灰と空白
帝国の辺境に位置する、とある中堅商会の裏通り。
薄暗い倉庫の一角に設けられた粗末なベッドの上で、メアリーは目を覚ました。
故郷の森が帝国軍によって焼き払われてから、三日が経過していた。
「起きたか、メアリー」
白髪交じりの商人——今は『キャラバン商会』の会頭におさまっている男が、水差しを持って部屋に入ってきた。
メアリーは身を起こし、差し出された水を無言で受け取った。彼女の手首からポタポタと落ちる緑色の粘液が、木製のコップの表面を僅かに腐食させる。
「体調はどうだ。あの火の海から逃げ出す時に、だいぶ瘴気と熱を吸い込んじまったからな」
「……問題、ない」
抑揚のない、本当に人形のような声だった。
商人は息を吐き、ベッドの脇に置かれた木箱に腰掛けた。
「お前さんの故郷の森は、完全に灰になったよ。帝国軍の公式発表では、『忌まわしい魔獣の巣窟を焼き払った』ということになってる。チフス人の存在自体が、歴史から消し去られた」
メアリーの翡翠色の瞳には、何の感情も浮かばなかった。
悲哀の涙を流すことも、絶望に叫び声を上げることもない。ただ、深海のように冷たく、静まり返っていた。しかし、商人は気づいていた。彼女の腕を覆う毒の粘液——「スライムの手袋」が、平常時よりも異常に濃く、そして微かに脈打っていることに。
彼女の心は死んでいない。むしろ、限界まで圧縮された莫大な憎悪が、限界点を超えて静まり返っているだけなのだと。
「商人さん」
「……なんだ」
「私を、あの時見せてくれた『メイド』にして」
突拍子もないメアリーの言葉に、商人は顔をしかめた。
「お前な、自分が何を言ってるか分かってるのか? メイドってのは、人間の社会の真っ只中に入り込んで、貴族や富裕層の生活の世話をする仕事だぞ。お前みたいな『歩く死』が——少しでも感情が乱れれば致死の毒を撒き散らす存在が、できる仕事じゃない」
「できる」
メアリーは短く、しかし絶対に覆らない鋼の意志を込めて言い切った。
「私が、必ずこの毒を抑え込む。……あの皇帝の首を取る、その時まで。誰にも悟られないように、完璧に、綺麗に」
商人は押し黙った。
彼もまた、あの森の大人たちとは長年の付き合いがあった。彼らがどれほど温厚で、森と平和を愛していたかを知っている。それを一方的に利用し、証拠隠滅のために虐殺した帝国と皇帝のやり方には、商人としての損得を差し引いても、強い怒りを覚えていた。
「……本気なんだな」
「本気」
商人は天を仰ぎ、深く、深くため息をついた。
「分かったよ。どうせお前さんは、俺が止めても一人で帝都に向かって、途中で野垂れ死ぬか、あるいは町を一つ二つ毒の海に沈めて討伐されるかのどっちかだろうしな。だったら、俺が徹底的に仕込んでやる」
商人は立ち上がり、倉庫の隅にあったトランクを開けた。
あの日、森の入り口で彼女に見せた、あの白と黒の衣である。
「ただし、条件がある。お前さんのその毒——特に両腕と太ももから絶え間なく出るその粘液を、服を溶かさないレベルにまで完璧にコントロールできるようになることだ。少しでも制御に失敗したら、その時点でこの話は終わりだ」
メアリーの瞳の奥で、かすかに業火のような何かが揺らめいた。
「……約束する」
かくして、有毒のメイドの修練が始まった。
それは、外の人間が歴史から不要なものとして切り捨てた「毒」が、最も洗練された「純白の狂気」へと変貌するまでの、長くて短い三日間の次に来る、過酷な日々の幕開けであった。
(第5話 了)




