静かなる靴音
皇帝の影は、想像以上に遠かった。
西の回廊を通過した「皇帝」を、メアリーは壁際に跪き、深く頭を下げたまま見送った。
護衛の騎士たちが鳴らす重々しい金属音の合間に、豪奢な絨毯を踏む革靴の音が微かに聞こえた。皇帝の靴音だ。しかし、直視は許されない。それに、皇帝の周囲には透明な壁のように分厚い『護衛の壁』が存在していた。
彼らは皇帝の専属暗殺防衛部隊『影』である。
彼らの一人が、跪くメイドたち(メアリーを含む全員)の背中を、研ぎ澄まされた殺気で舐め回すように一瞥したのを感じた。ほんの僅かでも不審な魔力や殺気、あるいは奇妙な筋肉の動きを見せれば、次の瞬間には首が飛んでいただろう。
メアリーの翡翠の瞳は一切の波動を見せず、心拍すらも「家具」と同程度に静まり返っていたため、難を逃れた。
「……遠い」
自室に戻り、一人になったメアリーはぽつりと呟いた。
皇帝の靴音が消えた後も、彼女の手先からは緑色の毒の雫が絶え間なく這い出ようとしていた。それを限界まで不活性化させ、ただの「ぬるい手袋」の状態に保ち続けるのには、尋常ではない精神力が必要だった。
宮殿に入ってから数ヶ月。
彼女の完璧にして冷徹な仕事ぶりは徐々に評価を高め、ついに『皇帝の私室の清掃』という、限られた一握りのメイドにしか許されない聖域への立ち入り許可を得るに至った。
だが、そこでも皇帝との接触は不可能だった。
清掃は皇帝が不在の間にのみ行われ、皇帝の茶や食事を用意する「給仕係」には全く別の特権階級のメイドが任命されている。
食事に毒を盛ることはできない。
給仕係が持つすべての皿とカップは、三人の毒見役と五種類の毒物感知魔法によって完全に保護されているからだ。
直接刺すこともできない。
『影』の部隊は、皇帝の寝室にも常に潜んでおり、皇帝の就寝中すらも交代で目を光らせている。近づくことすら死を意味した。
(どうやって、あの男の肉体に、私の『毒』を直接流し込む?)
メアリーはベッドの上で膝を抱え、自分の両腕を見つめた。
チフス人の毒素。それは経口摂取でなくとも、皮膚の粘膜からでも吸収されれば致死の効力を発揮する。しかし、相手は常に護衛に囲まれ、魔法の障壁で守られた皇帝だ。どうやって、自らの手で彼に触れるというのか。
ある夜。
深夜の廊下を、メアリーは燭台を手に静かに歩いていた。メイド長からの急な雑務の呼び出しだった。
途中、通りかかった中庭のガラス扉の向こうに、人影が見えた。
月明かりの下、豪将なガウンを羽織った初老の男が、一人で車椅子に乗って庭の夜風に当たっている。その周囲の数メートルの暗がりに、複数の『影』が潜んでいる気配を、メアリーの鋭敏な感覚は捉えていた。
あの男が、皇帝だった。
初めて見る、憎き仇敵の背中。
だが、同時に彼女は奇妙な違和感を覚えた。
(……車椅子?)
数ヶ月前、回廊を歩く靴音を聞いたはずだ。しかしいま、中庭にいる皇帝は、自らの足で立っていなかった。
「あの方も、あの大戦の折の大怪我から、お身体が随分と弱られて……」
ふと、以前同僚のメイドが噂していた言葉が蘇る。
皇帝は、老いと、おそらくは戦争の古傷によって肉体が激しく衰弱している。
だからこそ、無敵の帝国を統治する無謬の支配者として、過剰なまでの防衛線を引き、誰にもその弱った姿を見せまいとしているのだ。
——弱っている。
——医療の助けが必要なほどに。
メアリーの脳裏に、冷酷で完璧な「暗殺のシナリオ」が閃いた。
誰も予想だにしない方法。すべての防衛網をすり抜け、皇帝自らが自分を呼び寄せる方法が、一つだけあった。
彼女の翡翠の瞳の奥で、三年ぶりに「死」の光が鋭く瞬いた。
(第10話 了)




