白黒の衣装
メイドの修練は、端的に言って地獄だった。
しかし、それは家事労働の過酷さや作法の厳しさによるものではない。メアリーにとって最大の試練は、己の「本能」との戦いであった。
「駄目だ! 袖口が溶けかかってるぞ!」
商人の怒声が飛ぶ。
商会の裏庭で、メアリーは銀のティーポットセットを運んでいた。彼女が着ているのは支給されたメイド服……ではなく、その代用品としてあてがわれた安物の布の服だった。
その布の服の袖口から、チリチリと微かな黒煙が上がり、生地が溶け落ちていく。メアリーの腕を覆う特有の緑色の「スライムの手袋」が、布の繊維を酸のように侵食しているのだ。
「……申し訳ありません」
メアリーは静かに謝罪し、ティーポットをテーブルに置いた。
チフス人の毒の生成は、生命活動そのものである。呼吸を止めることができないように、毒の分泌を完全に止めることは不可能に近い。特に、彼女の心の奥底で常に燃え盛る「皇帝への憎悪」が、身体を緊張させ、本能的に致死性の毒を過剰分泌させてしまっていた。
「お前さん、復讐のことばかり考えてるだろ」
商人はため息をつきながら、新しい布を投げ渡した。
「毒を抑えたいなら、心を波立たせるな。喜びも、悲しみも、そして憎しみも完全に殺せ。ただ透明な『水』になれ。そうでなきゃ、お前が本物のメイド服を着た瞬間に、自慢の白エプロンを溶かして台無しにするだけだ」
心を殺す。
メアリーは己の掌を見つめた。
どろりとした濃緑の粘液が、指先からゆっくりと滴り落ちていく。
故郷の森が燃える光景。黒焦げになった同胞たちの姿。それがフラッシュバックするたびに、毒は色濃くなり、周囲の空気を歪ませるほどの瘴気を放つ。
「……水」
メアリーは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
皇帝の顔(見たことはないが)を頭から消し去り、故郷の記憶も、自分自身の存在すらも真っ白な雪原の下に埋めるように意識を沈静化させていく。
ただ、茶を淹れ、床を磨き、主人の命令に完璧に従うだけの『機能』。
奉仕機械。人形。影。
数ヶ月間、彼女はひたすらに感情の切除と毒の抑制訓練を繰り返した。
そして——十五歳の冬。
メアリーはついに、本物のメイド服を着ることを許された。
「……どうだ」
商人の執務室。
商人が息を呑む音が聞こえた。
そこには、一幅の絵画のように美しい、白と黒の娘が立っていた。
流れるような金髪のサイドには漆黒の飾りリボン。
一切の感情を感じさせない、硝子玉のような翡翠の瞳。
黒のレザーコルセットは美しいウエストラインを引き締め、背中で結ばれた純白の大きなリボンが、彼女の可憐さを際立たせている。足元は黒い編み上げのロングブーツが、規律正しい印象を与えていた。
だが、その完璧なメイド姿の中で、明確な「異物」が二箇所あった。
両腕の肘下から指先にかけてを覆う、薄暗く透過する緑色の「スライム」。
そして、黒いニーハイソックスの上、露出した絶対領域の白い太ももを伝って滴る、同じく緑色の粘液。
「毒の分泌は、最小限に抑えました。……これなら、服の繊維を変質させることはありません」
メアリーが静かに言った通り、彼女の腕から下がるエプロンや袖口は、毒に侵食されることなく綺麗な白と黒を保っていた。
毒を完全に消すことはできない。しかし彼女は、毒の「殺傷力(酸性度)」と「量」を、日用品に影響を与えないギリギリのラインまで抑え込むという、神業に近いコントロールを身につけたのだ。
「……驚いたぜ。お前さん、本当に『生きた芸術品(毒)』だな」
商人の感嘆の声に、メアリーは初めて、優雅にお辞儀をして応えた。
有毒のメイド、メアリー。
彼女の恐るべき潜伏生活が、ここから幕を開ける。
(第6話 了)




