第70話 揺らぐ心
──レイナ・シュバルツの診察三日目。
僕と龍さんが見守る隣の部屋では、今日も淡々と会話が進んでいる。
昨日、真っ赤に染まったはずの白い空間は、あの出来事が嘘だったかのようにまっ白な空間へと戻っていた。
そんな部屋の中でレイナは目を輝かせ、口を開く。
「今日は何を見せてくれるの?何を話してくれるのかしら?」
少女の無邪気な笑みは、僕にはとても邪悪に見えた。
「そうだね……昨日は私の秘密を一つ見せたんだ。
今日はレイナさんのことを一つ教えてほしいな」
聖明もいつもと変わらぬ柔らかな笑顔で彼女に話しかける。
流石に一晩休んだだけあって、顔色は戻っている。
しかし、どこか疲労が抜けていない気がして僕は心配が尽きない。
「いいわよ!何でも聞いて頂戴!
犯罪理由でも動機でも!スリーサイズでも構わないわ!」
彼女は立ち上がると、腰と胸を突き出しながらおどけてポーズを取る。
しかし、聖明は一切動じることなく、静かに要望を伝える。
「おちゃめで可愛いね。
私は好きな食べ物とか知りたいかな。
食べ物じゃなくてもいい。君が好きなことなら何でも聞いてみたい」
聖明は長い脚を組み替えながら、ふと笑う。
……何だか昨日綺麗だとか思っちゃったせいか、男性姿の聖明も僕が思っていた以上に格好良いんじゃないかって思い始めた。
実際にコロラータでは大人気で、街を歩けば高確率で女性に逆ナンされてたし……。
「そんなことでいいの?」
僕がそんなことを思い出していると、目の前の少女はつまらなさそうな顔を浮かべ、少し拗ねたような様子で席に戻る。
「そうね……赤が好きなの。
だから、食べ物もイチゴとか、リンゴとか……トマトが好きよ。
でも、ママが作ってくれたスパゲッティが一番好きだったわ。
もう何年も食べてないけど」
意外と好きな食べ物は普通なんだなって思った。
聖明は少しの間、首を傾げ、思案するように唸る。
そして、再び微笑んで彼女に提案を始めた。
「君のママには敵わないと思うけど……次に来る時に、私がご飯を作ってこようか」
その言葉はどうやらレイナにとって予想外だったらしく、驚きの表情を見せた後、嬉しそうに声を弾ませた。
「え、本当!?嬉しい!
ここの食事、固形の栄養食みたいなのしか出なくて味気ないと思ってたの!
折角だからスパゲッティがいいわ!トマトソースたっぷりの!」
こう見ると年相応の女の子にしか見えない。
確か17歳だったな。
恐らくだけど僕の肉体年齢よりちょっとだけお姉さんだ。
聖明は彼女の反応に穏やかに頷き、立ち上がると子供をあやすように彼女の頭を優しく撫でた。
「わかった。明日昼食に準備してくるよ」
「約束よ!絶対よ!」
昨日と打って変わってあまりに平和な会話に僕は変に気が抜けて、声を漏らしてしまう。
「拍子抜けするぐらい、平和な会話だね……」
昨日の流血事件はなんだったんだろうか。
すると龍さんが淡々とした様子で返事をする。
「まずは信用してもらわないと。そのための手段だろ」
その言葉を聞いて、昨日の派手な行いも信頼を勝ち取るための手段だったんだろうと改めて思い直す。
だからとはいえ、あんな手段は僕は認めたくない。
そう思っている間、レイナさんは部屋に入ってきたエクソシストに連れられ部屋を後にする。
聖明も僕たちがいる部屋と通じている扉を開け、こちらに戻ってくる。
聖明は入ってくるやいなや、龍さんの傍へと寄って声を掛ける。
「龍。勝手に食事の約束しちゃったけど……問題なかった?」
龍さんはニカッと笑い、席を立つといつものように少し大きめな手振りを添えて返事をする。
「お前の好きなようにやっとけ。
今回の監督責任は俺だからさ。気軽にやればいいさ」
その言葉に聖明は穏やかな笑顔で頷く。
「ありがと」
……何か分かり合ってる感じで僕は変にモヤモヤする。
何だろう……この感情。
僕は嫌な気持ちを吹っ切るように聖明に話しかける。
「聖明、スパゲッティ作るの?」
聖明は僕に笑顔を向けて頷くと、自身の顎に人差し指を当て、少し考えてから答える。
「そうだね。言うほど自信はないけど……作ろうと思う」
「聖明のご飯、僕は好きだよ!美味しい!」
これは素直な気持ちだ。
本当に聖明のご飯は美味しい。
僕も料理に興味を持って、見様見真似で作ってみたことがある。
でも、聖明のご飯と違って何かが物足りなかった。
聖明はあまり料理に自信がない様子だけど、どれも美味しくて、僕はついおかわりしてしまうくらいだ。
特に母親が東洋人だって言うだけあって、東洋料理は特に美味しい。
まあ、僕は聖明が作るオムライスが一番好きなんだけどね。
「折角だから俺にも作ってくれよ」
僕の思考を邪魔するように、龍さんが無邪気に手を挙げて便乗する。
何となく龍さんに不信感を抱いている僕は軽くイラッとしてしまう。
でも、聖明はどこか嬉しそうに『しょうがない』というような笑みを浮かべながら「はいはい」と苦笑してみせた。
今日はこれ以上のカウンセリングもなく、他の仕事もないらしい。
聖明は「明日の準備をしてくる」と言って一人でボレアスの街に買い物へ行ってしまった。
本当は僕も付いていくつもりだったんだけど、今日は珍しくやんわりと断られてしまった。
……いつもなら、そんなことないのに。何か変だ。
違和感はあるものの、帰ってきた聖明はいつもと変わった様子もなく、穏やかで……逆にそれが怖く感じた。
◆◆◆
──レイナ・シュバルツの診察四日目。
「で、食べながら見るって……何なの、この状況」
僕は異様な光景に苦言を呈していた。
いつもの白い部屋で聖明が作ってくれたスパゲッティを、龍さんと横並びで食べながら、透過された壁越しに隣の部屋を見守っている。
「まあ、レイナ嬢に食べさせる時間を考えたら、こうなるわな。……うめぇ!」
龍さんはバクバクとスパゲッティを口に放り込み、モグモグと音を立てて食べている。
僕もその横で静かに食べる。
まあ、龍さんががっつくように食べるのも納得できるほど美味しい。
……だけど、何か違和感を覚える。
「美味しいけど……なんか、いつもと味付け違う気がする」
「そうなのか?」
以前にも聖明に同じスパゲッティを作ってもらったことがある。
あの時は──もっと甘みを感じたような気がした。
「何だろう……トマトの酸味が強めっていうか」
そんな話をしていると、目の前の部屋でもスパゲッティが登場する。
いつもソファが二脚しかない部屋の中央には小さな白い円テーブルが準備されており、その上には、白い空間を彩るように赤いスパゲッティが置かれている。
聖明は立ったまま彼女に食事を勧める。
「どうぞ、召し上がれ」
「ほんとに作ってきてくれたのね!ありがとう!いただくわね!」
少女は嬉しそうにフォークを取り、クルクルと巻き取って一口食べる。
その瞬間──彼女の表情が固まった。
「どうして……?」
彼女が戸惑うような声を漏らし、僕は食べていた手を止めた。
「口に合わなかったかな?」
レイナはフォークを皿に落とし、急にぽろぽろと涙を零し始めた。
想像もしなかった涙に、何事かと僕は少女を凝視する。
「違う……これ、ママの味だ。
……美味しい……もう、食べられないと思ってた。
だって……ママ、私がお兄ちゃんと仲良くなるにつれて、作ってくれなくなったの……」
「そうだったんだね」
僕と違って、聖明は驚く様子も見せず、彼女の様子を見守る。
「美味しいよ……」
止まらない少女の涙。
聖明はポケットからハンカチを取り出すと、彼女と視線を合わせるようにしゃがみ、そっと彼女の目元を拭ってやる。
「美人さんが台無しだ。……ほら」
「……っ!うわああああああん!」
しゃがんだ聖明に抱き着き、堰を切ったように大泣きをし始めた。
聖明はそんな彼女を受け入れるように、ぎゅっと抱き締め返し、優しく背中をポンポンと叩いている。
その光景を見ながら、ふと思う。
「もしかして……味付けが違ったのって、レイナさんのお母さんの味に合わせたから……?でも何で?」
でも──なんでレシピを知っているんだ?
流石の聖明でも亡くなった人のレシピを知る術はないはず。
それとも昨日の買い物で調べてきたのかな?
いや、でも、調べたところで──。
そんな僕の疑問に、龍さんは妙に自慢げな口調で答えた。
「聖明なら、簡単に知り得るだろうな」
「え?なんで?」
思わず眉がピクリと動く。
何だか妙に癇に障ってしまう。
「聖明は人の心を読めるからな」
「な……っ!」
僕がどこか不安に感じていたことへの回答が、聖明の口からではなく龍さんの口から告げられてしまう。
確かに『深層心理を読める』と聞いた時点で、薄々そんな可能性は考えていた。
でも──本当に『心を読める』なんて。
それって……もしかして聖明は今まで、僕の心を読み続けていたかもしれないってことでもあった。
妙に察しがよく、ときとして僕の欲しい言葉をくれた。
それが……もし、心を読んで、準備されていただけの言葉だったら?
聖明が計算で答えているだけだったら?
そう思っただけで胸が苦しくなる。
だから、その可能性に気付いても、今日まで直視できなかった。
僕の中で感情と思考が混乱し始めた、その時だった。
聖明がいつものように扉を開き、部屋に戻ってきた。
彼は安堵したような表情で、ぽつりと呟く。
「……再現できたみたいでよかったよ」
それに対して、龍さんはソファに座ったままフォークを聖明に向けた。
「相変わらず、えげつないことすんなぁ」
「人聞きが悪いな。いつもやってるわけじゃないよ」
……何を話してるんだ?
今まで感じたことのない不安と不愉快さが胸の奥で燻る。
「ちょっと待ってよ。……何の会話してるの?それにさ……聖明」
「ん?」
「心が読めるって……本当なの?」
自分の声が震えているのがわかった。
僕は怖いし、何だか腹が立つし──嫌だった。
何が嫌だって──除け者にされている気がして、それが一番嫌だった。
そんな僕に聖明はいつも通りの微笑を浮かべて答える。
「ああ……そういえば言ったことなかったっけ。
私はね、闇魔法を使って人の心と記憶に干渉できるんだ」
いつもと変わらぬ笑顔に言い知れぬ不安が押し寄せる。
仮に本当に魔法でそれができるとしても、そんなこと──普通はしてはいけない。
でも、聖明はその力を、今までも恐らく治療のために使っている。
「干渉できるって……そんな簡単に、やっていいことじゃ──」
きっとこれは綺麗事の正論だ。
本当はこんなことを言いたいわけじゃない。
本当は──今まで僕と過ごしてきた日々が偽りなんじゃないかって怯えているんだ。
僕の心を読んで、僕に合わせた演技をし続けていたんじゃないかって。
「大丈夫。
普段からこの能力を使用しているわけじゃないよ。
明確な思考を読むには、意識的に闇魔法を発動しなくては難しいし、使い続ければ負担も大きく、発作も起きてしまう。
ただ、私の場合は強い感情の揺らぎだけは嫌でも分かってしまうんだ。
風真が今、戸惑っているのが分かるようにね」
聖明の言葉に、僕は少なからず安堵を覚える。
察しが良いのは感情の起伏が分かってしまうからなんだと──。
しかし、安堵したのは束の間だった。
「でも──彼女のような患者相手は違う。
さっさと心を読んだほうが手っ取り早い。
その方が──効率的だろ?」
「は……?」
あまりにも想像していなかった言葉に、僕は固まってしまう。
そして──聖明の顔を見ると、いつもの穏やかな表情は消え、どこか妖艶で狂気を感じさせる笑みを浮かべていた。
──なに……言ってるんだ、こいつ。
まるで目の前の聖明が別人のように感じた。
こんなこと……初めてだった。
「聖明!」
僕と聖明の間に龍さんが割って入る。
そして、聖明の両肩を掴み、彼を真っ直ぐ見て声を上げた。
「連れがドン引きしてんぞ!しっかりしろ!」
「……え」
聖明の表情が揺らぐ。
龍さんは聖明の肩を叩き、言葉を続けた。
「“また”感情が崩落しかかってんぞ」
その一言で先程の狂気に染まったような雰囲気は一瞬にして消え、聖明の表情が凍りつく。
「……あ、ご、ごめん。風真、すまない!」
驚くほど聖明は取り乱し、謝り始めてしまう。
僕はどう反応していいか分からず、聖明を見ることしかできなかった。
「変なことを言っていた!
あ……ごめん。頭……冷やしてくる……っ」
「聖明……?」
聖明は背を向けるとパタパタと足早に部屋を出ていく。
僕は呆然とその背中を見送ることしかできなかった。
「何が起きて……」
一連の様子を見ていた龍さんが、苦々しそうに溜め息を吐いた。
そして、僕の左肩をポンと叩く。
「……聖明は、元々ああいう奴だよ。今のうちに慣れとけ。
あいつは闇を操る影響か、感情や価値観が希薄なところがあるんだ。
特に身内以外のことは、どうでもいいとさえ思っている節がある。
まあ、堕天使は皆どこか壊れてる。ぶっ飛んでるのも多い。
……聖明はマシな方だ」
堕天使に感情や価値観が希薄なところがあるなんて知らなかった。
僕は今まで気付いてさえいなかった。
だって……一緒に過ごしてきた中で、そんなことをあまり感じたことがなかったから。
でも、ここに来てからは違う。
どこか聖明は危うく見える。
聖明の口振りから言って、レイナと話している間は闇魔法を常に使って心を読んでいたと思う。
その結果、闇の影響で感情が余計に希薄になっていたんだろうか?
もしかして、今までもそうやって感情が希薄になっていた場面があったんじゃないだろうか?
確かに、時折怖いと感じることはあった。
僕は想像以上に聖明のことが見えていなかったんじゃないだろうか。
「……闇魔法を常時使ってると……聖明ってああなっちゃうの……?」
龍さんは肯定するように頷きながら、言葉を続けた。
「堕天使っていうのは突き詰めれば元は天使だ。
不老不死だし、闇を扱える。
だけど、闇の影響を受けないわけじゃない。
闇を扱えば扱うだけ心身共に大きな負担がある。
負担が大きければ大きいほど、闇が身体を蝕み、最悪の場合は発作が起きる。
軽い発作ならまだいい。
重症になると高熱が出て、全身の血管が弾け始める。
同時に、不死の身体は再生を繰り返し始める。
体の崩壊と再生が繰り返されるのが発作だ。
その過程で全身から出血し、胃に溜まった血液を吐き続け、激痛と高熱に耐え切れず意識を失う」
「そんな……酷い発作……見たことない……」
僕は想像しただけで思わず吐き気を催し、口元を押さえてしまう。
同時に先ほどの聖明の様子からして発作が出ていないか心配になってしまう。
「僕……聖明の様子を見に──!」
僕が勢いよく立ち上がろうとした時、龍さんが僕の肩を掴んで止めた。
一瞬、イラッとして彼を睨みつける。
「やめとけ。“ああいうところ”は見られたくないはずだ」
「でも……!」
食いかかろうとする僕に龍さんは真剣な顔で言い放つ。
「今までお前にそんな姿、見せたことあったか?」
「──っ」
その一言は、僕の胸に突き刺さった。
聖明が倒れた姿は何度か見てきた。
でも──今回のようなことは今までなかった。
本当に隠したいことは、聖明は決して見せてくれなかった。
コロラータでパートナーについて触れられた時だって、一人でどこかに行ってしまった。
だから、未だに本当のパートナーのことすら聞けていない。
それに気付いた瞬間、僕はまだ聖明に全て明かされるほど信用されていないんじゃないかって不安になった。
シルロ先生は『時がきたら話してくれるはず』と言っていたけど……聖明は僕を本当の意味で頼ってくれることはあるんだろうか……?
待つだけが、本当に正解なんだろうか?
僕の感傷にとどめを刺すように、龍さんは言葉を放つ。
「理解したなら少しは察してやれ」
何も言い返せなかった。
自分の無力さが、情けなさが、胸に刺さる。
僕は拳を握り締めたまま……立ち尽くすしかなかった。
龍さんは僕の肩をポンポンと二回軽く叩くと、静かに部屋を出た。
そんな心遣いすら今の僕には屈辱でしかなかった。
「……クソッ!」




