崩落の玉座
復讐の夜から、一年が経過した。
帝都・中央宮殿。かつての栄華を極めたその白亜の城壁は、今や見る影もなく黒ずみ、所々が溶け落ちて崩壊の危機に瀕している。
皇帝の寝室から始まった「死ねない毒の病」は、瞬く間に宮殿中枢を死の瘴気で満たした。高位の浄化魔導師たちが命がけで結界を張り、皇帝を完全隔離の地下牢へ幽閉したことで、帝都全域が腐海に沈む最悪の事態だけは辛うじて免れた。
だが、最強の指導者であった皇帝が「生き霊のような怪物」と化した帝国は、あっけなく瓦解した。
政令は滞り、皇帝の権威を失った将軍たちは次々と反旗を翻し、周辺諸国も失地回復のために一斉に蜂起したのだ。無敵を誇った巨大な帝国は、メアリーの放った一滴の毒によって内側から完全に溶け落ちたのである。
「大戦の火種が、うちの商会の近くまで飛んでこなければいいがな」
帝国の辺境に近い、のどかな森のほとりに建つ古き良き石造りの屋敷。
商人は窓辺で分厚い葉巻をふかしながら、帝都の方向——燃え上がるような赤い空を見据えていた。
キャラバン商会は、帝国の崩壊をいち早く察知し(何しろ犯人が身内である)、素早く資産を辺境の不動産に移して事実上の「隠居生活」に入っていた。
「……お茶が入りました、旦那様」
静かな足音と共に、銀のトレイに乗ったティーカップがデスクの上に置かれた。
メアリーだった。
二十一歳になった彼女は、より一層、静謐な美しさを纏っていた。白と黒の洗練されたメイド服。そして、両腕を覆う「緑色のスライム手袋」。
「おう、すまないなメアリー」
商人はティーカップを受け取りながら、メアリーの手首を見た。
「お前さん、その……『毒』の量が、少し減ったんじゃないか?」
メアリーは自分の太もものあたりを見下ろした。以前は黒ずんだ極彩色の濃緑で、絶え間なく脈打つように滴り落ちていた有毒の粘液が、今は澄んだ薄緑色になり、滴る量も減っている。
「はい。……あの男が地下牢で永遠に苦しんでいるという報告を聞いた日から、どうやって毒の出力を上げようとしても、心拍の奥が冷え切ってしまっているようで」
メアリーの翡翠の瞳は相変わらずハイライトのないガラス玉のままだったが、かつてのような「業火」を思わせる鋭い光は消え去り、ただ底なしに澄み渡った深淵のようだった。
チフス人の毒の生成は、感情と密接に結びついている。
五年前に失った故郷への哀悼、そして皇帝への絶対零度の憎悪が、彼女の毒を過剰に活性化させ続けていたのだ。しかし、復讐が「完了」した今、メアリーの魂を満たしていた黒い炎への薪は、完全に燃え尽きていた。
「もう……誰も殺さないのか?」
商人が冗談めかして尋ねる。
「私の仕事はメイドです。誰かに奉仕することです。旦那様が誰かを殺せと命じない限り、私の毒はただのお飾りに過ぎません」
メアリーは淡々と答え、深くカーテシーをした。
その姿は、かつての暗殺者の影を微塵も感じさせない。
「そうか、そうか。それなら、明日の朝は庭の落ち葉掃きと、シーツの洗濯を頼むわ。あの毒で綺麗に汚れだけ溶かしてくれよ」
商人の言葉に、メアリーは小さく「はい」と頷いた。
復讐を遂げたからといって、死んだ同胞が帰ってくるわけではない。
それでも、燃え尽きた灰の平原に、何か小さな花が咲くように。彼女の心の中には、ほんの少しだけ、「平穏」という名の風が吹き始めているように思えた。
(第14話 了)




