挿話「少女と女剣士」
ファスと名乗る少女がいる。
金糸のような髪をした、人形のように精緻な面立ちの少女である。あと五年もすれば誰もが見とれるような美しい女になるだろうが、今はまだ蕾だ。「美しい」より、「愛らしい」が先に立つ。
このように容姿も非凡である彼女だったが、本当に非凡なのはその内面だろう。
まず一つ、彼女は利発である。見聞きした物事を良く覚えるだけでなく、目的のために何をするべきかを筋道立てて考えることが出来る。
二つ、彼女は胆力がある。大抵の子供は知識や想像力がまだ未熟だ。そのため恐れるべきものを恐れなかったり、逆に取るに足りないものを必要以上に怖がったりする。彼女とて例外というわけではないが、彼女は下手な大人より利口であるがゆえに、ただ恐怖に呑まれることは少ない。その恐怖が乗り越えるべきものであれば、彼女は勇気を振り絞って乗り越えようと努めるのだ。
そして最後に、彼女は人の感情の機微に敏感だ。これに関してはもはや才能の領域だった。
彼女は目の前の相手が何を感じ、何を求めているかを直感的に理解できた。もちろん複雑な感情や要求を汲み取ることは難しいものの、希有な才能だ。彼女の人格形成にもこの才能は大きく影響した。
彼女が利口に育ったのもこの才能のためだ。彼女は自分が他人からどう評価されているかが分かった。自分が言った言葉、成した行動が「正解」と「不正解」のどちらなのかが言われずとも分かる。並の子供より物事の道理を学ぶのが早いのは必然だった。
彼女の胆力もこの才能が支えている。人間の恐怖の多くは対人関係で生じるものだ。人と人との関係は札遊びに似ている。互いに手札が見えない中、相手が場に出した札を頼りに腹を探り合う。相手の手札が見えないからこそ人は迷い、恐れる。
彼女はその恐怖が薄いのだ。彼女は相手の手札を何枚か覗き見ることが出来る。だから彼女は並の人間より恐れずに済む。
この才能は多くの場面で彼女を助けた。たとえば『雷拳』シラハを雇い入れた場面でもそうだ。彼の内心をおおよそ推し量れたからこそ、あのような交渉が出来た。
だが、この才能がメリットしかもたらさなかったかと言えばそれは嘘だ。
◆
彼女は十歳の時、こう言ったことがある。
「鈍感な者達がうらやましい」
普通、人間は他人の気持ちなど分からない。それは恐怖でもあるが、救いでもある。諦めがつくからだ。人との関係で失敗したとしても、相手に真摯に向き合った上での失敗なら仕方がないと言い訳出来る。
だが彼女には「正解」が見えている。彼女が相手に向き合おうとするなら「正解」を選び続ける他はない。「正解」が分かっているのに「不正解」を選ぶのは、相手に対する悪意に他ならないからだ。
「このような気苦労とは無縁なのであろうからな」
自分の心に反してでも、相手の望むままに振る舞うか。
それとも、見えている相手の心を敢えて無視するか。
その二択は幼い彼女をすり減らしていた。
彼女はため息をついた。
「もう飽いた……」
その時、彼女の側には護衛が一人いた。
彼女が漏らした愚痴に対し、護衛は否定的な感情を抱いているようだった。ああ、「不正解」か。ならもうこの話は終わりにしよう。
「意味のないことを言ったな。忘れよ」
彼女はそう頭を振った。だが、その若い護衛はそれに応じなかった。
「■■■■■、あなたはお優しいのですね」
そう言い置いた上で、こう続ける。
「ですがご存じでしょうか。……他人を踏みにじるというのも、存外に心地よいものですよ」
「……な」
その時の衝撃を、今でも彼女は忘れられない。
彼女……■■■は今までそのようなことを言われたことはなかった。むしろ周りの人間は■■■に自制を説いた。己の立場と影響を自覚するようにと。
だがこの護衛は彼らと全く逆のことを言ったのだ。とんでもないことを言う護衛だと思った。
「あなたのお心が分かる、などとは申しません。私も■■■■■からみれば鈍感な側の人間なのでしょう。ただ、私も周囲の望みが気にならないわけではございません。女ならば淑やかに男の言うことを聞いていろだの、傷物なら尚のこと分を弁えよだの、温室育ちのくせに剣など握るなだの、そんなことを私に望む方々は少なくありませんでした」
彼女……■■■は記憶を探る。この変わり者の護衛は一体どんな素性だったか、どんな性格だったか。しかしこの護衛は比較的最近■■■に付くようになった人物で、あまり思い出せることはなかった。
知っていることと言えば名前くらいだった。レゼーレ、という名だったはずだ。
「そのような方々を木剣で散々に打ちのめす以上の快感は、そうそうあるものではありません」
レゼーレは涼しい顔でそんなことを言っている。
この護衛は入れ墨はあれど美しい顔立ちで、凜々しさと優雅さを兼ね備えた立ち振る舞いなど絵画のモチーフにでもなりそうな程に洗練されている。
だがその実は何と苛烈な気性であることか。
しかしよく考えれば当然とも言える。■■■を任される護衛が並の武人であるはずがなかったのだ。
「そうか。その負けん気の強さ、まこと武人の鑑よな」
■■■はそう賛辞を述べる事で、己と護衛の間に線を引こうとした。■■■は武人ではない。そう生きることは出来ないし、許されないのだと。
「武人でなくとも、負けん気はあって良いのですよ」
しかしレゼーレはその線を切って落とした。
「いかに傀儡や人形に徹しようとも、周囲の望み全てに従うことなど出来ないのですから。人は生きる限り、必ず誰かの思いを蹂躙している」
「……むぅ」
■■■は聡い少女だった。レゼーレの言ったことに薄々気付いてはいた。いくら■■■が周囲の思いを汲み、その通りに振る舞おうとも、周囲の全員を満足させることは出来ない。
だがそれでも■■■は「誰からも愛される」娘になろうとし続けた。■■■は相手の失望や反感も感じ取る。努力を続ければ、己の周囲から失望や反感がいつかは消え去るのではないかと期待していた。
愚かと笑うべきだろうか。否だ。この時の■■■がまだ十歳であることを忘れてはいないだろうか。いかに利口な子供だとはいえ、幼さがあって当然だ。
■■■は暗澹たる気持ちになった。他人から向けられる失望、敵意はとても苦しい。それが消え去らないというのなら、この先ずっと耐えていかなくてはいけないのか。
「ですから負けん気です。誰かを足蹴にする度に罪悪感を覚えていてはとても生きてはいけません。ですので、自分の意志を通す事を躊躇わない負けん気を持っても良いのだと思います」
「それは……寂しい生き方ではないか?」
「ただ己のためだけに生きるというのならそうかもしれません。でも己の意志を貫くことを応援してくれる人も、世の中にはいるものです。そうした人だけは裏切らないようにすれば、きっと寂しくはありません」
「そうか」
■■■は呟いた。
ちらりとレゼーレの顔を盗み見る。やはり凜々しい女だ。■■■にはレゼーレの中にある迷いや懊悩も感じ取ることが出来た。だがレゼーレはそれを表情や声色に出してはいない。ただ誇り高い女剣士の姿がそこにはあった。
「そのように生きることも、出来るのか」
この時、■■■の中に生まれた感情は憧憬だった。羨望と言うより、憧れだ。
いつか、彼女のような女性になれるだろうか。
◆
その後、レゼーレはあの有名な庭園での戦いを経て『椿撫で』と呼ばれるようになり、遂には『十騎聖』にまで至った。
■■■はますますレゼーレに憧れ、彼女を信頼するようになった。
だから王都から逃げ出したあの日も、■■■は泣かなかった。
安らげるはずの住まいが謀略に蝕まれていたなど気付かなかった。
■■■から害意を隠し通せる人間がいるなどとは思ってもみなかった。
自身が結局無力な子供でしかないと思い知らされたあの日。■■■は怖かったし、涙が出そうだったが、レゼーレがいたから泣かなかった。
逃げ出す時、■■■はレゼーレに抱えられていた。レゼーレは鎧を着ていたので、■■■はレゼーレの体温や柔らかさを感じることが出来なかった。だが不思議と心が落ち着くような思いだった。
「リシューは、無事であろうか」
などと他者を思いやってみたりもする。
リシューは元『十騎聖』で抜刀術の達人だ。
彼の前で敵は剣を抜けない。敵が剣を抜くより先にリシューは抜剣し、敵の剣の柄を切断する。敵はただ呆然と柄だけの剣を振ろうとするが、それも出来ずリシューの二の太刀で絶命する。『柄斬り』の異名の由来だ。
凄絶な技量の持ち主だが、一方でユーモアのある老人でもあった。■■■は彼のことは嫌いではなかった。
だがそのリシューはいない。敵の足止めに立った。
その敵は『十騎聖』第四席、デシデリウス・バルドー。いかにリシューが達人といえど、老体にはあまりにも厳しい相手であった。
「いくらリシューでも、デシデリウスが相手では……」
「師の心配は無用です、ファス様」
有事の際、■■■は「ファス」と名乗ることになっていた。ありきたりの名なので正体を隠しやすく、また彼女の本名■■■■■■■のもじりなので■■■も違和感なく反応出来る。
「師は体力の衰えゆえに引退を決めましたが、剣が鈍ったわけではありません。敵を一人斬る程度はこなすでしょう。それに万が一敗れたとしても、それはそれで師の本望なのですよ。「やっぱり「決闘葬」、いいよなぁ」などと、常日頃口にしていましたので」
「リシューめ、まだ諦めておらぬかったか。いくらなんでも前時代的すぎると父上も止めたであろうが……」
「いずれにせよ、師は仕事をこなすでしょう。心配いりません。師についても今後についても。すぐにまた戻って来られます。今回のことは、そうですね、ちょっとした旅行とお考え下さい」
とはいえ、辺りは夜闇に覆われている。
まだ二人は王都にいるが、王都といえど中心部から離れれば夜は暗い。このような闇の中で旅行も何もないだろう。
「しかし……むぅ!?」
■■■の体が一瞬宙に浮いた。■■■を抱えるレゼーレが上方に跳んだためだ。
「舌を噛まれませぬよう」
レゼーレは近くの建物の壁を駆け上がるようにして上昇、屋根の上へと上り詰める。急激な慣性に■■■は声も出ない。目をつむって慣性に耐える。
屋根に着地したのか、慣性が緩やかになる。■■■は目を開けた。すると、
「……おぉ!」
満天の星空が目に入った。東西南北、何も遮るもののない夜空。■■■の住まいからは見えないはずの星座も今はよく見える。
「どうでしょう、ファス様。少しは空が近く見えるでしょうか」
そしてレゼーレが微笑んでいるのもまた見える。
「すごいな!」
■■■は無邪気に声を上げた。
■■■は人の感情に聡い。さらに十歳の時より三年分成長しより賢くなっている。
だがやはり十三歳の子供であることに変わりはない。
■■■はデシデリウスの謀略を見抜くことは出来なかった。
さらに、この時点では最も信頼する者の心の内も読み取ることが出来ていない。
恐ろしい謀略に巻き込まれた■■■がただ一人信じることの出来る味方。強くて、凜々しくて、憧れの人。そして今も優雅に微笑んでいるその護衛の心中を察することが■■■には出来ていなかった。
普段の■■■ならばきっと気付いたはずだ。
レゼーレは常に微笑んでいるが、その裏には迷いも懊悩もある。であれば今この苦境においてレゼーレが葛藤していないはずがない。普段ならそれに気付けたはずだ。
だが、今の■■■には気付けない。レゼーレが無敵だと信じなければ精神の安定を保っていられないから、レゼーレの心から目を逸らした。
都合の悪いことには気付かない振りをした。
そう。いかにレゼーレの心が強く、『十騎聖』に数えられる武人であろうとも。
■■■が十三の子供であるように、レゼーレとてまだ二十歳にならない若輩に過ぎないのだ。
■■■がその事を思い出し、向き合うのはもう少し後のことになる。
無敵だと信じていたレゼーレが『雷拳』に敗れるその時まで待たねばならなかった。
木曜日お休みします。次回更新は来週月曜日です。




