陰影
鬱蒼と生い茂る腐海の森に、外の人間が踏み入ることは原則として不可能である。
しかし、商人が不吉な噂をもたらしてから数ヶ月後。その「特例」が出現した。
「……彼らが、外の軍隊?」
十五歳になったメアリーは、物陰から広場の中央をじっと見つめていた。
相変わらず感情の読めない凪いだ翡翠の瞳。十歳だった頃よりも背は伸び、手足はすらりとして、人形のような美貌はより完成されたものになっていた。だが、両腕と太ももから滴り落ちる極彩色の緑の粘液は、彼女が間違いなく「歩く死」であるチフス人の系譜であることを物語っている。
広場には、何重にも防毒魔法を施された重装備の甲冑を纏う使者たちが立っていた。
彼らが持参したものは、商人の持ち込む日用品とは全く異なる。金貨が詰まった箱、希少な魔石、そして——羊皮紙に記された「王からの勅命」であった。
「我らが王、いや、次代の皇帝となるお方は、あなた方『チフス人』の力を必要とされている」
使者の代表である騎士が、ガスマスクのフィルター越しに響く篭った声で宣言した。
「北の要塞都市は、古の毒素が充満する難攻不落の地。我々の軍勢では内部に侵入することすら適わない。しかし、全ての毒を無効化し、自らも不可視の毒を行使するあなた方であれば、あの要塞を内側から崩壊させることができる」
広場に集まった大人たちの間に、静かなざわめきが広がった。
チフス人は争いを好まない。しかし、使者が提示した条件は、この森の保護と、生活物資の永久的な提供という、圧倒的に有利なものだった。
何より、これだけの防毒装備を整えた軍隊が森のすぐ外に控えているという事実は、「断れば武力で森を焼く」という無言の脅迫でもあった。
「……分かった」
族長が重々しく頷いた。
「未来の皇帝陛下に協力しよう。我々大人たちが赴く。だが、子供たちは置いていく。彼らはまだ戦場に出るには幼く、毒の制御も未熟だ」
交渉は成立した。
その日から、集落の様子は一変した。
穏やかに毒草を育て、魔法薬を精製していた大人たちは、身に纏う死の空気を隠すこともなく、森の出口へと向かって歩き出した。
何十人ものチフス人の集団が移動するだけで、彼らから発せられる瘴気によって、森の輪郭が歪んで見えるほどだった。
「お母さん」
出発の朝、メアリーは母親の服の裾を引いた。
母親は振り返り、メアリーの頭を柔らかく撫でた。相変わらず、二人の間には一切の感情的な激情はない。まるで散歩に出かける前のような、静謐な別れだった。
「いい子でお留守番しているのよ、メアリー。商人さんが来たら、いつものように荷物の受け取りを頼むわね」
「うん。……お父さんとお母さんは、いつ帰ってくるの?」
「皇帝陛下のお仕事が終わったら、すぐに帰ってくるわ。外の世界の、綺麗なお土産を買ってきてあげるからね」
それが、メアリーが両親と交わした最後の会話だった。
大人たちが消えた集落は、より一層静まり返った。
残されたのは、ごく少数の老人と、メアリーを含む子供たちだけ。
彼らもまた、不安を口に出して喚き散らすような真似はしなかった。チフス人特有の感情の起伏の乏しさは、こういった異常事態でも遺憾無く発揮されていた。
メアリーは毎日、集落の中心にある広場のベンチに座り、ただ静かに赤い空を——森を覆う瘴気で乱反射した空を——見上げていた。
「メイド服、買ってくるかな」
ふと、メアリーの口からそんな呟きが漏れた。
幼い頃に商人に見せてもらった、あの白と黒の洗練された服。
この乱雑で極彩色な毒の森には似合わない、整然たる奉仕の象徴。
もしそれを着ることができたら、自分からとめどなく溢れ出るこの毒液も、少しは綺麗に見えるのだろうか。
彼女の手首を覆う緑色の粘液が、ポタリと地面に落ちる。
その雫を見つめながら、メアリーの中には、形容しがたい感情が芽生え始めていた。
寂しさというには淡すぎた。
喪失というには、まだ早すぎた。
それはただ、自分たちの存在が外の大きなうねりに巻き込まれつつあるという、冷たい予感に過ぎなかった。
この数ヶ月後、彼らが協力した「西の英雄」によって北の要塞は陥落し、かつてない強大な覇権国家——『帝国』の礎が築かれることになる。
大人のチフス人たちの尽力は、多大な血と毒を流しながらも、見事にその目的を果たしたのだ。
だが、覇業を成し遂げた権力者が、自らの手を汚した「歩く死」たちをその後どう扱うか。
その歴史の残酷な法則を、箱庭の中で育ったメアリーが知る由もなかった。
終わりの足音は、静かに、だが確実に、この腐海の森に向かって進軍を開始していたのだ。
(第3話 了)




