第87話 穢れた欲望
私は夜の街を走った。
肺が焼けるように熱くなっても、足が縺れても、止まらなかった。
私にできること──それは兄さんを裏切る行為だ。
でも、裏切らないと、兄さんを救えない。
このままでは兄さんは私が消えても未来永劫、闇で苦しむことになる。
「はあ……はっ、着いた……っ」
辿り着いたのは、昨晩訪れた施設だった。
昨晩は嫌な予感がして、ラファエル様の目を掻い潜ってカゴノトリから飛び出していた。
一度家に帰り、兄さんが大切にしていたパニョくんを持ち出して兄さんが捕まっている場所を探したの。
パニョくんは勝手に動き回るテディベアさんだ。
不思議と兄さんの傍に行こうとする習性があるため、パニョくんを使えば兄さんがいる場所が分かると思ったの。
そうしたら、本当に見つけられた。
そんなことを思い出しながら、私は恐る恐る中に入っていく。
崩れた壁、焦げた匂い。
空気にはまだ薄く闇が漂っているのが分かる。
奥に進んでいくと兄さんが暴れて天井が崩れた大きな部屋に辿り着いた。
天井は辛うじて枠組みが残っており、隙間からは綺麗な夜空が見える。
そして、ラファエル様が言っていたように、空間には闇の残滓と思われる霧が立ち込めていた。
「闇がまだ残留してて良かった……」
色濃い闇の霧に手を伸ばし、そっと触れる。
途端に闇の刻印が皮膚の中に浮かび上がった。
「──っ!本当に……闇に耐性がないのね……」
ズキズキと痛む指先を擦りながら、瓦礫を掻き分けて目当ての物を探す。
すると、瓦礫の下に埋もれた機器と共に一冊の古びた本を見付ける。
「あった!」
私は本を手に取り、表紙を確かめる。
黒革の表紙に、禍々しい魔法陣が刻まれた怪しい本。
悪魔教徒は悪魔を召喚するための教典を持っていると聞いたことがあった。
だから、あるんじゃないかと思って探していた。
「良かった。
見つからなかったら別の方法を考えなきゃいけなかったものね」
私はその本を躊躇もなく開き、パラパラとページを捲る。
すると、悪魔を召喚する方法が記載されたページを見つける。
──これを使えば、悪魔を呼べる。
胸の奥にざらつく決意を抱え、深呼吸をする。
その瞬間、背後から冷たい気配を感じた。
私は驚いて振り向く。
「可愛らしいお嬢さんね。私を呼ぼうとしていたのかしら?」
そこには真っ白な肌と髪をした一人の女性がいた。
髪は結い上げられ、目元を隠すように大きな赤い薔薇が飾られている。
そして、上品な笑みを零す女性の唇は真っ赤で一際目を引いた。
どこか現実味がなく、幻想的な人だと思った。
この人、どこかで見たことがある気がする。
すると、ふと病院ですれ違った女性を思い出した。
もしかして……兄さんがピンチなのを知らせてくれた人?
私はそれを確認するように言葉を漏らす。
「……あなた、この間、病院で……」
「私の名前は麗。正真正銘の──悪魔よ」
心臓が跳ねる。
こんな幻想的な人が、悪魔なの?
もっと禍々しい見た目の存在かと思っていた。
「な、何で悪魔がここに!?」
「変な子ね。
召喚しようとしておいて、いざ出会ったら警戒するなんて」
息を呑む私を、彼女は楽しげに眺めているようだった。
「まぁいいわ。私に用事があるんでしょ?
言ってごらんなさい。ただし、代償は高いわよ?」
──これは、絶好のチャンスだ。
ここで私の願いが叶えば、兄さんを闇から解放できるかもしれない。
私は呼吸を整え、震える声で願いを口にした。
「私を──悪魔にしてほしいの」
一瞬、時が止まった気がした。
麗の笑みが固まり──次の瞬間、喉の奥から笑い声が響いた。
「ふふ……あははは!
長く生きてきたけど、そんなこと言う子、初めてよ!」
あまりに笑うものだから、急に私が馬鹿なことを言っているように感じて恥ずかしくなる。
「本気なんだから!」
すると麗と名乗った悪魔は笑うのをやめ、興味深そうに身を屈めて私を見る。
「それで?どうして悪魔になりたいの?」
彼女の目は薔薇のせいで見えないけど、鋭い目で見つめられている気がした。
「お嬢ちゃんじゃない!瑠璃よ!瑠璃・紅!」
「あら、東洋名なのね。面白いわね。名前に二つの色がある」
どこか揶揄う(からかう)ような雰囲気の悪魔。
私は決意を知ってもらうように、しっかりと言葉を放った。
「兄さんに嫌われてもいい!
私は悪魔にならなきゃいけないの!
悪魔の糧は魂──もしくは闇。
なら、私が兄さんの闇を引き受ける。
私が悪魔になって、兄さんを闇から救い出すの!
そうすれば、きっと発作に苦しむ事はなくなる。
そうすれば、きっと普通の生き方を選べるようになる」
麗の瞳が妖しく細められる。
「あの可哀想な堕天使ね。知っているわよ。
一番若い堕天使で、一番美味しそうって悪魔の間では有名だもの。
愚かで、哀れで、真っ直ぐで、歪んでて──好みよ」
その言葉に私は息を呑む。
ふざけたような雰囲気でも、やっぱり悪魔なんだ。
怖くなり、変な汗が肌を伝う。
「──いいわ。面白そうだから契約してあげる」
意外な言葉に私は驚いてしまう。
「え……!いいの!?」
すると彼女は、私の口を塞ぐように人差し指をそっと私の唇に当てた。
「ただし──代償は大きいわ。
悪魔に転化するということは、魂は永遠に輪廻から外れ、大地に帰れない。
人の魂を喰らい、人々を傷つけ、闇の中で生き続ける。
精神は歪み、今のあなたは、あなたではなくなる。
そして何より──あなたは不老不死の兄の闇を永遠に吸い続ける。
一方で兄は、悪魔になった妹の業を背負い、苦しみ続けることになる。
その苦悩に塗れた闇が、私への代償よ」
胸が締めつけられる。
でも──それで兄さんが闇から解放されるなら、迷わない。
私が悪魔になれば兄さんが苦しむのも分かっている。
でも、その苦しみも私が食べちゃえばいい。
兄さんが私にしてくれたように、気付かれないように闇を私が引き受ける。
眠っている間に食べてしまえばきっと気付かれない。
そうすればきっと、最後には兄さんは幸せになれる。
闇に怯えることなく、私をいつかは忘れ、穏やかな日々を過ごせるようになる。
だから、私は選ぶの。
「分かっているわ。兄さんを苦しめることになるって。
でも、それはきっと最初だけ。
兄さんは不老不死だから、傷もいつかは癒える。
私のことも思い出になる。
それよりも兄さんを闇から守ることが大事。
それに──これ以上、悪い人たちに兄さんを傷付けられたくない!
他の誰にも兄さんを傷つけさせない!
悪魔になって、私が密かに兄さんを守るの!
それにね……私は、本当は凄く我儘なの。
本当は兄さんを取られたくない。
ずっと一緒にいたい。
憎まれても良いから、兄さんの傍に居続けたいの!」
これは、私の一番醜い感情だ。
さっき諦めたはずなのに、どうしてこんなにも胸が痛いの?
兄さんに幸せになってほしいのに、兄さんを諦めきれない。
兄さんは私のことを妹としか見てくれない。
分かりきっていることなのに、兄さんに一人の女性として愛してほしいという欲が消えてくれない。
だから──せめて、違う形で傍にいたいと願ってしまっている。
悪魔になりたい理由の半分が、私の醜い欲だ。
兄さんは優しいから、もしかしたら悪魔になっても受け入れてくれるかもしれない。
もしかしたら、今度は一人の女性として見てくれるかもしれない。
そんな醜い欲が、私の中には間違いなくある。
兄さんを救いたい気持ちは嘘じゃない。
でも──それだけじゃない。
兄さん、ごめんなさい。
本当は私は凄く醜くて、欲深い女なの。
「……ふふ」
麗は笑みを深め、手を差し伸ばしてくる。
「いいわ。私はあなたを気に入ったわ。さあ──手を掴んで」
私は恐る恐る、その手を掴んでしまった。
「契約は簡単。あなたの魂に契約書を刻むだけ。
ただ──あなたは闇が少な過ぎる。
転化に必要な闇が不足しているの。
だから一時的に私の闇をあなたに注ぐわ。
あなたは私の闇に触れて、自身の心の闇を──肥大化させなさい」
私たちは向かい合い、手を取り、額を合わせる。
「さあ、汚い感情を曝け出しなさい。
それこそが今のあなたに必要な闇よ」
繋いだ手から麗の闇が侵食してきて、私の心が一気にざわつくのが分かる。
兄さんが好きで好きで堪らない。
兄さんを私だけのものにしたい欲が押し寄せてくる。
「私は……兄さんが好き……大好き。
兄さんと一緒にいられれば……それでいい。
私は……一人の女として兄さんに、愛されたい……」
私の欲望が勝手に口から溢れ出る。
長く封じてきた思いが、鍵を外されるように解放される。
胸の奥で何かが裂け、私の胸に魔法陣が展開し、光を放った。
鈍い痛みと共に、何かが書き換わっていく感覚が身体を支配していく。
「にい、さん……」
──不思議と涙が零れた。
やがて光が収まると、麗は静かに手を離した。
「これで契約は成された。
闇が満ちれば、あなたは確実に悪魔に転化する。
──さあ、瑠璃!
新たな生を受けるための最高の舞台を準備しましょう!」
私は心が鈍化する感覚を覚えながら、麗の手を取った。
ああ──兄さんが欲しい。




