第89話 始まる悪夢
寝静まった街の中を歩き、小さな森を抜ける。
辿り着いた家の可愛らしい玄関は、魔石の入ったランプで照らされていた。
私は扉の鍵を開け、そっと中に入った。
少し留守にしていただけなのに、目の前に広がる家の景色が遠い昔のように感じられる。
私は暗い廊下を歩き、誰もいないリビングに入った。
私は兄さんと一緒に朝食を食べた食卓や、休日に二人で寄り添って座ったソファを見つめる。
「……ねえ、麗」
私が声をかけると、暗がりから白い彼女がふわっと姿を現す。
「何かしら?」
「……どうして家に来たの?」
麗に誘われ、家まで戻ってきた。
悪魔になるために、私は彼女の言う通りについてきた。
「あなたが転化するために必要だからよ」
麗が月明かりに照らされながら、妖艶な笑みを浮かべる。
「転化する条件って知っているかしら?」
麗の問いに、どこか鈍化した気持ちを抱えながら考えて答える。
「えっと……闇が必要って麗が言ってたよね?」
すると麗は静かに頷いた。
相変わらず大きな薔薇で目は見えないけど、どこか楽しそうに微笑んでいる気がした。
「それも重要ね。
でも──もっと大切なものがある。
それはね……」
麗が私の傍までふわっと近寄り、私の胸に手を当てた。
「強く、強く積み重なった感情。
嫉妬、妬み、独占欲──どんなものでもいいわ。
大事なのは、己の欲を増幅させる感情があること。
強過ぎる感情は時として歪み、呪いとなる。
呪いにまで変化した感情こそ、闇を変質させ、転化を促すの」
心臓が──高鳴る。
「あなたの願いを歪ませて言えば、こうも言えるわ。
永遠に兄を苦しめたい。
永遠に私を想ってほしい。
永遠に誰にも渡したくない。
永遠に私だけのものにしたい……っ!」
彼女は両手を広げ、まるで舞台女優のように言い放つ。
否定したいけど……否定しきれない感情だ。
私の願いは、麗の言った通り私の醜い欲が絡んでいる。
「だから──あなたは兄の目の前で自殺しなさい」
「………え?」
その衝撃に、思わず一歩、後退る。
確かに転化するつもりの時点で、一度は死ぬ覚悟はしていた。
だって、悪魔になるためには今の命を捨てなくてはいけないと、授業で習ったことがあるから。
「大丈夫よ。あなたは転化を約束された身。
その肉体を捨てた時点で転化が始まり、悪魔としての生を受ける。
その瞬間に、強い感情を抱きなさい。
その感情が、悪魔としての強さを左右する。
あなたが願った存在になるためには歪んだ強い感情が必須。
だから──兄の前で命を絶ちなさい。
兄があなたを永遠に忘れないように。
兄の脳裏と心に、壊れそうなほどの傷を刻みなさい」
麗の声は甘く──そして、残酷だった。
「愛を囁き、その愛のために死ぬと教えてあげなさい。
それを成し遂げた瞬間──あなたの歪んだ感情が呪いへと昇華し、私の闇を喰らって悪魔となる。
……できるかしら?」
そうか……今の私では、悪魔になるための闇も、呪いになるほどの感情も足りていないんだ。
だから、麗が準備をしてくれている。
私の覚悟を試されている。
本当なら、こんなことは凄く怖いはずなのに……でも、何故だろう。
不思議と恐怖はなかった。
やっぱり私は、醜い感情を持った酷い妹なんだろう。
兄さんを傷付けたくない気持ちよりも、兄さんを独占したい気持ちの方が、今は強い。
「大丈夫よ、麗。
兄さんにちゃんと伝えるわね。私の気持ち。
優しい兄さんだから、きっといっぱい傷付いて、私を永遠に覚えてくれるわ」
麗はゆっくりと微笑む。
それを見て、これが正解なんだと確信さえしてしまう。
「ふふ、可愛い子ね。
あなたなら大丈夫よ。きっとやり遂げるわ」
麗がアーチ型の掃き出し窓を開き、冬の冷気が部屋に入り込む。
レースカーテンが月明かりを反射しながら揺れる。
「そろそろ役者も揃うわ。……私は近くで見守っているわ」
麗は月夜に消えるように姿を消した。
そして──そこに残されていたのは、銀色に輝く美しいナイフだった。
私はそれを手に取り、微笑んだ。
兄さん──早く私のところに来て。
私の愛を教えてあげる。
◆◆◆
縺れる足で、私は家へ向かっていた。
瑠璃が家にいるという確証はない。
それでも──呼ばれている気がした。
足を動かすたびに白いスカートが揺れる。
普段であれば、こんな女性姿で出歩かない。
でも、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。
重い足を必死に動かす。
しかし、足が縺れて転んでしまう。
「──っ!クソ……っ」
筋肉緩和剤なんて打ちやがって……!
私は震える手で身体を支え、どうにか再び立ち上がる。
家々の壁や木々に体重を預けながら、少しずつ前に進む。
「……ごめん、ごめんね……」
私は泣きながら歩き続けた。
──セレス。
彼は私の闇に蝕まれ過ぎて、もう長くない。
きっと朝には死んでしまう。
──龍。
大切な親友を、セレスを奪ってごめん。
いっぱい迷惑かけてごめん。
──アクア。
よく龍とセレスと私で馬鹿やって怒らせたね。
あの日々が懐かしい。
──ラファエル。
本当の家族のように私たちを想い、気に掛けてくれた人。
いつも叱ってくれて、ありがとう。
──母さん、父さん。
親不孝でごめんなさい。
瑠璃だけは、絶対に守るって誓った。
だから──それだけは守るね。
ふらつく身体を叱咤し、無理やり駆け始めた。
何度も転びながら夜の街を進み、やがて家に辿り着く。
家の中の明かりは灯されていないけど、玄関は開いていた。
私はそっと入り、壁に手をつきながらリビングへと向かう。
「……瑠璃……」
暗がりの中、私の愛しい瑠璃の後ろ姿が見えた。
綺麗な白銀の髪が風に靡く。
良かった。生きてた。無事だった。
私は彼女を抱き締めたくて手を伸ばした。
「来ないで、兄さん」
その声に足が止まる。
「瑠璃……?」
瑠璃は振り向くこともなく、月夜を見上げながら話し始めた。
「兄さん。私、全部知ってた。
堕天使のこと。発作のこと……堕天使実験のことも」
「そ、それは……っ」
一瞬にして心臓がバクバクと鼓動を速める。
何で?
今まで上手く隠していたはずだ。
それなのに、知っていた……?
「兄さんは変なところ真面目だもん。
何でも日記に残す癖、やめたほうがいいよ」
日記──その存在が脳裏に閃き、息が詰まる。
確かに私は日記に何でも書いていた。
そうやって気持ちを整理してきた。
まさか、読まれていたなんて……!
瑠璃は良い子で、日記を読むようなことはしないと思い込んで安心していた。
「それにね、自分のこともラファエル様から聞いたの。
短命のくせに……兄さんの幸せを奪ってた」
「そんなことない!」
私は焦って言葉を荒げる。
私は瑠璃に幸せを奪われたなんて思ったことは一度もない。
寧ろ、瑠璃の笑顔が私を救い続けていた。
瑠璃が笑ってくれるだけで、私は──
「でもそれは、兄さんの押し付けだったんじゃない?」
ズキッと胸に針が刺さるような痛みが走る。
「ち、違う……私は、ただ……君に……」
「兄さんはエゴばかり押し付けて、本当の私を見てくれなかった」
言葉が──出ない。
「兄さん……いいえ、聖明」
瑠璃が振り返った。
その表情は今までに見たことがない暗い顔だった。
そして、察してしまう。
彼女が今から言おうとしている言葉は聞いてはいけない。
「駄目だ!瑠璃、それだけは言っては──」
「私はあなたを愛してる。
兄としてじゃない、一人の女として聖明を愛しているの」
胸を刺す瑠璃の本音。
私は愕然として、立ち尽くしてしまった。
ずっと……知っていた。気付いていた。
最初は子供によくある恋心のようなものだった。
だから、放置してしまった。
でも……次第に瑠璃の感情が変化していった。
いつしか瑠璃の瞳には、兄に向けてはいけない熱い感情が宿っていた。
それを確信した時には、どう切り出せばいいか分からなくなっていた。
だって、私は瑠璃を、家族として──妹としてしか見られないから。
それ以前に、私には分からないんだ。
恋愛感情が──分からない。
「兄さんは、私の気持ちに応えられる?」
「わ、私は……」
瑠璃が大切なのに。
瑠璃の願いは叶えたいのに──これだけは駄目だと分かる。
「気付いてたんでしょ?
私が兄さんを好きだって。だけど気付かないふりをし続けた。
だから私も『良い妹』でいようとした。
でも──無理だった」
そこで初めて、瑠璃の右手にナイフが握られていることに気付く。
彼女はそのナイフを首に添えた。
「待って!駄目!それだけは……っ」
やめて……っ!やめてくれ!
それだけは……それだけはやめて!!!
震える足で一歩踏み出そうとすると、足に力が入らず転んでしまう。
「──っ!」
床に這い蹲りながら顔を上げ、瑠璃を見る。
「ごめんなさい、兄さん。
兄さんを傷付けたくなかった。でも……もう限界。
我儘な妹でごめんなさい。
出来の悪い妹でごめんなさい」
嫌だ、嫌だ……!
何でもするから、お願い……っ、瑠璃……!
「どうせ短い命なら、せめて兄さんの記憶の中で生き続けたい」
「やめてえええ!るりいいい!」
脳裏に過る赤ん坊の瑠璃。
私の頬に触れて、笑った──。
「──愛してる、兄さん」
白銀の刃が──走る。
視界が赤く染まり、身体が動かない。
まるで世界が止まったかのように、その情景が目に焼き付く。
瑠璃の身体がゆっくりと崩れ落ちる。
「うそ……だ……」
必死に床を這い、瑠璃のもとまで進む。
「る、り……」
震える手で瑠璃を抱き寄せる。
深く切られた首からは夥しい量の血液が流れ出る。
「止血を……」
血の温もりが指先から消えていく。
治癒魔法を展開しようとしても手が震えて、上手く構築できない。
「いや、だ……るり……」
力なき手が、すとんと落ちた。
──瑠璃が、死んだ。
一瞬にして世界から色が消えた。
「嫌だ!!!嘘だ!!!瑠璃……瑠璃!!!」
瑠璃の体が冷たい。
いつも感じていた温もりが遠い。
涙が溢れ、胸の奥で何かが砕ける音がした。
笑顔はもう──戻らない。
声にならぬ叫びが喉を裂く。
「あああああああああああ!!!」
その瞬間だった。
瑠璃の中から淡い光がふわっと飛び出て宙に浮く。
そして──あろうことか濃い闇が漂い、渦を巻き始める。
「……これ、は……転化……?」
そんな、嘘だ……っ!駄目だ!
悪魔に堕ちれば、永遠の苦しみが待つ。
それだけは──それだけはせめて、阻止する。
右手を闇の渦へ向け、詠唱を紡ぐ。
魔法陣が展開され、闇と交じり合う。
必死だった。
私とクロスの知識を総動員し、可能な限りの魔法で魂に干渉していく。
「魂の輝き──汚されぬ領域。
輝け、瞬け、生命の灯火……闇を照らす光──お願いっ!
魂だけは!魂だけでも返して!!!」
「乙女の決意に水を差すなんて──無粋よ」
知らない女性の声が聞こえた瞬間、私が展開していた魔法陣が全て砕かれた。
そして──背後から刃の閃きが走った。
熱い痛みが背を裂き、私は吐血する。
自身の胸を見ると鋭い刃が私を貫いていた。
「………え?」
「はじめまして、お兄さん。
いえ、今はお姉さんのほうが正しいのかしら?」
背中から刃物が引き抜かれ、私は瑠璃の身体を抱き締めたまま床に倒れる。
胸から血が広がり、白いワンピースが真っ赤に染まっていく。
私は視線だけ上に向けた。
そこには月明かりの中で妖艶に微笑む白い女。
女からは酷く淀んだ闇の気配を感じた。
「まさか……悪魔……?」
「ふふ、御名答。
私の名前は麗。あなたの妹──瑠璃の契約者よ」
想像もしていなかった存在の登場に私は頭の中が真っ白になる。
何で魔法都市に悪魔がいるの?
瑠璃の契約者?
瑠璃は悪魔と契約していた?
でも、いつ?
いつの間にそんなことが起きた?
だって、私はずっと瑠璃の周囲の闇に細心の注意を払って──。
頭に浮かんでは消える疑問の数々。
何が起きているか飲み込めず、ただ目の前の悪魔を見つめてしまう。
「これは『聖なる儀式』の真っ最中。
あなたの妹が悪魔に堕ちる──そんな儀式」
──こいつが、瑠璃を唆した。
「貴様が!貴様が瑠璃を!!!」
よくも私の大切な瑠璃に触れたな!?
よくも純粋な心を利用したな!?
よくも──!!!
「黙りなさい」
悪魔の瞳が暗く光る。
「先ほどの瑠璃の告白に、一片の嘘もなかったわ。
彼女の気持ちを無下にするような言葉は──許さないわよ」
その瞬間──瑠璃の魂に纏わりついていた闇が瑠璃の魂を隠し、人ぐらいの大きな球体になったかと思うと、ぱきりと亀裂が走った。
「瑠璃……!?」
「あら。あなたがちょっかいを出すから、割れたじゃない」
音を立てて殻が砕け、中から淡く光る半透明の瑠璃と、青白く輝く小さな光球が現れる。
「あらあら。これは想定外」
悪魔が半透明の瑠璃を抱き上げると、瑠璃の姿はその身体へ溶け込むように消えていった。
そして、青い光球は彼女の周囲をゆらりと漂った。
「……何を、した……瑠璃は……」
「瑠璃は悪魔に転化したわ」
今、悪魔の中へ消えた存在が、瑠璃の転化した姿だとでも言うの?
「でも、あなたが変な干渉をしたせいで、転化は中途半端。
魂が二つに裂けたわね。
まあ、大丈夫よ。
私は瑠璃と契約したもの。
しっかりと闇で満たし、素敵な悪魔としてあなたを迎えに行かせるわね」
……助けられなかった。
死ぬだけでなく、瑠璃を悪魔にまで堕としてしまった。
悪魔に転化するなんて……死よりも残酷だ。
「ついでに……あなたの闇も頂くわね。
瑠璃の転化で、私もかなり消耗したから」
私が動けずにいると、悪魔が私の顎を掴み、無理やり唇を奪った。
「ん……っ」
私の中で暴れていた闇がスッと消え、残酷なまでに心が軽くなってしまう。
唇を離すと、彼女は自分の唇を舐めた。
「また会いましょう。あなたの闇が溢れる頃に」
そう言うとスッと姿を消してしまった。
闇の気配が消え、静寂が訪れた。
腕の中には瑠璃の身体だけが残された。
私はもう温まることのない瑠璃を抱き締め続けた。
「ごめ……ごめんなさい……っ、瑠璃っ、瑠璃……っ」
誰か──助けて。




