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外界のカケラ

 あれから数年の月日が流れた。

 毒の森の時間は外界から隔絶されているかのように穏やかで、季節の巡りさえも、独自の毒花が開花するか狂い咲くかという些細な変化でしか測ることができない。

 メアリーは十歳になっていた。


 相変わらず彼女の翡翠色の瞳には光がなく、人形のような静かな無表情のままだった。ただ、背丈は伸び、背中まで届く美しい金髪は彼女の肌の白さをよりいっそう際立たせていた。

 相変わらず制御しきれない体内の毒は、両腕を覆う手袋のような緑色の粘液として表出し、指先から絶え間なく雫を落としている。


「メアリー、すまないがこれを荷車まで運んでおくれ」


 族長の頼みに、メアリーはこくりと頷いた。

 彼女が抱え上げたのは、ずっしりと重い木箱だった。中には厳重に密封された、医療用あるいは暗殺用に高値で取引される「腐海結晶」が詰められている。

 メアリーの腕に纏わりつく毒の粘液が木箱の底に触れ、ジジッ……と木材の表面を薄く焦がすような音を立てた。しかし、彼女の毒液は完全に物質を溶かし尽くすわけではなく、彼女自身の無意識下のコントロールによって、表面を少し変質させる程度に留まっていた。


「よっと。サンキューな、お嬢ちゃん。……おおっと、箱の下が少しベトベトになってるが、まあ御愛嬌だな」


 防護服と魔石のガスマスクで全身を覆った「商人」が、荷車の上で木箱を受け取る。

 幼少期から顔馴染みであるこの商人は、メアリーにとって唯一の「外の世界の人間」だった。彼が持ってくる物資——岩塩や布地、そして外の世界の嗜好品——は、集落の生活になくてはならないものだった。

 そして何より、彼が持ってくる「外の匂い」は、無表情なメアリーの心の奥底に、さざ波のような微かな興味を呼び起こした。


「商人さん。今日は、何のお土産?」


 感情の起伏はないが、どこか催促するようなメアリーの問いに、商人はガスマスク越しにくぐもった笑い声を上げた。


「へっへ、今日は甘いお菓子じゃないぜ。ちょっと変わった本を手に入れてな。お嬢ちゃんもそろそろ十歳だろ? 絵本くらい読めたほうがいいかと思ってな」


 商人が差し出したのは、分厚い皮表紙の古びた本だった。

 受け取ったメアリーがページをめくると、そこには様々な衣装を着た人間たちの挿絵が描かれていた。鎧を着た騎士、豪奢なドレスを着た貴婦人、そして——。


「……これ、は?」


 メアリーの手が止まったページ。

 そこには、黒い生地に真っ白なエプロンを重ね、頭には白いフリルのヘッドドレスを着けた女性の絵が描かれていた。

 その質素でありながらどこか洗練された白と黒の鋭い対比が、メアリーの目を引きつけた。極彩色で毒々しい森の色彩の中で育った彼女にとって、その白黒の衣はひどく異質で、それゆえに美しく見えたのだ。


「ああ、そりゃ『メイド』ってやつの服だな。外の世界の貴族や金持ちの屋敷で、ご主人様のために掃除や洗濯なんかの家事を取り仕切る職業さ。忠誠と奉仕の象徴なんて言われてる」


「奉仕……」


「そうだ。誰かのために尽くす、綺麗で従順な働き手ってわけだ。まあ、お前さんたちみたいに自由気ままな森の住人には無縁の話だろうがな」


 商人は何気なくそう言って笑ったが、メアリーはいつまでもそのページを見つめていた。

 誰かのために尽くす。綺麗に、整然と。

 それは、周囲のものを無差別に侵食し、近づくものを死に至らしめる自分たち「有毒人種」の在り方とは、対極にあるように思えた。


「綺麗」


 メアリーの指先から垂れた緑の毒液が、ページの端に落ちた。

 ジワリと紙が溶け、茶色く変色する。

 そのシミを見て、メアリーは微かに——本当に微かにだが——眉をひそめた。自分の中からとめどなく溢れ出るこの毒が、美しい白黒の衣を汚してしまうような気がして。


「おっと、本を溶かさないでくれよ。……それより、最近外の世界がきな臭くてな」


 商人が急に声を潜め、族長に向かって話題を変えた。

 メアリーは本から目を離し、二人の会話に耳を傾ける。


「きな臭い、とは?」族長が尋ねる。

「西の英雄さ。破竹の勢いで周辺の国々を平らげてる。近いうちに、新しい『帝国』ができるって噂だ。そしてその英雄は……勝利のためなら手段を選ばない、冷酷で合理的な男らしい。この深い森にまで、その手が伸びてこないといいがな」


 商人の言葉は、深い霧の中に響く不吉な鐘の音のようだった。

 メアリーには「帝国」も「英雄」も何のことか分からなかった。ただ、商人のガスマスクで覆われた顔の奥にある双眸が、かつてないほどの不安に揺れていることだけは理解できた。


 彼女は再び視線を本に落とした。

 白と黒のメイドの絵。その完璧に整った姿の横には、醜い緑色の染みが広がっていた。

 それはまるで、間もなく彼女の運命を侵食しようとしている、避けがたい未来の暗示のようでもあった。


(第2話 了)



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