第32話 目覚めの時
聖明殿が言葉を紡いだ後だった。
シャルルが急に苦しみだし、膝を付いた。
その拍子に彼の眼帯が落ち、左目から黒い液体のようなものがドロドロと流れ出し始める。
「シャルル!?」
「あ"あ"ッ!!」
彼は頭を両手で押さえるように抱え、その場に倒れ込んでしまった。
先ほどの液体のせいかシャルルを中心に徐々に草花が枯れていく。
「シャルル!」
私は慌てて駆け寄り、彼の頭を抱える。
彼は右目を薄っすらと開けながら、震える手で私の頬に手を伸ばしてくれた。
「ジャンヌ……ごめんね……」
それだけを言うとズルリと手が落ち、意識を手放してしまう。
私は慌てて彼の体を揺すった。
「シャルル!?シャルル!目を覚ましてくれ!」
──どうしてこんなことになってしまったんだ……っ!
「あーあ。もう記憶が戻っちゃったの?残念」
ふざけた口調の男の声。
私はキッと睨むようにその男を見る。
エクソシストだったはずのその姿が揺らぎ、黒い闇に包まれて、再び姿を現す。
その姿は醜く、歪んだ異形そのものだった。
黒い牙を見せるように笑いながら、嘲るような目で話し始める。
「もっと、もっと楽しませてよ!
こんなエンディングじゃ物足りないだろ!?」
背中からコウモリのような羽根が生え、空気が震えるほどの笑い声を発する。
どう見ても闇の塊。
──悪魔、もしくは魔人か。
「記憶操作って難しいんだね!
本当は転化を狙っていたけど、それは流石に難しかったか!」
ふざけた口調、跳ねるような声。
その姿を見るだけで、私は怒りで身体が震えた。
シャルルを弄んだこいつだけは、絶対に許さない!
「貴様……っ!」
シャルルをそっと地面に横たえ、飛び出そうとしたその時だった。
私の前に聖明殿が立ちはだかる。
「聖明殿……っ!そこを退いてくれ!」
私は彼の背に食い掛かるように声を荒げた。
しかし、彼は静かに首だけ動かし私を視野に入れると、冷たい目で見る。
そして、私の声など無視するかのように少年に抱きついたまま声を掛けた。
「風真、そろそろ"ここを出る"」
「うん!了解!」
何のことを話している?
少年は元気に頷くと一呼吸置き、詠唱を始める。
「──闇より生まれし希望の光。
如何なる闇をも照らし、我が道標となれ」
周囲の風が少年を包むように渦巻き、足元からは淡く輝く魔法陣が展開される。
「──《光の加護 (トゥテラ・ルーキス)》!」
刹那、魔法陣の光は花びらと共に上空に浮き上がり、光が弾け、粒子となって辺り一帯を包み込む。
これは何の魔法だろうか。
「えーなにそれ?攻撃魔法かなんか?」
悪魔は楽しげに声を弾ませたが、少年は冷ややかに答えた。
「違うよ。僕たちが無事に闇から出るための魔法だ」
少年の言葉に聖明殿は嬉しそうに笑う。
「上出来だ、風真」
少年を褒めた後、目の前の悪魔を見て、今度は鼻で笑うように言い放つ。
「とんだ茶番だ。
本当の悪魔が潜んでいるかと思って警戒していたが──そんな必要はなかったな。
君が本当に悪魔であれば真っ先に狙うのはシャルルやジャンヌじゃない。
堕天使である──この私だ」
その言葉にハッとする。
──そうだ。
悪魔にとって堕天使の闇は至高の糧と言われている。
そんな聖明殿がいるのにも関わらず、あの男はシャルルの記憶を改変し、私を殺そうとした。
「悪魔にとって私は最高のご馳走だからね。
そんな私を無視する時点で君は悪魔ではない。
いや──そもそも個体としてすら存在しないな。
はは、君がただの闇で助かったよ」
──ただの、闇?
聖明殿が言っていることが微妙に分からない。
あれが悪魔ではないのだとしたら、一体なんだというのか。
「はははは!」
目の前の堕天使が狂気に歪んだ顔で笑い始める。
その様子に少年も驚いた表情で彼を見つめる。
この顔は──知っている。
「闇であれば私が支配してやる。
この私──『闇を背負う堕天使』の領域だ」
彼を中心に禍々しく赤黒く光る魔法陣が展開される。
彼から漂う暗く重い闇の気配に息を呑んだ。
「──我が声は絶対の支配。我が闇は絶対の力」
彼が詠唱を始めると魔法陣から赤い稲妻のような光がバチバチと弾け始める。
その異様な光景に、敵である男も怯えたように身体を硬直させている。
「従え──《絶対服従領域》」
魔法陣が丘全体を囲むように展開され、身体が急に重くなる。
いや──実際には違う。
あまりにも重い闇の気配に、身体が重くなったように錯覚しているだけだ。
聖明殿は、前線でもこの大魔法を行使し、悪魔たちの闇でさえ支配下に置き、操作する。
それは文字通り、絶対的な力で──私たちが畏怖してしまう闇の力だ。
「何……っ!?身体が、溶けて!?」
悪魔だと思っていた男の身体がドロっと溶け始め、徐々に姿を保てなくなっていく。
「全てを飲み込んでやる。さあ、消え失せろ!」
聖明殿がそう言い放つと、闇の塊は溶けて消えていった。
そして、彼の顔に闇の刻印が色濃く浮き上がる。
「……終わった……のか?」
私が思わず声を漏らすと聖明殿が振り返り、私たちを見下ろす。
「いや、まだだ」
「え?」
彼の言葉に耳を疑う。
だって、彼は元凶だった『何か』を消し去ったじゃないか。
それなのに「まだ」とは一体どういうことだろうか。
困惑していると彼は目線を合わせるようにしゃがんで、先ほどとは打って変わって穏やかで──どこか悲しそうな表情を見せる。
「ジャンヌ。これはただの悪い夢だ。
目覚めれば全てが元に戻る。
だから──そろそろ起きよう、ジャンヌ」
「──え?」
風がサッと吹き抜けるように通った。
信じられない言葉に私は更に混乱する。
……私の聞き間違いだろうか?
今、聖明殿は私に起きろと言ったのか?
「聖明殿……お戯れも限度が……」
しかし、私の言葉を遮るように彼は話を続ける。
「一ヶ月前のことだ。
君たちは巡回任務中、運悪くも悪魔に遭遇してしまった。
魔法都市本部からも応援が駆けつけたものの、悪魔の激しい抵抗もあり、シャルルは左目を負傷してしまった。
ジャンヌ、君を庇ってのことだったようだ。
ショックを受けた君は、彼と共に気絶をした。
しかし、ここからが問題だった。
シャルルの怪我は完治し、目を覚ましたが、肝心の君が目覚めなかった。
怪我もなく、原因不明。
ただ──眠っている君に闇の刻印が浮き出始めた。
そこでシャルルがカゴノトリに要請してきたんだ。
君を助けてほしいと。
しかし、魔法都市にあるカゴノトリからは距離がある。
その上、通常の治療では回復できない可能性がある。
だからといって堕天使を地方に派遣するにも人手不足だった。
そこで、近くに偶然いた私に声が掛かったんだ」
あまりにも理解できない言葉の数々にどう返事をしたらいいか分からない。
目を泳がせていると聖明殿は私の心を見透かすように言葉を続ける。
「夢の中では現実を思い出すのは難しい。
ただこれだけは言える。
ジャンヌ。
シャルルが君を庇って倒れた時、君は想像以上に恐怖してしまったんだ。
大切なパートナーを失うかもしれない──そんな純粋な恐怖。
君は恐怖のあまりに自身の闇に囚われてしまった。
そして君は、この夢の中に『ジャンヌのことを知らないシャルル』という存在を作り上げた。
……もっと正確に言えば、“そういうシャルルであってほしくない”という恐怖を、この世界に形として反映してしまったんだ。
失いたくない気持ちが歪んだ結果だね。
こうして思考が歪み、闇に囚われてしまうと、普通の人では君を助け出すのは難しい。」
私は地面に横たわっているシャルルに視線を落とす。
彼は私が作り上げてしまった幻想なのか……?
そうであれば、なんて愚かな……。
「あ、因みに……そこに転がってるシャルルは本物ね。
無理やり付いてきて、ジャンヌの闇に飲み込まれちゃった」
「はい!?」
思わずシャルルの顔をガッチリ掴んで顔を見る。
彼は譫言のように小さな声で私の名を呼んでいる。
本当に驚きを隠せない……っ!
「まあ、要は君が夢であることを自覚して目を覚ましてくれないと私たちもここから出られない。
それに私以外の……風真やシャルルは、闇に耐性がないから、あまり長居すると現実の肉体が侵食されてしまう。
一応、風真が加護の魔法を掛けているけど気休めだね。
それに君の中に闇が宿れば、再び悪魔擬きも復活するだろうね」
聖明殿は少し困ったように苦笑して話す。
その様子に私も溜め息が出る思いだった。
……何ていう不甲斐なさ。
私のせいでシャルルを巻き込んでいたなんて。
「さあ、ジャンヌ」
目の前の彼の赤い瞳が妖しく輝く。
「悪夢を終わらせる準備はできそうか?」
堕天使がニヤリと笑う。
私も釣られるように変に笑みが零れた。
「…ふ……情けない。大丈夫、もう覚める」
私は両手に歪な形状の双剣を出現させる。
「ここは私自身が作った世界なんだな」
聖明殿は何も答えない。
ただ、静かに私を見つめている。
その無言こそ答えだった。
この夢を終わらせられるのは──私自身だけだ。
私は双剣を自身の首に充てがった。
「さようなら、内なる悪魔よ。もう──会うことはないだろう」
そのまま迷いなく刃を引いた。
風が強く吹き、白い花が激しく舞う。
ああ……意識が白く染まる。




