帝都への切符
「ついに、この時が来たか」
商人は、一枚の豪奢な羊皮紙をデスクに放り投げた。
それには、帝国の紋章である双頭の鷲が大仰に刻印されている。
「宮内省からの要請だ。新設された帝宮の『奥庭』——つまり、皇帝陛下の私的な区画を管理するメイド長から、優秀な人材を推薦しろとの通達だ」
商会の執務室。窓際で静かに待機していたメアリーが、その言葉にピクリと反応した。
相変わらずの無表情。しかし、彼女の腕を覆う「スライムの手袋」が、ほんの一瞬だけ、強烈な酸の匂いを放って泡立った。
皇帝。
三年前に彼女の故郷を焼き尽くし、同胞を虐殺した、全ての元凶。その首が、ついに手の届くところに現れたのだ。
「商人さんの商会が大きく成長したおかげです。感謝します」
メアリーは恭しく、美しいカーテシー(お辞儀)をした。
「いや、お前さんがウチの『顔』として、貴族どもに最高のもてなしをしてくれたからこそ、宮内省の耳にも届いたんだ。皮肉なもんさ。復讐のために身につけた奉仕の技術が、復讐の扉を開いたんだからな」
商人は複雑な表情で頭を掻いた。
彼はメアリーの復讐を止める気はなかった。帝国のやり口に反吐が出る思いだったのは彼も同じだからだ。だが、この三年間、まるで自身の娘のように(あるいはそれ以上に厄介な爆弾として)彼女を見守ってきた商人にとって、彼女を「死地」へ送ることには抵抗があった。
「メアリー。もう一度だけ聞くぞ」
「はい」
「帝宮は、この三年でお前さんが経験してきたような貴族の屋敷とは次元が違う。魔法使いたちが張り巡らせた結界、毒見役のプロ、そして何より皇帝直属の暗殺部隊『影』がウヨウヨしてる。いくらお前さんの毒が凄まじくても、一度でも露呈すれば、たちまち蜂の巣だ」
メアリーの翡翠の瞳は、揺るがなかった。
「私はチフス人です。呼吸をするように、毒を生成する。この身体を捨てない限り、私は私の本質を隠し通すことはできない」
彼女は自分の手先から垂れる緑色の粘液を見つめた。
「でも、私は『完璧なメイド』になりました。メイドは、決して主人の前で己の感情を露わにしない。決して、主人のために用意した舞台を汚さない」
彼女は胸元——美しいブラックレザーのコルセットの上に手を当てた。
「この白と黒の衣が、私の『毒』を隠す最大の盾です。皇帝の寝首を掻くその一瞬まで、私はただの、美しくて、従順で、無害な『メアリー』であり続けます」
「……そうか」
商人は小さく息を吐き、机上の推薦状にサインをした。
「行け。そして、やり遂げろ。ただし、無様に犬死にするなよ。お前さんは、俺のとびきり優秀な『看板娘』なんだからな」
「はい、旦那様」
メアリーは静かに微笑んだ。
いや、それは微笑みと呼べるようなものではなかったのかもしれない。ただ唇の端が数ミリ上がっただけの、氷の亀裂のようなものだった。
しかし、商人はそれを見て背筋が凍った。
彼女はすでに、人間の枠を外れた本物の「有毒の怪物」に仕上がっている。
そしてその怪物は今、完璧な礼節と白黒の衣を纏って、帝国の心臓部へと放たれるのだ。
荷物をまとめたメアリーは、商会を後にした。
空には、冬の訪れを告げる灰色の雲が立ち込めている。
帝都・中央宮殿。
すべての終わりにして、彼女の復讐の舞台が、そこに待っていた。
(第8話 了/Phase 2 完結)




