第86話 さようなら
──闇魔法医療科カゴノトリ病棟内、地下の封印室。
病院に訪れる人がいなくなる夕方。
院内は静まり返っていた。
私は決意を胸に兄さんが眠る部屋へと足を踏み入れていた。
そこは普通の部屋とは違い、カゴノトリの中でも堕天使さん達にとって神域とされる大切な場所。
堕天使さんが封印されてしまった際に、穏やかに眠れるように準備したとされる空間。
私は堕天使さんたちの許可を得て入っている。
円形の部屋で、天井はとても高い。
中央へと続く通路と中央部分を除き、背丈よりも大きな琥珀色の魔石が幾つも設置されている。
その上、見上げれば、天井からも同じ魔石が中央へ向かって伸びるように連なり、そこからはマナの粒子がキラキラと砂のように舞い落ちては消え、部屋自体を淡く光らせる。
この部屋全体が息づいているように全ての魔石が呼応し、心臓の鼓動のようにトクントクンと輝きを放っている。
そして、部屋の中心には──
眠りにつく堕天使さんたちが入った美しく透明感がある結晶が四つ。
その内の一つに兄さんの姿があった。
この結晶は私が簡易的に兄さんを封印した後、ラファエル様が上から封印を重ねたもの。
兄さんは身に余る闇を身体に飲み込んだせいで闇が抑えきれなくなっていた。
結晶の中を見ると私が封じた光の帯に包まれながらも、漏れ出した真っ赤に光る闇の薔薇が結晶内で咲き乱れ、兄さんを守るように優しく包んでいる。
その中で兄さんは、穏やかな表情で眠っている。
「……兄さん」
泣きそうになったけど、私は精一杯笑顔を作った。
そして、いつものように、兄さんに今日あった出来事を語り始めた。
「今日ね、たくさんのことを聞いたよ!
私がエクスシアで──兄さんがずっと守ってくれていたこと。
その裏で、兄さんがずっと……苦しんでいたこと。
兄さん……いっぱいありがとう。
兄さんのお陰で普通の生活を送れてたんだよ。
学院に行って、友達といっぱいお話して、一緒に勉強して……家に帰れば大好きな兄さんが優しく出迎えてくれる」
声は震えていた。
それでも、はっきりと告げる。
「幸せだった。
でも──それは兄さんを犠牲にし続けていた日々だった。
兄さん!次からは一人で悩まないで!
兄さん……もっと皆を頼って!」
でも、きっと……兄さんは不器用だから、頼ることが難しかったんだ。
父さんが仕事に行っちゃう時だって、我儘一つ言わず、笑顔で送り出していた。
今思えばおかしいことばかりだ。
父さんがあまり家に帰らなくなった時なんて、兄さんもまだ十歳だった。
なのに当然の顔をして、私の面倒を見て、母さんのように優しく振る舞い、父さんのように頼り甲斐がある人だった。
兄さんは、子供で居られた時間さえなかったのかもしれない。
私は結晶に手を触れ、兄さんを見上げる。
触れた結晶はひんやりとして、温かみを感じない。
こんな時に告げるのは卑怯だけど、私は胸に秘めた感情を告白する。
「兄さん、聞いてほしいことがあるの。
私ね、兄さんが大好き。
誰よりも好きなの。
それは……家族に向けていい感情じゃない。
私は一人の女性として兄さんが好きだった。
本当は、兄さんと一緒に幸せになりたかった。
でも、それは叶わない夢だった。
それ以上に、家族として一緒にいることすら……一番難しいことだったんだね」
私の淡い恋心は、ここでおしまい。
そして──家族としてもここでお別れするの。
私は有り余る魔力を結晶に一気に流し込む。
ラファエル様よりも魔力量が多いみたいだから、いっぱい流し込めば壊せるかもしれない。
それだけなら魔法が苦手な私でもできる。
すると予想通り、結晶にビシビシと亀裂が走り、パリンという音と共に結晶が弾け飛ぶ。
そして、闇の薔薇が舞い上がり、私の封印も一緒に消え、光の帯が解かれる。
中からは母さんにそっくりで、可愛らしい女性姿の兄さんが真っ白なワンピースに身を包み、ふわっと私の方へ倒れ込んでくる。
私は兄さんが倒れてしまう前に手を伸ばし、受け止めて、その場にしゃがんだ。
私は座ったまま兄さんの頭をぎゅっと抱きしめる。
やっぱり兄さんは女性として生きるべきだ。
こんなにも可愛らしくて綺麗な兄さん。
きっと……兄さんを幸せにしてくれる人がいる。
本当ならセレスさんと幸せになってほしかった。
セレスさんは私に隠しているつもりだけど、兄さんのことが大好きなのは有名だもん。
きっとセレスさんなら兄さんのことを守ってくれた。
一人の女性として、兄さんを愛してくれた。
幸せにしてくれた。
でも……それさえも、もう叶わないんだね。
もっと私が早く気付いていれば良かった。
「……兄さん。今までごめんね。
誰よりも兄さんの幸せを願ってるのに、誰よりも兄さんを不幸にするのは私なの。
兄さん……兄さん……ごめんなさい……っ!
兄さんの幸せを奪って、ごめんなさい!」
泣かないって決めていたのに涙がボロボロ流れる。
私はどうにか泣くのを止め、袖で必死に顔を拭く。
そして、眠る兄さんに精一杯の笑顔を向けた。
「だから──さようなら」
今だけは──許してね。兄さん。
私は兄さんの唇に、そっと口付けを落とす。
唇を離すと、私は兄さんの頬を指で撫でた。
もう……行かなくちゃ。
私は兄さんを床に横たえ、背を向けた。
封印室を出て角を曲がる。
すると──病室で眠っていたはずのセレスさんが壁に寄り掛かり、待ち構えていた。
その横には龍さんも座っている。
セレスさんの顔を見ると右目があった場所には闇で生成されてしまった赤い薔薇が花を開き始めていた。
きっと……セレスさんはもうすぐ死んでしまう。
「瑠璃。お前はそれでいいのか?」
唐突にセレスさんがそんなことを聞いてくる。
きっと、セレスさんは分かってるんだ。
私が今から何をしようとしているのか。
「へへ……もう決めたことなんです!
兄さんのために、私にしかできないことをするの!」
今度は私の番。
私が兄さんを自由にする番。
すると龍さんが震える声で呟いた。
「……嫌になるね。兄妹揃ってそっくりだ」
龍さんにも辛い思い、させちゃうな。
龍さんは幼い頃から一緒にいてくれた、もう一人のお兄ちゃんみたいな存在。
いつも元気で、悪戯好きで、一緒に悪さをしてくれるちょっぴり子供っぽい私の龍兄さん。
私はいつものようにニコッと笑ってみせた。
「それ、きっと褒め言葉ね!」
龍さんは目元を隠し、声を詰まらせた。
龍さん……ごめんね。
「……行け。悔いのない人生を」
セレスさんは、そう言い切ると龍さんの腕を掴んで立ち上がらせ、兄さんがいる封印室に足を向ける。
私は二人の背に向かって叫んだ。
「セレスさん!龍兄さん!
どうしようもない兄さんをよろしくね!
──さようなら!」
最後ぐらい笑顔でいよう。
私は泣きたくなる気持ちを抑え込み、精一杯の笑顔で言った。
セレスさんはチラッと私を見て悲しそうな顔で笑ってくれた。
──行こう!
私ができることをするために!
私は二人に背を向け、駆け出した。
◆◆◆
「……何で、お前らはそんなにも強いんだよ……っ」
俺は耐えきれず、その場で泣いていた。
きっと瑠璃ちゃんは消えるつもりだ。
そんなこと、俺にだって分かっちまう。
泣いている俺の背をセレスが叩く。
「強いんじゃねえ。
ただ──必死に生きてるだけだ」
そう言って俺の腕を引っ張り封印室に入る。
封印室の中央では、堕天使たちが眠る結晶に囲まれ、聖明が守られるように眠っていた。
まるで天から舞い降りた聖なる存在がそこにいるかのように、聖明は魔石の光に照らされている。
セレスがゆっくり歩み寄り、聖明をそっと抱き上げる。
「……この馬鹿を運ぶぞ。ここからが大変だ」
そう……瑠璃ちゃんの封印が解かれた今、聖明は目を覚ます。
目を覚ました聖明が、現状を知れば何をしでかすか分かったもんじゃない。
だから、俺たちで止めるしかない。
「……分かってる」
俺は目元を手で拭い、しっかり前を向いた。
俺はセレスの横に並び、一緒に歩いた。
きっと……こうしてセレスと歩けるのも、これが最後だ。
静かな廊下に、二人の足音だけが響いた。




