第81話 大悪魔の歴史
教授室には、静かな紙の音とペン先の走る音だけが満ちていた。
俺はテーブルの上の書類を一枚捲り、視線を上げる。
視線の先には左耳のタッセルピアスが目立つ、短い黒髪の男──龍がいた。
先程まで瑠璃が座っていた場所に座り、こいつはこいつで書類仕事をしている。
俺は瑠璃の言葉を思い出し、龍に話を振る。
「……堕天使実験を止めることはできないのか?」
俺はペンを置き、問いを投げる。
龍は眉間に深い皺を刻み、同じくペンと書類をテーブルに置くと吐息を零した。
「……難しい。これは大天使との取引でもあるんだ」
淡々とした口調だが、その奥には諦めの色が滲む。
龍の説明は長く、重かった。
瑠璃のように一切の闇を持たない天使──エクスシア。
『神の愛子』とも呼ばれ、光のマナに愛され、大天使をも凌ぐ魔力量を誇る。
ただ生きているだけで身体から光のマナが溢れ出し、大地を浄化し、土地を豊かにする。
だが──その代償は大きい。
闇の耐性が一切なく、普通の人が最低限生きるために必要な闇のマナの量でさえ致死量になる。
そのため、エクスシアは従来、生まれて直ぐに大天使が管理する光に満ちた隔離環境へ幽閉されることが定められている。
そこまでしてもエクスシアの平均寿命は二十歳前後とされている。
理由は単純。
自身の心の闇に蝕まれ、衰弱死するからだ。
「セレスも知ってると思うけどさ。
聖明は特例措置として大天使と誓約を結ぶことで瑠璃ちゃんの幽閉を回避しているんだ。
聖明が堕天使の力で瑠璃ちゃんの闇を全て負担する。
そして、聖明は同時に延命できるか賭けてるんだ。
闇を肩代わりし続ければ、瑠璃ちゃんが長く生きられるんじゃないかってな」
既に理解していた。分かりきっていることだった。
それでも、可能性を見出したくて聞いてしまった。
「堕天使実験を止めるってことは──」
「瑠璃ちゃんの命を諦めるってことだ。
瑠璃ちゃんも今年で17歳だ。
ここから幽閉したとしても命は長くない。
聖明が毎日通って瑠璃ちゃんの闇を負担したとしても、今の生活は二度と戻ることはない。
それこそ延命できる保証もない。
聖明のことだ……瑠璃ちゃんが生きている限り、諦める選択なんてできねーよ」
そう──分かり切っていた。
だからこそ、悔しかった。
俺は思わず、唇を噛みしめた。
胸の奥に怒りとも悲しみともつかない熱が込み上げる。
「なんであいつの人生には、まともな選択肢がないんだ……っ!」
どれを選んでも何かを失う。
聖明にとってどれも耐え難い選択だらけだ。
だから、あいつはいつも自身を後回しにしちまう。
そうしなきゃ、他者を犠牲にするしかないからだ。
「聖明だけじゃない。
堕天使は皆、何かしらの誓約を強いられる。
カゴノトリに所属しているのがいい例だ。
同意しなければ封印措置だ」
本当に堕天使を取り巻く環境だけは理不尽しかない。
「共存じゃなく、押さえつけることしか考えないのか?」
俺は苛立ち、少し強めの口調で言ってしまう。
龍に言っても仕方ないというのに。
「俺に八つ当たりすんなよ。
ったく……人ってのはさ、分からない力を持つ者は排除する。
それが叶わなければ首輪をつけて管理しようとする。
……人の弱さと愚かさそのものだ」
俺は思わず苦笑する。
聖明が人嫌いになるのも頷けるってもんだ。
──その時だった。
足元に淡い光の魔法陣が浮かび上がる。
「……ん?」
問いかける間もなく、頭上から光が弾け、二つの影が降ってきた。
「──!?」
「わ!?」
俺はソファに転がり、上には誰かが乗っている。
横目で龍を見れば、あいつは床に転がり、その上にアクアが座っていた。
「は?」
俺が驚いた瞬間だった。
胸元の服をぎゅっと掴まれ視線を上げる。
すると泣きながら瑠璃が俺を見ていた。
「る、り……?」
息を震わせながら、彼女は絞り出すように声を上げた。
「兄さんを……助けて……!」
その言葉だけで、何が起きたのか大体察した。
アクアは唇を噛み、怒りに震えていた。
「私が付いていながら……!聖明は悪魔教徒に!」
聖明が──悪魔教徒の手に落ちた。
その現実に一瞬にして怒りが込み上げ、俺は瑠璃をそっとソファに座らせると、そのまま立ち上がる。
──聖明を助けに行かなくては。
「おい!待て!セレス!」
龍に腕を掴まれイラッとする。
「放せ!聖明を探しに──」
「だから待てって!探すにしても情報が必要だ!
闇雲に探したところで意味がないだろ!」
その言葉に少し冷静になり、俺は頭を振りどうにか深呼吸をする。
落ち着け……俺は聖明のことになると冷静でいられない。
龍の言う通りだ。
先ずは情報を整理するべきだ。
周囲に視線を向けるとソファの上で瑠璃が泣きじゃくっている。
聖明が俺のところに送ったってことは、瑠璃を任せたってことだ。
今は瑠璃を落ち着かせるほうが優先だ。
俺は自身にそう言い聞かせ、瑠璃と視線の高さを合わせるようにしゃがむ。
そして、肩をそっと掴んで顔を見る。
「瑠璃。大丈夫だ。必ず助ける」
「……うん、お願いっ、します……っ」
この瞬間、俺は息が詰まりそうになった。
瑠璃の涙に濡れた頬に、薄っすらと闇の刻印が浮き上がっている。
恐らくこれは、瑠璃自身の心に生まれた闇に侵食され始めている証拠だ。
マズイな……瑠璃の闇は他の堕天使では恐らく対処しきれない。
聖明を早く助け出さないと、瑠璃も手遅れになる。
──コンコン。
緊迫を破るように扉がノックされた。
「失礼しますよ」
低く落ち着いた声と共に、扉が開く。
入ってきたのは、アクアと同じ髪色と純白の衣を纏う大天使──ラファエルだった。
ラファエルは静かに教授室に入る。
その金色の瞳が部屋の全員を順番に見渡した。
「……何かあったようですね」
ただならぬ雰囲気に一刻を争う事態だと悟ったようだった。
アクアが立ち上がり、緊迫した声で告げる。
「父様!聖明が……!」
アクアが今まで起きた出来事を簡潔に伝えていく。
ラファエルは眉一つ動かさず、ただ淡々と話を全て聞いていた。
「アクア。教えてくれてありがとうございます。
どうやら、ことは一刻を争うようですね」
アクアは息を整え、続けた。
「ダクネと言う男……!
聖明を大悪魔の器を産む母だの意味の分からぬことを言っておった!」
その言葉に俺は殺意が湧き、拳を握りしめる。
もし──聖明に手を出してみろ!
皆殺しにしてやる!
「聖明の性別を秘匿したことが逆効果になってしまいましたね」
ラファエルの声は穏やかなものの、俺達が一言も発せなくなる程の殺気で空気を震わせていた。
……それもそうだろう。
ラファエルにとってアクア同様に聖明や瑠璃は幼い頃から我が子のように可愛がっていたと聞く。
そんな聖明が拉致され、剰え大悪魔の器を産むための母体にされそうになっている。
大天使はその強大な力故に、世界の均衡を保つため、直接的な干渉を禁じる誓約を自身に課している。
もしそんな誓約がなかったら悪魔教徒など一瞬で消されていたかもしれない。
「ラファエル父様!殺気を抑えてほしいのじゃ!」
アクアの一言でハッとしたような表情を見せると空気が元に戻る。
「失礼。私としたことが申し訳ございません」
ラファエルは咳払いすると話を続ける。
「そもそもの話です。
大悪魔とは人工的に生み出すことができるような存在ではありません。
大悪魔とは二千年前の天地戦争の原因となった、始まりの悪魔たちのことを指します。
我々と同じ、今で言う大天使にあたる天使たちが神に反逆し、神の手によって地へ落とされた存在です。
当時は彼らのことを堕ちた天使──まさに『堕天使』と呼んでいたのが余計に誤解を与えている可能性もありますね。
その後、彼らは『悪魔』と名乗り、今世では生まれの違いから『大悪魔』と『悪魔』と呼び名が分かれました」
この歴史は有名ではあるが、お伽噺程度の認識でいる者が多いだろう。
子供向けの昔話や絵本として語られることが多く、実際の歴史として理解している者が少ないからだ。
そして、ラファエルは話を続ける。
「現代において、転化によって生まれた悪魔では、大悪魔に匹敵する存在にはなり得ず──ましてや、堕天使が転化できたとしても大悪魔にはなることはありません。
生物として大前提の存在定義が異なるからです。
大悪魔の魂は、私たち大天使と同じ理で存在しています。
我々大天使は魂依存の存在のため、現在の肉体が滅んでも、受肉できる器があれば復活します。
ただし、受肉する場合は我々への信仰心を持ち、自ら身体を差し出す者が必要になります。
同じ肉体に二つの魂は存在できませんからね。
しかし──大悪魔はそうはいきません。
魂だけの存在になったとしても、その穢れた魂に耐えられる肉体などこの世に存在しないからです。
普通の悪魔が受肉しただけでも人の身体は闇に蝕まれ直ぐに壊れてしまいます。
そういった観点だけで見れば、堕天使の肉体が狙われる理由もわかるのですが──堕天使も同じく魂依存の存在。
先程も言いましたが、一つの肉体に存在できる魂は一つだけです。
これに関しては例外がありません。
その上、堕天使は魂と肉体の癒着が強く、悪魔が受肉しようとしても乗っ取ることは不可能です。
乗っ取れたとしても、堕天使の不死性は魂依存のものなので、堕天使の魂が離れた時点で肉体は崩壊するでしょう。
要は──大悪魔の完全復活は容易ではなく、現実的に不可能に近い。
──ということです」
要は聖明が悪魔や悪魔教徒に何かされたところで大悪魔が復活することは有り得ないということだ。
「悪戯に聖明を苦しめるだけじゃないか……!」
そもそも堕天使は闇を扱えるだけの天使だ。
死なないだけで闇を無理やり身体に入れ続ければ苦しむだけだ。
あまりの苛立ちに握っている手から血が滲み出てしまう。
俺が怒りで震えていると、少し唸った龍が口を開く。
「ラファエル様。
どちらにしても聖明に無理やり闇を投与し続ける可能性が高い。
転化狙いでも、大悪魔の器を生み出すのが目的だったとしても、あいつらは大悪魔と闇の因果関係を切り離して考えられない節がある。
悪魔に唆されているなら尚更だ。
悪魔が堕天使を狙う場合は、堕天使の魂が目的じゃない。
堕天使の魂は悪魔より上位の存在で食べられないからだ。
それこそ大悪魔レベルにならないと魂に触れることさえ難しい。
そうなると目的は一つだ。
より良質で濃厚な闇を蓄えた堕天使を欲するはず。
であれば、悪魔教徒たちを唆す際に堕天使をより苦しめる手段を提案する可能性が高い。
苦しめば苦しむほど、自身の闇に蝕まれるからな」
嫌な分析だ。
でも、その可能性は十分に高い。
そして、その可能性を考慮すると、ある程度は場所を絞り込める。
「龍。
聖明の闇が万が一にも暴走して、それでも感知されにくく、継続して闇を強制的に与えられるような施設は魔法都市内にあるか?
聖明を連れて魔法都市外に出るとは考えにくい。
もし連れ出すとしても夜になるはずだ」
悪魔が傍にいるなら例外だが、ここは魔法都市だ。
俺の師でもある大魔導師の大結界が悪魔の侵入を阻んでいる。
魔法都市の出入り口はエクソシストによって厳重に警備され、結界の外ではカゴノトリの軍が巡回し警備をしている。
聖明のような闇を持っている者が出入りすれば、巡回している他の堕天使が必ず気付く。
しかし、今のところ報告がないということは魔法都市にいるということだ。
すると龍は表情を曇らせ、口元を押さえる。
何か思い出したようだ。
「……対闇特化の幽閉施設」
物騒な施設名に俺の眉間が寄るのが分かった。
「はあ?何だその物騒な施設名は」
龍はラファエルに少し目配せをすると、ラファエルは静かに頷く。
龍はそれを見ると分が悪そうに説明をし始めた。
「エクソシスト軍部内で建設中の極秘施設だ。
本来、悪魔は即討滅するのが鉄則だ。
でも、それでは情報が聞き出せない。
そこで、一時的にでも闇の力を封じて幽閉。
拷問し、情報を聞き出すという目的で作られている建物だ。
聖明の堕天使実験でも何度も研究施設が壊れているから、完成後に聖明で試験運用する手筈に──」
俺は慌てて龍の口を塞いだ。
そして、龍の耳元で小さな声で──しかし、叱責するように告げた。
「この馬鹿!実験のことを言うな!」
「あ!」
しかし──既に手遅れだった。
険しい視線が瑠璃とアクアから注がれる。
ラファエルに至っても頭を軽く支え、目を伏せている始末。
そして、重々しい雰囲気で瑠璃が震える声で尋ねてきた。
「実験って……何?ねえ、兄さんに……何をしたの?」
流石にこの言葉は俺にも堪えるものがあった。
様々な人体実験をされてきた事実を知りながら、俺は未だに聖明を助け出すことができていない。
まるでそんな無力な俺を責められているようだった。
俺たちが答えられずにいると、ラファエルがわざとらしく咳払いをする。
「……今は救出が先です。
全てが終わったら、私から説明しましょう」
これは……聖明が怒るだろうな。
俺は八つ当たりのように龍の頭を無言で殴った。
「いだ!」
その様子にアクアも深い溜め息だけを漏らす。
そこからラファエルの指示の下、俺たちは動き始めた。
この事態を堕天使たちが知れば、怒りで暴走しかねない。
そのため、他の堕天使たちには知らせず、限られた人員だけで動くことになった。
しかし、人手が足りないため、俺と、聖明直属の部隊だけは動く。
龍は施設の詳細を知っているため道案内として俺と共に行動。
部隊は施設を取り囲んで、悪魔教徒を完全包囲。
一人たりとも逃がすことは許さない。
そして、アクアはカゴノトリにいる堕天使の動向を見守ってもらうことにした。
彼らが本気を出せば魔法都市を滅ぼしかねない。
そして、ラファエルは誓約により戦闘には参加できないため、瑠璃と共にカゴノトリ内部で待機することになった。
「兄さん……どうか、無事で……!」
瑠璃の願いに応えるためにも、俺たちは動き出した。
──聖明、必ず助ける。
だから、もう少し頑張ってくれ。




