灰燼と喪失
大人たちが村を出てから、五年の歳月が流れた。
十五歳になったメアリーは、もはや「幼い少女」ではなく、完成された氷の彫刻のような美しさを持つ娘に成長していた。真っ直ぐに伸びた金髪と、相変わらずハイライトのない、玻璃でできたような翡翠色の瞳。
無意識下で分泌される毒素の量も増え、彼女の両腕にかぶさるように発生する緑色の粘液は、さながら半透明の長い手袋のようだった。太ももから滴り落ちる毒液も、より色濃く、粘度を増している。
あの不気味なほどの静けさに包まれていた村には、大人たちは誰一人帰ってこなかった。
残された老人たちやメアリーのような子供たちは、ただ淡々と、毒花に水をやり、いつものように日々を過ごしていた。彼ら特有の感情の欠落が、村から狂気を遠ざけていたのかもしれない。だが、それでも——メアリーの中に巣食い始めた「空白」は、年月とともに少しずつ、その輪郭をはっきりさせつつあった。
その日、メアリーは森の境界線に近い開けた場所へ出向いていた。
いつもの「商人」との取引のためだ。残された者たちだけで精製した粗削りな毒素の結晶や、森の希少な薬草を彼に渡し、代わりに村の備蓄用の食料を受け取る。これが、メアリーに与えられた最も重要な仕事になっていた。
「よお、メアリー。ずいぶんと別嬪さんになった……が、相変わらずその腕のシロップみたいなもんは恐ろしいな」
すっかり白髪交じりになった商人が、特製の防護マスク越しに苦笑する。
メアリーは何も答えず、黙って背負い籠から木箱を下ろした。ドサリという重い音と共に、メアリーの腕から垂れた毒の滴が、枯れ葉をジュッと溶かす。
「……お土産は?」
「はいはい、分かってるよ。お前さん、小さい頃に見せたあのメイドの本をよっぽど気に入ったみたいだからな。今日はとっておきの『実物』を持ってきたぜ」
商人が荷馬車の奥から取り出したのは、一着の衣服だった。
上質の黒い生地で作られたワンピース。そして、雪のように真っ白なエプロンと、同じく白いフリルのヘッドドレス。絵本で見たあの「メイド服」そのものだった。
メアリーの翡翠の瞳が、これまでにないほど僅かに見開かれる。
「外の世界の、本物のメイド服だ。ちょっとお前さんにはサイズが大きいかもしれないが……」
メアリーはそれに手を伸ばしかけ——やめた。
自分の手は、強酸にも似た毒の粘液に覆われている。触れれば、たちまちその美しい白と黒の対比は醜く変色し、溶け落ちてしまうだろう。
「……触れない」
ぽつりとこぼしたメアリーの声には、微かな葛藤の色が滲んでいた。
「私の毒は、これを綺麗に着ることを、許してくれない」
商人は息を呑んだ。感情を持たない毒の化身のごとき彼女が、服一つに対してそこまで執着を見せたことに驚いたのだ。
何か気の利いた言葉をかけようと商人が口を開きかけた、その時だった。
ドォォォォォォォォォン……!
腹の底から響き渡るような、重低音の轟音が空を震わせた。
メアリーが振り返ると、彼女の故郷である「腐海の森」の中枢部——集落があるはずの方角の空が、あり得ない色に染まっていた。
夕焼けの赤ではない。毒の瘴気の紫でもない。
それは、全てを焼き尽くす灼熱の「紅」だった。
「な、なんだ!? あの爆発は……!」
商人が悲鳴のような声を上げる。
メアリーの脳裏に、五年前に去った大人たちの姿がフラッシュバックした。
——皇帝の仕事を終わらせたら、すぐに帰ってくるわ。
母の言葉。その仕事とは、おそらく終わっていたのだ。では、その「報酬」とは何だったのか。
「……村が」
メアリーはメイド服から視線を外し、森へと駆け出した。
彼女の並外れた脚力が、枯れ葉を蹴立てて疾走する。
「おい、メアリー! 待て! 戻っちゃ駄目だ!!」
商人の制止を振り切り、彼女は燃え盛る森の中へと飛び込んだ。
村に近づくにつれ、熱波が彼女の肌を叩いた。
チフス人はあらゆる毒素に耐性を持つが、物理的な熱や炎には普通の人間と同じように弱い。
視界に飛び込んできたのは、言語を絶する地獄だった。
瘴気に満ちた森の木々が、不自然な青白い炎を上げて燃え上がっている。それは特級の炎魔術と、軍事用の焼夷剤を掛け合わせたような、絶対に消えない煉獄の業火だった。
そして村の広場には。
「あ……」
メアリーの口から、微かな声が漏れた。
黒焦げになった無数の死体が転がっていた。それは五年前に残された老人たちであり、昨日まで一緒に毒花の手入れをしていた同年代の子供たちだった。
チフス人は争いを好まない。軍隊の急襲に対して抵抗する術を持たなかった彼らは、逃げる間もなく一方的に焼き殺されたのだ。
「生存者はいるか! 徹底的に焼け! 皇帝陛下の威信に関わる『汚点』だ、一匹たりとも逃すな!」
炎の向こうで、完全な対毒装備に身を固めた帝国兵たちが怒号を交わしている。
——皇帝陛下の威信に関わる汚点。
その言葉の意味を、十五歳のメアリーは直感的に理解した。
大人たちは利用されたのだ。猛毒を利用して難攻不落の要塞を落とし、帝国を打ち立てるための捨て駒として。
そして、覇業が成った今、英雄として歴史に名を刻む皇帝にとって、「猛毒の人種と手を組んだ」という事実は、決して知られてはならない汚点だった。
すべては、証拠隠滅のための虐殺。
メアリーの足元に、黒焦げになった何かが転がっていた。
それは、彼女が昨日作ったばかりの、毒草を編んだ花冠だった。
——ブツン。
メアリーの中で、何かが千切れる音がした。
感情の欠落していた彼女の精神の奥底で、かつてないほどの激しい嵐が吹き荒れた。
それは悲哀ではない。恐怖でもない。
純粋で、濃密で、全身の血液が沸騰するような、真っ黒な「憎悪」。
そして、冷酷無比なる「復讐」の芽生えだった。
「……皇帝」
メアリーの口から、呪いのようにその単語が紡がれる。
同時に、彼女の手足から、これまでとは比較にならないほど大量の、そして猛烈な腐食性を持った濃緑の毒液が溢れ出した。ポタポタと落ちるそれは、足元の地面を深々と抉り、岩すらも溶かし始めた。
これが、チフス人が本能の底から感情を爆発させた状態。自身の命さえ削りかねない、極限の毒の生成だった。
「そこだ! 生き残りが一匹いるぞ!」
帝国兵の一人がメアリーに気づき、剣を構えて突進してきた。
メアリーは逃げなかった。ただ、空っぽの翡翠の瞳で、その兵士を真っ直ぐに見据えた。
両腕に纏った毒の粘液——「有毒のスライム手袋」が、異常な脈動を開始する。
殺してやる。この腕の毒で、全員溶かしてやる。
メアリーが一歩踏み出そうとした、その瞬間だった。
「馬鹿野郎!!」
背後から力強い腕が伸びてきて、メアリーの身体を強引に抱きかかえて後方へと飛んだ。
防護服を纏った商人だった。
「離せ」
メアリーが低く呟くが、商人は彼女を抱えたまま、驚異的な脚力で森の出口へと撤退していく。
「離すもんか! お前一人じゃどうにもならねえ! 死にたいのか!」
商人の肩越しに、燃え落ちる村が遠ざかっていく。
メアリーは抵抗をやめた。今の自分では帝国兵の群れに勝てないことを、冷徹な理性が悟ったのだ。
「……商人さん」
炎の熱と瘴気が入り混じる撤退路の中で、メアリーは無感情な声で言った。
その声には、以前の「空っぽの人形」とは違う、確かな意思の重みがあった。
「私に、あのメイド服の着方を教えて」
商人は走りながら、驚愕に目を見開いた。
故郷が滅ぼされたこの瞬間に、なぜ服の話などするのかと。
メアリーの翡翠の瞳は、燃える村の残骸を映しながらも、既にその先の遠い未来——帝国の中心、玉座に座る「皇帝」の首だけを見つめていた。
「この毒を隠す方法を教えて。……人間の中に紛れる方法を」
彼女は決意したのだ。
白と黒の洗練されたメイド服。それに身を包み、この忌まわしい手足の毒を完璧に制御しきってみせる。
そして、誰よりも美しく、完璧な奉仕者として帝国の心臓部に潜り込む。
すべては、ただ一人の男に、この世の誰よりも凄惨な「毒」を盛るために。
有毒のメイド、メアリーが「本当の意味で」誕生した瞬間であった。
(第4話 了/Phase 1 完結)




