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カゴノトリ ―Another Sky―  作者: 灯夜 雪
第七章 過去の記録

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第89話 始まる悪夢

寝静まった街の中を歩き、小さな森を抜ける。

辿り着いた家の可愛らしい玄関は、魔石の入ったランプで照らされていた。

私は扉の鍵を開け、そっと中に入った。


少し留守にしていただけなのに、目の前に広がる家の景色が遠い昔のように感じられる。

私は暗い廊下を歩き、誰もいないリビングに入った。


私は兄さんと一緒に朝食を食べた食卓や、休日に二人で寄り添って座ったソファを見つめる。


「……ねえ、麗(れい)」


私が声をかけると、暗がりから白い彼女がふわっと姿を現す。


「何かしら?」

「……どうして家に来たの?」


麗に誘われ、家まで戻ってきた。

悪魔になるために、私は彼女の言う通りについてきた。


「あなたが転化するために必要だからよ」


麗が月明かりに照らされながら、妖艶な笑みを浮かべる。


「転化する条件って知っているかしら?」


麗の問いに、どこか鈍化した気持ちを抱えながら考えて答える。


「えっと……闇が必要って麗が言ってたよね?」


すると麗は静かに頷いた。

相変わらず大きな薔薇で目は見えないけど、どこか楽しそうに微笑んでいる気がした。


「それも重要ね。

でも──もっと大切なものがある。

それはね……」


麗が私の傍までふわっと近寄り、私の胸に手を当てた。


「強く、強く積み重なった感情。

嫉妬、妬み、独占欲──どんなものでもいいわ。

大事なのは、己の欲を増幅させる感情があること。


強過ぎる感情は時として歪み、呪いとなる。

呪いにまで変化した感情こそ、闇を変質させ、転化を促すの」


心臓が──高鳴る。


「あなたの願いを歪ませて言えば、こうも言えるわ。

永遠に兄を苦しめたい。

永遠に私を想ってほしい。

永遠に誰にも渡したくない。

永遠に私だけのものにしたい……っ!」


彼女は両手を広げ、まるで舞台女優のように言い放つ。


否定したいけど……否定しきれない感情だ。

私の願いは、麗の言った通り私の醜い欲が絡んでいる。


「だから──あなたは兄の目の前で自殺しなさい」

「………え?」


その衝撃に、思わず一歩、後退(あとずさ)る。

確かに転化するつもりの時点で、一度は死ぬ覚悟はしていた。

だって、悪魔になるためには今の命を捨てなくてはいけないと、授業で習ったことがあるから。


「大丈夫よ。あなたは転化を約束された身。

その肉体を捨てた時点で転化が始まり、悪魔としての生を受ける。


その瞬間に、強い感情を抱きなさい。

その感情が、悪魔としての強さを左右する。

あなたが願った存在になるためには歪んだ強い感情が必須。


だから──兄の前で命を絶ちなさい。

兄があなたを永遠に忘れないように。

兄の脳裏と心に、壊れそうなほどの傷を刻みなさい」


麗の声は甘く──そして、残酷だった。


「愛を囁き、その愛のために死ぬと教えてあげなさい。

それを成し遂げた瞬間──あなたの歪んだ感情が呪いへと昇華し、私の闇を喰らって悪魔となる。


……できるかしら?」


そうか……今の私では、悪魔になるための闇も、呪いになるほどの感情も足りていないんだ。

だから、麗が準備をしてくれている。

私の覚悟を試されている。


本当なら、こんなことは凄く怖いはずなのに……でも、何故だろう。

不思議と恐怖はなかった。


やっぱり私は、醜い感情を持った酷い妹なんだろう。

兄さんを傷付けたくない気持ちよりも、兄さんを独占したい気持ちの方が、今は強い。


「大丈夫よ、麗。

兄さんにちゃんと伝えるわね。私の気持ち。

優しい兄さんだから、きっといっぱい傷付いて、私を永遠に覚えてくれるわ」


麗はゆっくりと微笑む。

それを見て、これが正解なんだと確信さえしてしまう。


「ふふ、可愛い子ね。

あなたなら大丈夫よ。きっとやり遂げるわ」


麗がアーチ型の掃き出し窓を開き、冬の冷気が部屋に入り込む。

レースカーテンが月明かりを反射しながら揺れる。


「そろそろ役者も揃うわ。……私は近くで見守っているわ」


麗は月夜に消えるように姿を消した。

そして──そこに残されていたのは、銀色に輝く美しいナイフだった。


私はそれを手に取り、微笑んだ。


兄さん──早く私のところに来て。

私の愛を教えてあげる。



◆◆◆



縺(もつ)れる足で、私は家へ向かっていた。

瑠璃が家にいるという確証はない。


それでも──呼ばれている気がした。


足を動かすたびに白いスカートが揺れる。

普段であれば、こんな女性姿で出歩かない。


でも、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。

重い足を必死に動かす。


しかし、足が縺れて転んでしまう。


「──っ!クソ……っ」


筋肉緩和剤なんて打ちやがって……!


私は震える手で身体を支え、どうにか再び立ち上がる。

家々の壁や木々に体重を預けながら、少しずつ前に進む。


「……ごめん、ごめんね……」


私は泣きながら歩き続けた。


──セレス。

彼は私の闇に蝕まれ過ぎて、もう長くない。

きっと朝には死んでしまう。


──龍。

大切な親友を、セレスを奪ってごめん。

いっぱい迷惑かけてごめん。


──アクア。

よく龍とセレスと私で馬鹿やって怒らせたね。

あの日々が懐かしい。


──ラファエル。

本当の家族のように私たちを想い、気に掛けてくれた人。

いつも叱ってくれて、ありがとう。


──母さん、父さん。

親不孝でごめんなさい。

瑠璃だけは、絶対に守るって誓った。


だから──それだけは守るね。


ふらつく身体を叱咤し、無理やり駆け始めた。

何度も転びながら夜の街を進み、やがて家に辿り着く。

家の中の明かりは灯されていないけど、玄関は開いていた。


私はそっと入り、壁に手をつきながらリビングへと向かう。


「……瑠璃……」


暗がりの中、私の愛しい瑠璃の後ろ姿が見えた。

綺麗な白銀の髪が風に靡く。


良かった。生きてた。無事だった。


私は彼女を抱き締めたくて手を伸ばした。


「来ないで、兄さん」


その声に足が止まる。


「瑠璃……?」


瑠璃は振り向くこともなく、月夜を見上げながら話し始めた。


「兄さん。私、全部知ってた。

堕天使のこと。発作のこと……堕天使実験のことも」


「そ、それは……っ」


一瞬にして心臓がバクバクと鼓動を速める。


何で?

今まで上手く隠していたはずだ。

それなのに、知っていた……?


「兄さんは変なところ真面目だもん。

何でも日記に残す癖、やめたほうがいいよ」


日記──その存在が脳裏に閃き、息が詰まる。

確かに私は日記に何でも書いていた。

そうやって気持ちを整理してきた。


まさか、読まれていたなんて……!


瑠璃は良い子で、日記を読むようなことはしないと思い込んで安心していた。


「それにね、自分のこともラファエル様から聞いたの。

短命のくせに……兄さんの幸せを奪ってた」


「そんなことない!」


私は焦って言葉を荒げる。

私は瑠璃に幸せを奪われたなんて思ったことは一度もない。

寧ろ、瑠璃の笑顔が私を救い続けていた。

瑠璃が笑ってくれるだけで、私は──


「でもそれは、兄さんの押し付けだったんじゃない?」


ズキッと胸に針が刺さるような痛みが走る。


「ち、違う……私は、ただ……君に……」

「兄さんはエゴばかり押し付けて、本当の私を見てくれなかった」


言葉が──出ない。


「兄さん……いいえ、聖明」


瑠璃が振り返った。

その表情は今までに見たことがない暗い顔だった。


そして、察してしまう。

彼女が今から言おうとしている言葉は聞いてはいけない。


「駄目だ!瑠璃、それだけは言っては──」


「私はあなたを愛してる。

兄としてじゃない、一人の女として聖明を愛しているの」


胸を刺す瑠璃の本音。

私は愕然として、立ち尽くしてしまった。


ずっと……知っていた。気付いていた。

最初は子供によくある恋心のようなものだった。

だから、放置してしまった。


でも……次第に瑠璃の感情が変化していった。

いつしか瑠璃の瞳には、兄に向けてはいけない熱い感情が宿っていた。


それを確信した時には、どう切り出せばいいか分からなくなっていた。


だって、私は瑠璃を、家族として──妹としてしか見られないから。

それ以前に、私には分からないんだ。


恋愛感情が──分からない。


「兄さんは、私の気持ちに応えられる?」

「わ、私は……」


瑠璃が大切なのに。

瑠璃の願いは叶えたいのに──これだけは駄目だと分かる。


「気付いてたんでしょ?

私が兄さんを好きだって。だけど気付かないふりをし続けた。

だから私も『良い妹』でいようとした。

でも──無理だった」


そこで初めて、瑠璃の右手にナイフが握られていることに気付く。

彼女はそのナイフを首に添えた。


「待って!駄目!それだけは……っ」


やめて……っ!やめてくれ!

それだけは……それだけはやめて!!!


震える足で一歩踏み出そうとすると、足に力が入らず転んでしまう。


「──っ!」


床に這い蹲(つくば)りながら顔を上げ、瑠璃を見る。


「ごめんなさい、兄さん。

兄さんを傷付けたくなかった。でも……もう限界。

我儘な妹でごめんなさい。

出来の悪い妹でごめんなさい」


嫌だ、嫌だ……!

何でもするから、お願い……っ、瑠璃……!


「どうせ短い命なら、せめて兄さんの記憶の中で生き続けたい」

「やめてえええ!るりいいい!」


脳裏に過る赤ん坊の瑠璃。

私の頬に触れて、笑った──。


「──愛してる、兄さん」


白銀の刃が──走る。

視界が赤く染まり、身体が動かない。

まるで世界が止まったかのように、その情景が目に焼き付く。


瑠璃の身体がゆっくりと崩れ落ちる。


「うそ……だ……」


必死に床を這い、瑠璃のもとまで進む。


「る、り……」


震える手で瑠璃を抱き寄せる。

深く切られた首からは夥しい量の血液が流れ出る。


「止血を……」


血の温もりが指先から消えていく。

治癒魔法を展開しようとしても手が震えて、上手く構築できない。


「いや、だ……るり……」


力なき手が、すとんと落ちた。


──瑠璃が、死んだ。


一瞬にして世界から色が消えた。


「嫌だ!!!嘘だ!!!瑠璃……瑠璃!!!」


瑠璃の体が冷たい。

いつも感じていた温もりが遠い。


涙が溢れ、胸の奥で何かが砕ける音がした。



笑顔はもう──戻らない。

声にならぬ叫びが喉を裂く。


「あああああああああああ!!!」



その瞬間だった。

瑠璃の中から淡い光がふわっと飛び出て宙に浮く。


そして──あろうことか濃い闇が漂い、渦を巻き始める。


「……これ、は……転化……?」


そんな、嘘だ……っ!駄目だ!


悪魔に堕ちれば、永遠の苦しみが待つ。

それだけは──それだけはせめて、阻止する。


右手を闇の渦へ向け、詠唱を紡ぐ。

魔法陣が展開され、闇と交じり合う。


必死だった。

私とクロスの知識を総動員し、可能な限りの魔法で魂に干渉していく。


「魂の輝き──汚されぬ領域。

輝け、瞬け、生命の灯火……闇を照らす光──お願いっ!

魂だけは!魂だけでも返して!!!」


「乙女の決意に水を差すなんて──無粋よ」


知らない女性の声が聞こえた瞬間、私が展開していた魔法陣が全て砕かれた。


そして──背後から刃の閃きが走った。


熱い痛みが背を裂き、私は吐血する。

自身の胸を見ると鋭い刃が私を貫いていた。


「………え?」


「はじめまして、お兄さん。

いえ、今はお姉さんのほうが正しいのかしら?」


背中から刃物が引き抜かれ、私は瑠璃の身体を抱き締めたまま床に倒れる。

胸から血が広がり、白いワンピースが真っ赤に染まっていく。


私は視線だけ上に向けた。

そこには月明かりの中で妖艶に微笑む白い女。


女からは酷く淀んだ闇の気配を感じた。


「まさか……悪魔……?」


「ふふ、御名答。

私の名前は麗(れい)。あなたの妹──瑠璃の契約者よ」


想像もしていなかった存在の登場に私は頭の中が真っ白になる。


何で魔法都市に悪魔がいるの?

瑠璃の契約者?

瑠璃は悪魔と契約していた?


でも、いつ?

いつの間にそんなことが起きた?

だって、私はずっと瑠璃の周囲の闇に細心の注意を払って──。


頭に浮かんでは消える疑問の数々。

何が起きているか飲み込めず、ただ目の前の悪魔を見つめてしまう。


「これは『聖なる儀式』の真っ最中。

あなたの妹が悪魔に堕ちる──そんな儀式」


──こいつが、瑠璃を唆した。


「貴様が!貴様が瑠璃を!!!」


よくも私の大切な瑠璃に触れたな!?

よくも純粋な心を利用したな!?

よくも──!!!


「黙りなさい」


悪魔の瞳が暗く光る。


「先ほどの瑠璃の告白に、一片の嘘もなかったわ。

彼女の気持ちを無下にするような言葉は──許さないわよ」


その瞬間──瑠璃の魂に纏わりついていた闇が瑠璃の魂を隠し、人ぐらいの大きな球体になったかと思うと、ぱきりと亀裂が走った。


「瑠璃……!?」

「あら。あなたがちょっかいを出すから、割れたじゃない」


音を立てて殻が砕け、中から淡く光る半透明の瑠璃と、青白く輝く小さな光球が現れる。


「あらあら。これは想定外」


悪魔が半透明の瑠璃を抱き上げると、瑠璃の姿はその身体へ溶け込むように消えていった。

そして、青い光球は彼女の周囲をゆらりと漂った。


「……何を、した……瑠璃は……」

「瑠璃は悪魔に転化したわ」


今、悪魔の中へ消えた存在が、瑠璃の転化した姿だとでも言うの?


「でも、あなたが変な干渉をしたせいで、転化は中途半端。

魂が二つに裂けたわね。


まあ、大丈夫よ。

私は瑠璃と契約したもの。

しっかりと闇で満たし、素敵な悪魔としてあなたを迎えに行かせるわね」


……助けられなかった。

死ぬだけでなく、瑠璃を悪魔にまで堕としてしまった。


悪魔に転化するなんて……死よりも残酷だ。


「ついでに……あなたの闇も頂くわね。

瑠璃の転化で、私もかなり消耗したから」


私が動けずにいると、悪魔が私の顎を掴み、無理やり唇を奪った。


「ん……っ」


私の中で暴れていた闇がスッと消え、残酷なまでに心が軽くなってしまう。

唇を離すと、彼女は自分の唇を舐めた。


「また会いましょう。あなたの闇が溢れる頃に」


そう言うとスッと姿を消してしまった。

闇の気配が消え、静寂が訪れた。


腕の中には瑠璃の身体だけが残された。

私はもう温まることのない瑠璃を抱き締め続けた。


「ごめ……ごめんなさい……っ、瑠璃っ、瑠璃……っ」


誰か──助けて。

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