第83話 名前で呼んで
薄暗い空間の中、蓄音機がザラザラと不愉快な音を立てている。
私は目を開け、ゆっくりと蓄音機まで歩く。
私はそっと蓄音機の針を正しくセットし直す。
すると穏やかな曲と共に映像が流れ始めた。
私は白いワンピース姿のまま、立って映像を見上げた。
「名もなき堕天使よ。
今日も好き勝手暴れていたと聞いているぞ?」
映し出されたのはミカエルの姿。
今では足元まで届く長い髪も、この頃は肩より少し長いくらいだった。
きっと相当昔の記憶なんだろう。
「ミカエル。それは言い掛かりというものだよ」
返事をしたのは私の恩人──クロスロード・ブラッティ・ナイトメアだった。
髪は私が知っているものとは違い、黒と白が混じっている。
「よく言う。
お前が民をあちこちでぶっ倒したってガブリエルが怒っていたぞ」
転がっているクロスの横に座り、どこか愉快そうに話すミカエル。
そんなミカエルに対し、クロスも愉快そうに笑う。
「あはは!仕方ないじゃないか!
あいつらが不死の私を食べたら不死を得られる!
とか、意味の分からないことを言うんだ。
正当防衛ってやつだよ」
クロスは勢いよく飛び跳ねるように起き上がり、周囲を見渡した。
高台から見渡す大自然は、緑が豊富で、どこまでも美しい自然が広がっている。
そんな彼の背後で、座ったまま呆れたようにミカエルは言い放つ。
「お前の場合は過剰防衛ってやつだ。
幾ら法制度が整っていないとは言え、殺人は罪だ」
すると先程まで呑気な声で話していた男の声に、真剣な響きが混じる。
「……仕方ないだろ。
こっちだって生きたまま解体されるのだけは勘弁だ」
低く──冷たい声。
その後ろ姿を『私』は、じっと見ていた。
そして、自虐的な笑いが零れた。
「天地戦争が終わって五百年……まだ世界は混沌としており、人に纏まりはない。
我ら天使が悪魔を倒すべく、この大地で戦争をしていたせいで人間の文明が滞ってしまった。
我々が大地に残り、その罪を償わなければならない」
ミカエルは真剣な顔で話すと遠い目で空を見上げた。
「お前たち堕天使にも悪いことをしたな。
お前たち堕天使の起源は、我らと同族である天使が、人間の手によって闇を扱う兵器にされたことにある。
兵器として利用されることを拒んだ同族は、その魂を裂いて消える道を選んだ。
しかし──裂かれた魂は消滅することなく、新たな命として生まれた。
それがお前たち──闇を扱う天使だ。
元の魂が天使由来のせいか、我らと同じ魂の理を持つ。
その結果、お前たちは中途半端な不老不死まで受け継ぐことになった。
謂わばお前たち堕天使は、我ら天使の兄弟であり、子供のような存在だ」
新たに大地に生まれた闇を司る天使。
彼らは我々天使が生み出した罪の証のようなものだろう。
「そんな謝罪いらないかな」
「は?」
名もなき堕天使は振り返り、その林檎のように鮮やかな瞳で私を捉えた。
「私は私だ!別にこの生に何の不満もない!」
彼は目を細めて笑う。
「まあ、もし罪悪感を抱いてるっていうのであれば──お前たちの国創りに一枚噛ませろ!
私と同じような堕天使たちが人に差別され、どこかで泣いているかもしれない。
そんなのつまらないじゃないか!
折角、生まれたんだ!
どうせなら一緒に楽しみたい!
私は──堕天使を集めて、堕天使たちと楽しく笑って生きてやる!
それを手伝え!ミカエル!」
この堕天使は子供のように無邪気に笑い、無茶苦茶なことを言う。
私はあまりに可笑しくなり声を出して笑ってしまった。
「あははははは!」
「あー!!!笑ったな!」
堕天使は憤慨したように手足をジタバタさせる。
「いや、何……『国創りに噛ませろ』と言いながら、『手伝え』とは無茶苦茶言う奴だなと思ってな。
──良いだろう。
であれば、お前は国の闇を担え!
私はお前たちを守り、他の種族に脅かされることなく生きられる場所を与えてやる!
……それでどうだ?」
穏やかな風が二人の間を吹き抜けた。
そして──赤い瞳の堕天使が笑う。
「──乗った」
二人は互いにクスッと笑い合った。
「──よし。
では私はガブリエルとラファエルを説得するところから始めなくてはな」
「その前に──ミカエル。もう一つお願いがあるんだ」
堕天使が茶目っ気たっぷりにウィンクし、強請るように両手を合わせる。
「何だ?変な願いなら断るぞ」
私は腕を組み、呆れたように尋ねる。
すると堕天使は自身の胸に手を当てしっかりとした声で言う。
「私に名前をくれないか?」
「は?」
唐突な相談だった。
確かにこの堕天使はよく話しているけど、名前を知らない。
毎日私のところに来ては軽口を叩き、話したいことだけ話して消える。
そんな男だ。
だからこそ『名もなき堕天使』と呼んでいたが、本当に名がないとは想定外だった。
「私は両親に捨てられ、色んな人の手に渡り、それでも何とか生きてきた。
その度に適当な名前で呼ばれていた気がするけど、正直どれもしっくりこなかった。
どうせなら、今後は私は私だと言える名前を名乗りたい」
私はこの堕天使の碌でもない噂の数々を思い出す。
この堕天使は人に狙われてきたとはいえ、あちこちで流血事件を起こし、人によっては悪夢の体現者とまで呼ばれている男だ。
「そうだな……では、こう名乗るといい。
クロスロード・ブラッティ・ナイトメア」
「げ!絶対によくない意味じゃないか!」
察したようにクロスが喚く。
その反応にミカエルは満足そうに笑いながら名前の由来を適当に述べる。
「お前はどこか血腥いし、悪夢みたいな男らしいからな。
ま、色んな人の道が交わる存在っていう意味でちょうど良いんじゃないか?」
「適当だな!」
「なっ!?」
そう言ってクロスはミカエルに飛び付き、二人揃ってゴロゴロと草原に転がる。
「くっ!いきなり何を──」
顔を上げようとすると、クロスが私に跨って笑顔で見下ろしていた。
「──ったく、仕方ないな!
私は今日からその名を名乗ることにするよ!
ちゃんと名前で呼べよ!ミカエル!」
眩しいくらいの笑顔で話す男に、目を奪われてしまった。
「クロス。お前は──」
◆◆◆
ミカエルの目から涙が零れた。
これが──一人の堕天使がクロスと呼ばれた瞬間か。
ミカエルの気持ちが私に伝わる。
気兼ねなく軽口を叩き、心から笑って話せる唯一の存在だったんだ。
「……ミカエル」
私はミカエルの頬にそっと触れる。
そして──私は伝える。
「私は──聖明・紅。
父の名はイヴァン・紅。母の名は葵・紅。
そして、母のお腹の中で死にかけていた私を救ってくれたのが──恩人であり、私のもう一人の父。
それがクロスロード・ブラッティ・ナイトメアだ」
ミカエルの指先から力が抜ける。
そして、涙を零しながら『私』を見つめた。
「……もう……君はいないのか……?」
「……いない」
「君との日々は……もう戻らないのか……?」
「クロスとの日々は、戻らない」
ミカエルの腕がぶらんと下がり、私の上から退いてくれた。
私は軽く咳をしながら立ち上がり、ミカエルを真っ直ぐに見つめる。
「ミカエル。
確かにクロスはもういない。
でも──始めからやり直せないだろうか?」
「何……?」
私は手を前に出す。
きっとクロスは望んでいる。
きっと彼もミカエルと一緒にいた日々は楽しかったはずだ。
「今度はクロスじゃなく──私として、聖明として、友達になってほしい。
ミカエルに名前で呼んでほしいんだ」
私はきっと、困ったような顔で笑っているんだと思う。
ずっとどこか啀み合ってきたけど、本当はずっと私を見てほしかった。
それに──私もミカエルを大天使の一人ではなく、ミカエルとしてちゃんと見てみたいとも思ったんだ。
ミカエルは驚いた表情をした後、どこか嬉しそうに、だけど呆れたように笑った。
「お前は……本当に変わらないな。──聖明」
初めて、名前を呼んでくれた。
ミカエルが私の手を握ろうと、自らの手を差し伸べてくれた。
その瞬間だった。
指先から急激に闇の刻印が広がり、ミカエルを飲み込み始める。
「ミカエル!?」
「くっ!せいめ……近寄ってはいけな……!ああああ!」
ミカエルが両膝をつき、自らの身体を抱きしめるように両腕を回す。
そして、ミカエルを中心に夥しい量の闇が霧状となり、一気に広がる。
その勢いが強く、私は風圧に押されてしまう。
マズイ!こんな濃い闇では大天使であろうと消滅しかねない!
私は闇の茨で掻き分けるように霧を蹴散らしながら手を伸ばした。
「ミカエル!手を出して!私がミカエルの闇を抑える!」
絶対に助ける!
クロスの友人を、私の友を失ってたまるか!
「く……っ、寄せ……聖明……。
これでも、大天使だ……光が多い分、私に宿った闇も多い……。
この闇の量は、幾らお前でも手に負える代物じゃない……」
ミカエルの顔に闇の刻印が広がり、刻印が肌を割るようにパキッと音を立てる。
「ふざけるな!黙って私に助けられろ!」
私は闇を掻き分け、どうにかミカエルの手を掴んだ。
その瞬間──聞き慣れた声が耳に届く。
「聖明!!!」
視界の端に、駆け寄ってくる二つの影。
龍と──セレスだ。
「二人とも……」
セレスと龍の顔を見た瞬間、張りつめていた心がふっと緩む。
その安堵は、次の刹那に断ち切られた。
「聖明様こそ大悪魔の母になるお方だ!!!」
「……え?」
死んだと思っていたダクネの叫び声が響いたと同時に──鋭い閃光が走った。
冷たい感触が首筋をなぞり、重力が反転する。
視界が傾き、赤黒い飛沫が宙を舞った。
──落ちる。
◆◆◆
窓際に立っていた瑠璃が、不意に振り返った。
夜空に大きな月が浮かび、銀色の光が床を照らしている。
「……兄さん?」
胸の奥がざわめく。
今まで確かに感じていた気配が、ふっと消えた気がした。




