チェックメイト
遅効性の呪毒が発狂の牙を剥いたのは、それからちょうど一ヶ月後のことだった。
その日の夜明け前、黄金の鳥籠たる帝宮は、かつてないほどの阿鼻叫喚に包まれた。
「陛下!! 陛下ぁぁぁっ!!」
「誰か! 宮廷浄化魔導師を全員呼んでこい! 早く!!」
皇帝の寝室から、近衛騎士の悲鳴のような怒号が廊下中に響き渡っていた。
異常事態を察知したメイドたちが、廊下の端で青ざめた顔をして震えている。もちろん、その中には完璧な静寂を保つメアリーの姿もあった。
扉の奥から漏れ聞こえてくるのは、老人に似つかわしくない、獣のような絶叫だった。
『オォォォォォォォォォ……ッッ! 熱い! 痛い! 身体が、俺の身体が溶ける!!』
駆けつけた高位の魔導師たちが寝室に飛び込んでいくが、数分後には彼ら自身が口から泡を吹いて転び出てきた。彼らの顔面は醜く爛れ、その口からは「致死の瘴気だ……近づくな……!」という呻き声が漏れている。
皇帝の肉体に仕込まれたメアリーの毒。
それは、皇帝の細胞一つ一つを「強酸の毒壺」に作り変えるという、悪魔の業だった。
皮膚の下で肉が溶け、内臓が爛れる絶望的な苦痛。しかし、毒は同時に皇帝の生命力を異常活性化させており、「絶対に死ねない」状態に固定していた。
結果として、皇帝の身体は、永遠に溶けながら、永遠に再生を繰り返す「歩く瘴気発生源」へと変貌してしまったのだ。
それは図らずも、五年前、あの大火の中で息絶えていったチフス人の子供たちが、その小さな体を焼かれながら最後に放った苦痛の瘴気と、全く同じ性質を持っていた。
(……これで、少しは故郷の夜空と同じ色になったかしら)
寝室から廊下へと漏れ出し始めた薄緑色の瘴気。
強力な魔導師すらも倒れるその致死の空気を吸い込みながら、メアリーはただ一人、涼しい顔で立っていた。彼女にとって、その毒の匂いは愛娘を抱きしめる母親の温もりのように懐かしく、甘い。
「総員退避! この区画を完全に封鎖しろ!!」
将軍の怒号が飛び交い、メイドや兵士たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
大混乱の喧騒の中、メアリーもまた、他のメイドたちに紛れて廊下を静かに後ずさった。
ふと、振り返り。
阿鼻叫喚の地獄と化した皇帝の寝室に向かって、彼女は深く、美しく、完璧なメイドのお辞儀をした。
——さようなら、無敵の皇帝陛下。
——ご奉仕はここまでです。どうぞ、永遠の地獄を。
ハイライトを持たない翡翠の瞳から、ポロリと。
一滴だけ、緑色の真珠のような毒の涙が零れ落ち、大理石の床をジュッと溶かした。
それは、十五歳のあの日からメアリーの心臓を締め付け続けてきた「執着」が、完全に溶けて消え去った音だった。
帝国の崩壊は、ここからたった一年の間に訪れることになる。
皇帝が死ねないまま致死の毒を撒き散らすバケモノと化し、宮殿の中枢が腐海に沈んだことで、政治機能は完全に麻痺した。権力闘争と反乱が次々と勃発し、無敗を誇った巨大帝国は、内側から溶け落ちるように滅び去ることとなるのだ。
だが、その歴史の結末を、有毒のメイドが見届けることはなかった。
使命を終えた彼女は、混乱に乗じて白黒の衣を翻し、煙のように帝宮から姿を消したからだ。
目指すのは、五年前の約束の地。
口うるさいが憎めない、あの商人の待つ、平穏な裏通りへ。
(第13話 了/Phase 3 完結)




