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標的の喉元

 皇帝の肉体の衰弱という「弱点」を発見してから、メアリーの行動は迅速かつ冷徹だった。

 皇帝には持病の痛みを抑えるため、毎日決まった時間に特殊な「薬湯」が運ばれる。その薬湯の運搬ルート、給仕係のシフト、そして皇帝の寝室周辺に配置された『影』の巡回タイミング。メアリーはそれらを、完璧な清掃業務の傍らで全て頭脳に叩き込んだ。


 彼女が狙いを定めたのは「医療用リネン」の交換業務だった。

 皇帝の汗や血を拭い取るための最高級の白布。それらを洗濯し、香を焚き染め、寝室の前のワゴンまで運ぶ仕事。これならば給仕係ほどの厳格な毒見プロセスを挟まない。

 そして何より、リネンは直接、皇帝の「皮膚」に触れる。


「……優秀なあなたなら、この仕事も任せられるわね」

 メイド長からその命を受けた時、メアリーは氷のような瞳の奥で、五年ぶりの「歓喜」を感じていた。

「身に余る光栄でございます」


 メアリーは頭を下げた。もちろん、メイド長たちには彼女の内心のどす黒い炎など微塵も読み取れない。ただの、美しく従順な完璧なるメイドにしか見えていなかった。

 かくして、メアリーはついに皇帝の寝室がある「最深部」の回廊へと足を踏み入れる権利を得た。


 ある夜。

 皇帝が薬湯を飲み終え、就寝の支度をする時間。

 メアリーは真新しい純白のリネンを手押しワゴンに乗せ、静かな足取りで回廊を進んでいた。

 寝室の重厚な扉の前に立つ、二名の近衛騎士。そして廊下の影に同化している、数名の『影』。

「リネンの補充に参りました」

 メアリーの鈴を転がすような、しかし感情のない声に、騎士の一人が手で扉への接近を制止した。

「そこへ置け。我々が中へ運ぶ」

「かしこまりました」


 メアリーがワゴンを置いた直後だった。

 寝室の扉の奥で、激しい咳き込みと、苦痛に喘ぐ老人の声が響いた。

「ぐぅぉ……っ! 薬が、もっと薬湯を持て!! 背中を拭け!!」


 皇帝の声だ。

 かつて西の諸国を平らげ、無敵を誇った覇王の、情けなくも恐ろしい絶叫。

 扉の隙間から、一瞬だけ寝室の中が見えた。

 豪奢な天蓋付きベッドでのたうち回る、白髪の老人の姿。

 あれが、五年前のあの日、笑いながらメアリーの故郷を焼き払うよう命じた男。


(……見つけた)


 メアリーの全身の血が泡立ちそうになった。

 彼女の両腕を覆う「緑色のスライム手袋」が、持ち主の殺意に呼応してドクンと脈打つ。太ももを伝う毒の滴りが、一時的に粘度を増して黒ずむ。周囲の空気が、微かに鼻を刺すような酸の臭いを帯び始めた。


 ——抑えろ。

 メアリーは三年間の商会での地獄の訓練を思い出し、瞬時に心を「無」へと回帰させた。

 匂いを絶ち、脈動を鎮め、ただの氷の彫刻へと戻る。

 近衛騎士たちは扉の奥の騒ぎに気を取られており、メアリーのほんの数秒間の「毒化」に気づくことはなかった。


「……ご用命があれば、いつでもお申し付けください」

 メアリーは一歩下がり、完璧なカーテシーをしてその場を立ち去った。


 だが、その手押しワゴンに残された一番上の純白のリネンの中央には、ほんの僅かな、光の加減でしか分からない程度の、薄緑色の「染み」が残されていた。

 標的の喉元。

 メアリーの毒牙が、皇帝への最初の一口分の距離まで迫った夜だった。


(第11話 了)



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