毒の箱庭
世界には、人が踏み入ってはならない場所がある。
それは例えば、神の怒りに触れた焦土であったり、底なしの暗黒が口を開ける深淵であったりする。しかし、大陸の辺境に位置するその森は、決して荒涼としているわけではなかった。
むしろ、そこは異常なほどの生命力に満ち溢れていた。
木々の葉は、目に刺さるような蛍光の緑。
大地を覆う苔は、脈打つように蠢く紫。
空中には常に、薄緑色の微粒子——致死性の瘴気——が、朝靄のように漂っている。
普通の人間であれば、この森の入り口で息を吸っただけで肺を焼かれ、数歩も歩かないうちに血を吐いて倒れるだろう。強力な魔獣でさえも、本能的にこの森を避けて通る。
ここは「腐海の森」とも「猛毒の揺り籠」とも呼ばれる、文字通りの死地であった。
だが、その死地の最深部には、一つの集落が存在していた。
「メアリー、あまり遠くへ行っては駄目よ」
優しく響く女性の声に、金色の長い髪を揺らした小さな少女が振り返った。
年齢は、五つか六つほどだろうか。愛らしい顔立ちでありながら、彼女の翡翠色の瞳には、子供特有の無邪気な輝き——ハイライト——が一切存在しなかった。まるで、精巧に作られたビスクドールのように、感情の起伏を感じさせない静謐な眼差し。
彼女の名前はメアリー。
この猛毒の森を住処とする少数民族、「チフス人」の一人である。
「はい、お母さん」
メアリーは短い返事を落とし、足元に群生している真っ赤なキノコ——一滴の果汁で象をも殺す「血狂茸」——を、小さな手でそっと撫でた。
彼女の指先が触れても、白く柔らかな肌は何の変哲もなく無事だった。それどころか、彼女の小さな身体そのものが、この森と同じ「毒」の一部として完全に調和していた。
チフス人。
それは、呼吸をするように体内で毒性物質を生成し、ありとあらゆる毒に対して完全な耐性を持つ特異な人種である。彼らにとって、この致死の森は、外敵から身を守るための完璧な城壁であり、同時に安らぎを与える揺り籠でもあった。
「今日は、お花、綺麗」
メアリーが指差した先には、瘴気を含んで妖しく光る巨大な毒花が咲き乱れていた。
母親は微笑みながら歩み寄り、メアリーの頭を撫でる。その母親の指先からも、微かに緑色の粘液が滲み出していた。チフス人の身体機能の表れである。彼らは感情の高ぶりや生命活動のサイクルに伴って、体表から有毒な粘液を分泌する性質があった。
「そうね。今年は瘴気の巡りがいいから、毒花たちも元気みたい」
メアリー自身の小さな両腕にも、薄緑色の粘液が手袋のように薄く膜を張っていた。まだ幼い彼女は、体内で生成される毒素の分泌を完全にはコントロールできていない。そのため、前腕から指先にかけて、あるいはふともものあたりから、常に粘度の高い緑色の毒液が雫となって滴り落ちていた。
ポタリ。
メアリーの指先から、緑色の雫が地面に落ちる。
それは、周囲の毒草にとって極上の肥料となる。シュルシュルと音を立てて蔓を伸ばした毒草が、メアリーの足元に親しげに擦り寄ってきた。
これが、彼女にとっての「普通」だったのだ。
外界の人間たちが、自分たちチフス人を「忌むべき毒の末裔」「歩く死」と呼んで恐れていることなど、この箱庭の中で育ったメアリーには知る由もなかった。
彼女の世界は、この集落と森だけで完結していた。
集落の大人たちは、皆穏やかで優しかった。
毒を体内に宿しているという恐ろしい事実とは裏腹に、チフス人の性質は極めて温厚である。争いを好まず、ただ静かに、森と共に生きることを望んでいた。
体力や筋力といった身体能力は平均的な人間と何ら変わらない。彼らを特別な存在にしているのは、その特異な体質だけであった。
「メアリー、帰ろうか。そろそろ『外の商人』が来る時間だわ」
「……商人さん?」
「ええ。私たちの森に入ってこられる、数少ない人間の客人よ」
母親に手を引かれ、メアリーは集落の中心へと歩き出した。
外の世界。
メアリーにとってそれは、絵本の中のおとぎ話と同じくらい現実味のない言葉だった。
ただ、定期的に集落を訪れるというその「商人」だけが、彼女を外の世界と繋ぐ唯一の細い糸であった。
集落広場に出ると、すでに大人たちが集まっていた。
彼らが持ち寄っているのは、この森でしか採れない希少な毒草や、毒素を濾過した魔法薬の原料などである。これらは外界では莫大な価値を持つ。
「おお、来た来た。相変わらず、ここは寿命が縮むような空気をしてやがるな」
豪快な笑い声と共に、一台の馬車——いや、強靭な魔獣に引かれた装甲荷馬車が、集落の広場に乗り込んできた。
御者台に座っていたのは、分厚い防護服に身を包み、顔の半分を特殊な魔石のガスマスクで覆った初老の男だった。
「よう、族長。約束の物資、持ってきたぜ」
「ああ、助かるよ。こちらからも、例の薬草を用意してある」
メアリーは、母親の影からその防護服の男をじっと見つめた。
翡翠色の、ハイライトのない瞳が、瞬きもせずに男の動きを追う。
「ん? なんだいお嬢ちゃん。俺の顔に何かついてるか?」
商人の男がガスマスク越しにメアリーを見て、気さくに笑う。
メアリーは表情を変えることなく、小さな首を傾げた。
「……息苦しそう」
ぽつりとこぼれたその感想に、商人は目を丸くし、やがて腹を抱えて笑い出した。
「はははは! そりゃそうさ! こんなもん外せば、おじさんは一瞬でお陀仏だからな。お前さんたちみたいに、この空気を美味そうに吸える肺を持っちゃいないんだ」
商人の言葉の意味が、メアリーにはよく分からなかった。
自分にとっては甘く芳醇なこの空気が、なぜこの男にとっては毒になるのか。なぜ、重苦しい服を着なければならないのか。
「まあいいさ。お嬢ちゃんには、とっておきのお土産があるぜ。ほらよ」
商人は荷馬車の奥から、小さな木箱を取り出した。
中に入っていたのは、外の世界で作られたという「砂糖菓子」だった。
集落のものとは違う、鮮やかな色合い。甘い香り。
メアリーはそれを受け取ると、こてん、と再度首を傾げた。
「……ありがとう」
無表情のまま、抑揚のない声でお礼を言う。
商人は少しだけ寂しそうな顔をした後、族長たちとの取引に戻っていった。
メアリーは砂糖菓子を一つ口元に運ぶ。
甘い。
けれど、どこか物足りなかった。
この森の果実が持つ、痺れるような刺激や、奥深い苦味が一切ないからだ。
「綺麗だけど、味気ない」
メアリーは、手の中の砂糖菓子を見つめながら呟いた。
彼女の指先から垂れる緑色の粘液が、木箱の端を薄く溶かしている。
これが、異世界に生まれた有毒の少女、メアリーの幼少期である。
毒に囲まれ、毒に護られた、永遠に続くかと思われた平穏な日々。
彼女が生きるこの極彩色に彩られた猛毒の箱庭は、紛れもなく彼女の世界の全てであった。
——だが、外の世界の『覇道』は、この小さな箱庭を永遠に放置してはくれなかったのだ。
後に帝国初代皇帝と呼ばれる男の影が、この森のすぐ外側まで迫ってきていることを、この時のメアリーたちはまだ誰も知らなかった。
(第1話 了)




