第1話 堕天使と人形の出会い
そよ風が吹く度にサラサラと音を立てる草花。
空は月明かりに照らされ、星々はキラキラと瞬く。
青く光る花々が夜の景色を幻想的に彩り、淡い粒子が空に舞った。
そんな中、花に囲まれた少年が一人。
彼は胎児のように身体を丸め、眠っているようだった。
そんな彼の頬にそっと誰かの指が触れた。
少年は薄っすらと瞼を開け、瑠璃色の瞳を覗かせる。
「──誰?」
少年は混濁する意識の中、傍にいる人の気配に問い掛ける。
しかし、返答はない。
手に力を入れるとピクリと指が動く。
徐々に意識がはっきりとすると共に、自身の問いに恐怖を覚え始める。
──あれ?僕は誰?
傍にいる人物より、何も分からない自身に身体が震えた。
恐怖に支配されたように自身を抱きしめ、呼吸が乱れる。
──え?何でこんな場所にいるの?僕は誰なの!?
何も分からない少年に答えがあるわけもなく、彼は青い花の中で涙を流した。
「大丈夫」
頬に優しい温もりが触れ、女性の声が響いた。
きっと僕を起こしてくれた人だ。
少年は恐る恐る瞼を開け、傍にいる気配に視線を向ける。
そこには夜空のように美しい黒髪と、輝くような赤い瞳を宿した女性が優しく微笑んでいた。
長い後ろ髪が風でサラッと靡く。
───まるで“月夜”のような女性だった。
僕は恐る恐るもう一度尋ねてみる。
「……誰?」
すると彼女の優しい手がそっと僕を抱き寄せ、心安らぐ温もりで包んでくれる。
「大丈夫、怖がらないで。私がそばにいるよ」
彼女が誰なのかは知らない。
それでも──その温もりが、言葉が、僕の心を守ってくれるようだった。
ぽつりと少年の瞳からは一滴の雫が頬を伝う。
「怖かったね。もう大丈夫。さあ──起きよう」
彼女の声が僕を導く。
次の瞬間──全てが光に包まれ、意識を手放した。
◆◆◆
「……起きたかい?」
聞き慣れない男性の声が耳に届く。
でも、不思議と優しい声で、僕は導かれるように震える瞼を開けようとする。
薄っすらと人影が視界に映る。
「大丈夫かな?」
徐々に世界が開け、瞳に一人の男性が反射する。
そこにいたのは夢の女性と同じ色をした”男性”が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
夜空のように美しい黒髪。
輝くような赤い瞳。
でも、夢と違い、目の前に映る彼は間違いなく男だった。
男には珍しく、後ろ髪だけ長いようで、結んでいるのか綺麗にまとまった髪が左肩から前に流れている。
そして、白い肌には赤黒い薔薇の茨のような模様が浮き出ており、模様が少し動いたように見える。
そんな不思議な光景に僕は魅入っていると、彼は眼鏡越しに宝石のような目を細め、安堵したように微笑んだ。
「にゃ〜ん」
猫の鳴き声が唐突に部屋に響き渡る。
少年はハッと我に返り、小さく視線を動かした。
辺りを見渡すと、見知らぬ部屋だった。
天井や柱は木造造りなのか木が見え、漆喰で作られたような白い壁。
部屋には同じく木で作られた可愛らしいクローゼットや棚が見受けられる。
窓はシンプルな無地のカーテンで閉じられているけど、光が一切見えない辺り、恐らく夜なのだろう。
その証拠と言わんばかりにベッドの側にあるレトロなフロアランプから、淡く暖かみのある明かりが辺りを照らしている。
そして、そんな部屋の中、少年は力なく木製のベッドの上に寝かされており、手には管が繋がれ、頭上には円状の点滴袋が浮遊している。
見慣れない部屋と、不思議な光景にただどうしていいか分からなく言葉を失っているようだった。
「汗がひどい。少し拭わせてね」
彼は安心させるように優しい口調で伝えると、少年の額や首をそっと拭う。
触れられて、やっと状況が少し飲み込めてきたのか、少年は恐る恐るといった様子で口を開いた。
「こ、ここは……?」
震える少年の声。
その様子を察したように黒い猫がぴょんと男性の方の上に乗る。
彼は赤い瞳を細ませ、愛しそうに黒猫の首を指で撫でると、猫の喉がゴロゴロと鳴った。
「私の家だよ。君は寒空の下で倒れていたんだ。少し体を起こせるかな?」
彼はそっと少年の背に手を回すと、支えながら上体を起こすのを手伝ってくれた。
「可哀想に……ひどい熱だ。
できれば口から水分を補給したほうがいい。
自分で飲めそうかな?」
確かに……僕の喉はカラカラだった。
少年が素直に頷くと、彼は近くの棚の上に準備してあった水差しからコップに水を注ぐ。
「熱が高いから少し冷たい方がいいね」
次の瞬間、男性が空いている左手を宙に翳すとパキパキと小さな透明な塊が生成され、水の中にとぷん、と落ちる。
見たことない光景に、僕は声を出すのも忘れ、ただ驚いた。
手渡されたコップはひんやりと冷たい。
恐る恐る透明な塊の入った水を口に運び入れ、ゴクリと飲み込む。
ひんやりとした水が身体に染みるようで心地良い。
この塊は恐らく氷だ。
目の前で起きた不思議な現象。
僕は聞かずにはいられなかった。
いったい目の前の彼は、誰なのだろうか?
少年は意を決したように、小さな声で尋ねる。
「あの……あなたは……?」
彼は空になったコップを少年の手から受け取ると、穏やかな声で話し始めた。
「私の名前は、紅 聖明。
西洋では聖明・紅と言ったほうが分かりやすいかもね。
こう見えても医者をしている」
彼はコップを棚に置くと、横の椅子に座り直す。
するとそれに合わせるように黒猫が少年の枕元に移動し、ふさふさの尻尾を揺らしながら、少年を慰めるように丸くなった。
「紅先生……?」
「聖明でいいよ」
聖明が指で何かをクイッと引っ張るような仕草をすると、少し遠めの棚の上から羽根ペンとバインダーがふわっと飛んで、当たり前のように彼の手元に収まる。
すると彼はペンを握り、書類に何かを書き込み始めた。
「君の名前を聞いてもいいかな?」
その質問に僕はどう答えていいか分からず、息を呑んだ。
そうだ……僕、自身のことが分からないんだった。
恐ろしい現実を口にしようとすると唇が震える。
それでも、不思議と彼であれば話しても大丈夫と感じ、必死に言葉にした。
「……ぼ、僕、名前がわからない。どうしよう、何も思い出せない……」
言葉にした途端、急に恐怖が込み上げる。
底知れぬ闇に突き落とされたような感覚に勝手に身体が震えた。
どうしよう……怖い!怖いよ!
僕は──誰なの!?
「大丈夫」
呼吸が荒くなり始める少年を、聖明はそっと抱き寄せ、安心させるように背中を優しくトントンと叩き始める。
「一緒に深呼吸してみよう。吸って……吐いて……」
恐怖の中、彼の言葉を頼りに、必死に呼吸を繰り返す。
「吸って、吐いて……うん。いい調子だ。偉いね」
不思議と彼の声も、温もりも安心できてしまう。
荒げていた呼吸は徐々に整い、バクバクと高鳴っていた胸が落ち着きを取り戻していく。
そして──気付けば、涙が零れていた。
恐怖からか、安堵からか……それさえ今の僕にはもう分からなかった。
「うっ!ひっく……っ、僕…!」
「大丈夫。大丈夫だよ。傍にいるからね」
僕に触れる聖明先生の手から、ふわりと温かい何かが流れ込む。
まるで夢心地だ。
恐怖していたはずなのに、不思議と安堵し、彼の温もりの中でゆっくりと睡魔に襲われ始める。
「せい、め……」
「おやすみ。良い夢を」
少年は脱力したように聖明に身体を預け、そのまま小さな寝息を立て始めた。
その様子に聖明は少年の頭を撫でると、そっとベッドに横たえさせ、柔らかな毛布と布団を首元まで掛ける。
すると横で丸まっていた黒猫が、大きな耳をピクリと動かし、顔を上げる。
「主、眠らせたのですか?」
黒猫からは女性の声が響く。
彼女の額にある小さなアメジストの角が、ランプの光を反射し、キラリと輝く。
そんな彼女の頭を、聖明は優しく撫でる。
「ああ、今は眠るべきだ。身体がひどく衰弱している。
ここまで弱っていると、魔法でもすぐには治せない。
それに──」
少年を見つめる聖明の眉間に皺が寄る。
眠る彼の頬には、薔薇の茨のような模様が浮かび上がり、まるで生き物のようにズズッと肌のなかで蠢く。
その影響なのか、少年は少し苦しそうに息を荒げ始める。
「……『闇の刻印』か」
闇の刻印と呼んだそれを、聖明は指でなぞるようにそっと触れる。
すると不思議なことに刻印は、少年から聖明に移るように移動し、彼の指先から腕に這う。
同時に聖明の表情が歪み、小さな呻き声を上げた。
「主……っ」
黒猫が慌てた素振りで立ち上がる。
しかし、彼は止めるように静かに声を発する。
「私は大丈夫。
……これで、暫くは大丈夫だろう。朝には少し回復しているはずだ。
きっと悪夢はもう見ないよ」
聖明は少年の前髪を指で撫でるように掻き分けると、安堵したように息を漏らす。
そして、聖明は心の中で呟いた。
大丈夫。きっと……大丈夫だ。
まるで自身に言い聞かせるように、私は心の中で呟きながら部屋の明かりを落とし、そのまま静かに部屋を出た。




