第4話 悪魔の願い
聖明は部屋を出た後、静かに廊下を歩き階段を下がる。
途中の踊り場で彼は、ふと立ち止まる。
「……っ!」
突然、身体に闇の刻印が浮かび上がり、壁に寄りかかり、胸を掴むように手を当てる。
苦しそうに息を荒げ続け、遂にその場にしゃがみ込んでしまった。
「主!」
聖明の影から黒猫のリリーと呼ばれた存在が飛び出てくる。
彼女が必死で聖明を見上げると、彼の身体に異変が起きているのが分かった。
徐々に身体つきが丸みを帯び、押さえていた胸は膨らみ、服が少しダボッとする。
「だいじょう、ぶ……っ」
聖明の声が女性のような響きに代わり、目を潤ませながら身を縮め、自身を抱きしめるように丸くなる。
「戻らないと……うっ!」
「主……無理をなさらないでください……っ」
彼は間違いなく女性の姿に変わり、緩んだ包帯からは血が滲んだ闇の刻印が肌の下を蠢く。
「あの子の闇はどうなってるんだ……多過ぎ、る……うっ!」
私は激痛の中、痛みから逃げるように必死に思考を巡らせる。
あの少年は普通では決して足を踏み入れることが叶わない場所で倒れていた。
この家がある場所は精霊界──別名『精霊王の庭』と呼ばれるこの領域は、神聖にして不可侵の領域。
我々のような肉体がある存在とは違い、大自然のエネルギーから生まれた、大地そのものに近しい存在が住まう場所だ。
この家は契約により、特別に置かせてもらっている異例中の異例。
私や私が許した存在以外は、決して辿り着くことができないはずの場所。
それにも関わらず、あの子は家の近くで倒れていた。
何よりも驚いたのは──彼は今は亡き私の妹と瓜二つだった。
しかも、魂が酷く不安定で、恐らく魂が半分しか存在していない。
『瑠璃』が死んだ日の光景が脳裏を過る。
もしかして、彼の魂は──いや、憶測で話すのはやめよう。
今は、ただ少年を助けることに専念するんだ。
「はぁ……っ、早く……止まって……っ」
私はしばらくそのまま蹲り、痛みが引くまで堪え続ける。
リリーが少しでも慰めようと、静かに擦り寄ってくれる。
私は震える手でリリーをそっと抱き締め、どうにか深呼吸を繰り返す。
大丈夫……大丈夫だ。すぐに痛みも消える……。
ゆっくりではあるが、確かに痛みが薄れ、私は大きく呼吸をすると自身の身体に意識を集中させる。
すると、女性の身体だった聖明の肉体は徐々に男性の姿に戻る。
「……まったく……不便なものだ」
そう悪態を吐いた時だった。
ふと、背後から懐かしい香りが鼻を掠め、冷たい何かが肩に触れた気がした。
そして──頭の中で声が響く。
『──兄さん』
聞き覚えのある声に驚き、勢いよく振り返るけど、そこには誰もいなかった。
「今のは……」
私が声を漏らすと腕の中のリリーが心配そうな声色を発する。
「主?どうかされましたか?」
私は嫌な予感と共に高鳴る胸のざわめきに突き動かされるように立ち上がった。
「リリー……あの少年の傍にいてほしい。
私は……少し瑠璃と母さんのお墓に行ってくるよ」
私はリリーに心配かけないようにできるだけ穏やかに微笑むと、そっと彼女を床に降ろした。
彼女はそれ以上、何も聞かず返事をしてくれる。
「承知しました」
リリーは私の気持ちを汲み取り、こうやっていつも寄り添ってくれる。
私には勿体ないぐらいの使い魔だ。
私は彼女の頭を撫でると、そのまま階段を降り、玄関先にあるコートハンガーから黒のコートを乱暴に羽織り、そのまま外に続く両開きの扉を開け、家を出る。
雪が静かに降り注ぎ、空は暗雲が覆っており太陽が見えない。
ひらひら、ふわふわ──舞い続ける白い結晶。
私は白い息を吐きながら、刺さるように冷たい空気を感じつつ森の中に入っていく。
今歩いている道は春になれば可愛らしい花々が咲き乱れ、足元には所々に木の板で整えられた道が広がる場所だった。
今は雪が世界を覆い、その華やかな雰囲気は冷たくひっそりとしている。
まるで──今の私の心を表しているように感じた。
私がゆっくりと歩みを進めていくと、次第に大きな一本の木が見えてくる。
その気には青白く光る人の背丈ほどもある大きな精霊石が埋め込まれており、その木の下には石碑が二つ佇んでいる。
これは私の大好きな人たちのお墓だ。
左側には私が幼い頃になくなった大好きな母のお墓。
そして、右側は──。
「兄さん。待ってたのよ」
私は耳を疑いながらも、震える手をギュッと握りながら恐る恐る後ろを振り返った。
そこには白銀の綺麗な髪を左右に結び、透き通るような瑠璃色の瞳をした少女が嬉しそうに微笑みながら宙を浮いている。
目の前の光景が信じられず、彼女の名を呼んだ。
「瑠璃……」
私の愛しい妹。
彼女は幽霊でも彷彿されるような白いワンピース姿で、生前と変わらぬ顔で私の目の前にいる。
でも、そんなことは有り得ない。
有り得ないんだ……。
「やっぱりここにあったんだ。私のお墓」
瑠璃はクスッと笑いながら私の横を通り過ぎると自身の墓に手を触れ、上に座る。
現実離れした光景に、私は声が出なかった。
どう話していいか分からなかった。
「ずっと探してたんだよ?
私が死んでから、兄さん……すぐに姿を消したから。
しかも、家ごと消えちゃうんだもん。
見つけるのに時間がかかっちゃった」
そう笑った彼女の目は心底愉快そうで──その瞳にはどこか狂気を孕んでいた。
そのお陰で私は少し冷静さを取り戻し、口を開く。
「何しにきたんだ……瑠璃」
知っている。
目の前の彼女は私の妹だ。
私の傲慢さと、愚かさが招いた最悪の存在。
「もちろん、兄さんに会いに来たの。
三年前──兄さんと共に生きる覚悟をした。
だから、この魂を使って悪魔に転化したの!
忘れたの?忘れるわけないわよね?
だって──兄さんは私の魂を裂いて逃げたんだもの!酷いわよね!?」
そうだ。
三年前──瑠璃は私の目の前で自殺した。
悪魔になるために自殺した。
私のために……命を絶ったんだ。
「せめて……君を悪魔にしたくなかったんだ……」
死んだ彼女の魂はあろうことか、闇に飲み込まれ悪魔へと『転化』を始めた。
私はそんな現実に耐えきれず、無理やり魔法で干渉をした。
せめて、せめて、人として弔いたかった。
悪魔になってしまえば魂は永遠に闇に囚われる。
徐々に闇に蝕まれ、精神は崩壊し、人としての記憶も崩れ、最後には生きる者を悪戯に傷付け喰らう者になってしまう。
それだけは、阻止したかった。
だから──。
「だからって、私の魂を二つに引き裂くなんて酷いわよね。
お陰で私は中途半端な悪魔になってしまった」
そう言いつつも狂気に歪ませた笑顔を浮かべる彼女。
その顔を見ればわかる。
瑠璃はもう……完全に悪魔に堕ちてしまったんだ。
絶望と虚無の気持ちで、私は立っていることさえ辛くなり、両膝をついた。
ズボンからじわりと染みてくる溶けた雪の冷たさ。
私の愚かさが招いた現実に一筋の涙が零れる。
「兄さんにお願いがあるの」
気付けば瑠璃は背後におり、私の耳元で生々しく囁いた。
「お願い……?」
真っ白になった頭を支配するように彼女の声が響く。
クスクスと笑う声は本当に瑠璃のものだろうか?
「私とそっくりな少年を拾ったでしょ?」
鈍い思考のまま瑠璃の部屋に残した少年を思い出す。
瑠璃を生き写しにしたような表情豊かな男の子。
「彼はね、私たち悪魔が食用に作る人工天使」
「な、に……?」
あまりの現実に思わず聞き返してしまう。
「悪魔の糧は人の魂って知っているでしょ?
でも、現実にいる人をいちいち狩っていたらキリがない。
だから、通常は食料を”培養”しているの。
作られた人工天使は魂を食べられ抜け殻になる。
それを再利用して悪魔は人間社会に溶け込み、人々を闇に誘うの」
とんでもない事実に私は驚くと共に恐怖した。
そんな事が行われていたなんて知らなかったからだ。
「でも、今回は違うの。
兄さんのせいで私の魂は二つに分かれてしまった。
片方は悪魔に転化し、片方は清らかなままだった。
そのせいで魂が融合せず、一つに戻すことができなかったの。
悪魔でも魂は大事。
魂がなければ悪魔とて消えてしまうの。
分かれた魂は不完全。
放置すればいつか消滅する。
だから、清らかな魂が私と融合できるまで人工天使に宿すことにしたの。
そうすることで魂が守られ、消滅するのも引き延ばせる。
でも、魂はデリケート。
悪魔が人工天使に受肉するのさえ、徐々に肉体は腐敗し朽ちてしまう。
それは魂が肉体と不一致だから。
魂のほうが強いから肉体が耐えれなくなってしまう。
それを防ぐために魂に相応しい肉体を準備する必要があったの。
だからね、私は自身の魂情報を元に、人工天使を作った。
本当は女性の身体にしたかったんだけど、上手くいかなくて男の子になっちゃった。
でも、魂をしまうだけの存在だから良いかと思って入れておいたの。
そうしたらね、まさかの意思を宿しちゃった」
つまり、あの少年は瑠璃の魂を宿している。
そして──まったく違う意思を持った、瑠璃そのものとも言えた。
確かに少年の魂は不安定で『もしかして』とは考えた。
あんなに瑠璃に瓜二つの少年だ。
魂は瑠璃のものではないかと疑っていた。
でも──できれば外れていてほしかった。
だって、彼はしっかりとした人格を形成していたからだ。
もし、瑠璃の魂であれば新たに産まれた人格の可能性がある。
いくら同じ魂でも人格が別々に確立してしまえば、融合できたとしてもどちらかは恐らく消える。
いや、最悪──両方とも消える。
「なんて言うことを……」
絶望的だった。
人としての生を失っただけでなく、今度は魂さえも消滅という形で失ってしまうかもしれない。
何度、私は彼女を失えば良いんだ……?
それだけじゃない。
瑠璃の魂を宿した少年まで死んでしまうかもしれない。
私は……どうしたらいいんだ?
あらゆる可能性を脳内で模索する。
しかし、そう簡単に答えなんて見つかるわけもなく……私の心臓はバクバクと嫌な鼓動を鳴らし続ける。
そんな私の心を見透かすように、瑠璃は口角を上げながら歪んだ顔で『答え』を提示した。
「だからね、お願い。
これ以上、あの子が自我を確立する前に──”人形”を殺して」
「──は?」
理解したくもない言葉に、思考を止めるように間抜けな声を口から漏れた。
私の知っている瑠璃は、決して誰かを傷付ける子じゃなかった。
それなのに彼女はまるで遊ぶように無邪気な笑みを浮かべながら、私の目の前をふわふわと漂う。
「人形が意思を持つなんて想定外なの。
これでは魂が消滅する前に、魂が融合する術を見つけても人格が消えてしまう可能性がある。
そうなってしまえば私が悪魔になった意味がなくなってしまう」
瑠璃はクスクスと笑いながら私の頬に冷たい手を這わせ、唇を指でなぞる。
「だから、兄さん。──私を助けて」
それは……瑠璃を?それとも──悪魔をか?
次の瞬間、彼女に唇を奪われ、慌てて引き剥がし、後退る。
「く……っ」
「あははは!兄さんの闇、とっても美味しいよ!」
唇から体内の闇を少し吸い出された。
奇しくも、体内に暴れていた闇が軽くなったことで身体が少し軽くなる。
「ふふ、兄さん。良い顔。
大丈夫よ私はこのために悪魔になったのだから。
だから──私を受け入れてもいいのよ?」
「ふざけるな!私は……君を……っ!」
助けたいだけなのに、それが……とてつもなく遠い。
何で、何でこうなったんだ……瑠璃。
「兄さん。永遠に一緒に生きましょう!
この──終わりのない地獄の中で!」
ふわりと雪が舞う中、悪魔は溶けるように姿を消した。
一人残された聖明は、ただ暗雲が立ち込める空を呆然と見上げた。
「はは……本当に……終わりがない……地獄だ……」
彼は壊れたような笑みを浮かべ、涙を静かに流した。
小さく呻く声は雪に紛れ、世界に消えた。




