は龍のところへ帰れ」
魔法陣が俺を中心に展開される。
まさか、俺を龍のもとに飛ばす気か!?
「だめ、だ……っ!
お前を、独りには……っ、約束を、したんだ!」
俺は必死に聖明の足を掴んだ。
聖明を独りにしたら駄目だ!
俺はこいつを──救うと、助けると誓ったんだ!
「……さようなら、セレス」
聖明の涙が──俺の手に落ちた。
◆◆◆
光に包まれたセレスは姿を消した。
私が龍のもとに送った。
再び訪れる静寂。
私は振り返り、瑠璃に微笑んだ。
「瑠璃……二人で静かな場所へ行こう。この家ごと移動しよう。
君と約束したからね。次の休みは一緒に楽しもうって。
大丈夫。私が君を連れて行く」
──だから、永遠に一緒にいよう。
ああ……瑠璃が笑顔で私を呼んでいる。
『兄さん!』
闇に沈む家の中で、静かな嗚咽だけが響いた。
◆◆◆
目を覚ました時には、全てが変わっていた。
欠けていた視界が、天井を映し出す。
起き上がり、右目に手を添えても薔薇の花はない。
俺の胸の奥には焦燥が渦を巻く。
『……さようなら、セレス』
俺は聖明の言葉を思い出し、ベッドを飛び出した。
点滴を引き抜き、病衣のまま廊下を裸足で駆ける。
そのまま外に飛び出し、聖明の家に向かって必死に駆けていく。
空は暗く、風が凍てつくように冷たい。
「聖明!!!」
乱れた呼吸のまま愛しい人の名を叫んだ。
でも──辿り着いた場所は、何もなかった。
聖明が好きだと言った家も、春には可愛らしい花々が咲く庭も、温かな匂いも──何もない。
ただ更地のような空間だけが、そこにあった。
まるで夢の中の場所が、目覚めと同時に霧散したようだった。
朝日が現実を照らし始めた。
足が動かなくなり、ただその空白を見つめる。
指先から力が抜け、膝が土に落ちた。
──聖明が、消えた。
その事実だけが、胸に鋭く突き刺さり、喉を裂くような叫びが朝日へ溶けていった。
そして──俺は生き続けた。
右目に咲いていた薔薇は消え、代わりに堕天使と同じ鮮やかな赤い瞳が宿った。
堕天使の医師クローディアの診断は簡潔だった。
──俺は聖明の眷属になった、と。
不老不死。
闇を宿し、操る力を得た身体。
けれど、俺は普通の眷属とは少し異なるらしい。
普通であれば両目が赤くなるらしいが、俺の左目は青いまま。
闇の保有量は堕天使たちには及ばない。
代わりに元々強かった光の保有量は多いまま。
従来の魔法も使える。
要は、闇魔法まで扱えるようになった堕天使に近い存在だ。
そう……俺は聖明と同じ闇を宿す身体になった。
ただし、眷属は完璧な堕天使になったわけではない。
眷属は主と魂で繋がっている。
主が死ねば、眷属も死に至る。
だが、堕天使たちは笑って言った。
「堕天使は不死だから、眷属も死ぬことはありえない」──と。
堕天使たちにとっては同族が増えた程度の認識らしい。
つまり俺は聖明に生かされた。
聖明が俺を生かしてくれたんだ。
足は自然と、いつも二人で過ごした教授室へ向かっていた。
両開きの扉を開けて教授室に入る。
太陽の光に照らされた机。
笑いながら座っていた椅子。
そこにはもう──誰もいない。
カゴノトリは聖明が上に立つことで保たれていた。
聖明がいなければ、堕天使たちが国に尽くす理由はなくなる。
あいつに魂を託したのは──クロスロード・ブラッティ・ナイトメア。
カゴノトリの創設者であり、堕天使たちが恩人と仰ぎ、絶対的な信頼を寄せていた存在。
そんな彼が命を賭してまで守り、残した忘れ形見。
それが──聖明だった。
俺にとっても、彼らにとっても掛け替えのない存在。
その存在こそ、彼らがここに留まる理由だった。
──だから、俺は決めたんだ。
永遠の命があるのであれば、俺は聖明が帰れる場所を守り続ける。
俺が聖明の代わりに全てを背負う。
聖明が戻るその日まで、堕天使たちと共にカゴノトリで待とう。
あいつの代わりに、カゴノトリを守り続ける。
肩書なんてどうでもいい。
代理教授でも、代理総指揮官でも、なんでも。
ただ信じて、待ち続ける。
繋がった魂の先で、またあいつの命が揺らいだ気がした。
頼む──もう、傷つかないでくれ。
◆◆◆
大天使たちが集う空間に、乾いた風が流れていた。
窓辺に立つミカエルが肩をすくめ、吐き捨てるように笑う。
「とんだ喜劇だな」
机の向こうで書類を束ねる手を止めたラファエルが鋭く睨む。
「……誰のせいですか!」
ラファエルは持っていた書類を、バン!と机に叩きつける。
その様子に席で書類を書いていたガブリエルが無言で深い溜め息を吐いた。
「まぁ、あいつはそのうち戻ってくるよ」
「何を根拠に!」
ミカエルは振り返らず、ただ遠くを見据えたまま答える。
「あいつは──聖明は私の友だからね」
「……つい先日までクロス、クロスと騒がしかったくせに」
ラファエルはプンプンと怒った様子で席に座る。
ミカエルは苦笑しながら、窓の外へ視線を戻す。
そこには一人の堕天使が忙しなく動いている。
月明かりのような髪を持ち、右目に赤を宿した男──セレスティーナ・ラファベル。
「聖明が戻るまでは、右目に赤を宿した哀れな子に頑張ってもらおう」
ラファエルは長く息を吐き、羽根ペンを手に取る。
そして、羽根ペンが紙を擦る音を響かせながら、文字を書き始めた。
「……可哀想な子たちです。
せめて今だけは、穏やかに過ごさんことを……」
その祈りは誰に届くこともなく、静かに空へと消えていった。
◆◆◆
一人の堕天使が消えた。
それでも日常は続いていく。
それぞれの想いを胸に秘め、残酷にも時は進んでいく。
それは、光へ進んでいるのか、闇へ進んでいるのか──誰にも分からない。
だけど──この物語はもしかしたらもっと前から始まっていたのかもしれない。
彼との出会いがなければ、今の私はいなかった。
風真に過去を語りながら、私はさらに古い記憶を脳裏に浮かべる。
辛くも愛しい日々。
あれは──私がまだ学生だった頃の話だ。
私の生き方は真っ当ではないと思う。




