第三十七話「信用の結果(一)」
明日も臨時で更新します。
ほんの刹那、シラハの膝の力が抜けた。
だがクネヒトはその刹那をずっと待っていたのだろう。いつか必ずシラハが毒でヘマをするタイミングが来る。もし槍の間合いの外でそのタイミングが来たのなら、投擲によってその隙を突くとそう決めていたのだ。そうでなければここまで素早く槍を投げ放つことは出来ない。
空を裂いて飛来する槍はおそらくカブートの矢よりは遅いのだろう。だがこの間合いで、このタイミングでは回避が間に合わない。足に力が戻るより先に槍が来る。
――駄目だ。これは食らうしかねぇ。
防ぐことは辛うじて出来るだろう。が、膝の力が抜けたのを切欠に全身までもがずしりと重くなった。重い水の中に沈んでいるような感覚だ。毒に逆らい体を動かし続けた反動が来てしまったのだ。
この状態では防ぐといっても即死を防ぐ、という防御になる。死にはしないだろうが深手と更なる毒を受ける。そしてそこにクネヒトが追撃に来る。
「へへっ!」
クネヒトは投擲の直後、間髪を入れずシラハに向かって駆け出していた。投げた槍に追いつかんばかりの速度だ。そして走りながら副武装であろう小剣を腰の鞘から引き抜いている。淀みのない動き。これを今の体で凌げるとは思えなかった。
――これは死んだか。
かつて『明けぬ夜』と戦ったとき、辺り一面が死の予感で塗りつぶされているように感じた。しかし今のこれはまた少し違う。
これは線だ。死線だ。レゼーレ然り、クネヒト然り、練達の武人が放つ死の予感はともすれば見落としてしまいそうなほどに薄く、細く、しかしそれでいて間違いなく命を奪うものなのだ。そして今、その線がシラハを絡め取っている。
だがシラハは凄絶に笑った。
――やってやろうじゃねぇか。
死が恐ろしい、と言う感覚はあまりないのだ。
もちろん拳の答えを見つけられないまま死ぬのは無念だ。死んでも死にきれないくらいだ。だが、一方で自身の過去の所業を思えば当然の報いとも思う。
自分と、既に死んでいる師のことはそうやって諦めがつかないでもない。
だが自分以外で、まだ生きている人間については諦めてはならないと思う。
かつては『明けぬ夜』相手に仲間を死守せねばならないと思った。
そして今は、自分が自ら背負った「護衛」という仕事を全うせねばならないと思う。たとえここで自分が死ぬのだとしても、やるべき事をやらねばと。
誰かに何かを期待して「信じる」と言う――随分身勝手な話だ。だから誰かを信じるなら、自分も相応の責任を果たさなくてはいけない。ファスとレゼーレを信じたのなら、その責任を果たさなければいけない。
――悪いが、お前だけはここで潰すぜ、『極彩色』のクネヒト――!
シラハの気配が変わる。白が黒に塗りつぶされるほどの急変。並の武人であれば肝が潰れて動けなくなるほどの濃厚な戦意。
「それがテメェの……正真正銘の本気って訳か! 今更遅ぇよぉ!」
投げられた槍と、剣を抜いたクネヒトがシラハを襲う。
その瞬間、両者とも予想だにしないことが起こった。
「『飛び裂くは灰椋鳥』!」
横合いから短剣が飛んできたのだ。
――レゼーレ!?
レゼーレとファスがそこにいたことすらも今になって気付いた。意識を薄れさせていたため位置関係まで気が回っていなかった。
シラハとクネヒトの横の位置にいた彼女は、クネヒトの攻撃を阻止するべく短剣を投擲したのだ。投擲が出来るのは何もクネヒトだけではない。
レゼーレが投げた短剣は回転しながらクネヒトの槍へと命中する。槍と短剣、質量が違いすぎるために撃墜とは行かなかったが、その軌道を僅かに逸らす。これによりシラハは槍の投擲から免れることが出来た。
レゼーレはこの土壇場においてシラハを救ったのだ。
――けど!
それはファスの護衛たる彼女が敵前で武器を手放したということ。その意味を誰もが分かっていた。
クネヒトなど短剣が投げられた瞬間には即応している。
「丸腰になったなぁ、レゼーレ卿!」
狙いをシラハから即座にレゼーレへと変更。そもそもクネヒトにとっての勝利はシラハを倒すことではない。ファスを手に入れることだ。
素手になったレゼーレを突破し、ファスの身柄を抑えてしまえばそれでクネヒトの勝ちが確定する。
ファスの顔がこわばっている。あの肝の据わった少女が恐怖を顔に出している。
――くそ、間に合わねぇ!
シラハはまだ足の自由を取り戻せてはいない。上半身は何とか動くのでクネヒトが向かってくれば最後の一撃を食らわせることは出来たろうが、こうやって捨て置かれてはどうにもならない。クネヒトやレゼーレと違ってシラハは武器を投げることも出来ないのだ。クネヒトを止められない。
恐るべきはクネヒトの判断力、判断速度。激戦の中にあっても目的を決して見失わず、だから好機を逃さず掴むことが出来る。シラハを無視し、レゼーレの元へ一歩で踏みこんだ。
クネヒトが小剣を振り上げる動作は練り上げられている。本来彼は槍使いであるはずだが、剣術も習得しているようだった。
なぜクネヒトが『極彩色』と呼ばれるか。それはただ彼が派手な服装を好むからではない。派手好きの傭兵は他にも数多く存在する。その中でなぜ彼だけが『極彩色』と呼ばれるか。
それはクネヒトがありとあらゆる戦いの技に精通しているからだ。槍術、剣術、駆け引き、用兵、薬学、その他数え切れないほどの殺しの技を修めている。その引き出しの多さ、多彩さを恐れられてついた名前が『極彩色』。
その『極彩色』がここぞと振るう剣だ。素手で凌げるものであるはずがない。
「終わりだぜぇ!」
何も出来ないシラハの前で血飛沫が舞った。
そう。『十騎聖』クネヒトの剣を素手で防ぐことは出来ない――しかし、この場に聖は一人のみならず。
「がっ……!」
血飛沫を吹いたのは、
「やりやがったなぁ! 貧乳入れ墨女ぁ!」
『極彩色』クネヒトの方だった。
小剣が宙を舞っている……それと指が三本。クネヒトの右手の薬指から小指までが斬り飛ばされているのだった。
こんなことを素手で出来る訳はなかった。
「『瑞龍掴玉剣・夕月』――あら、残りの二本は守りましたか。流石はクネヒト卿といったところでしょうか」
レゼーレは剣を振り抜いていた。左の逆手で握った長剣を。短剣を投げても彼女は左腰に佩いた長剣が残されていた。それでクネヒトの剣を防ぎ、指を落とした。
「やはり吟遊詩人になられてはいかがかしら……それだけ指が残っていれば楽器を爪弾くことも出来るでしょうから」
左手では短剣しか使えない、というのは大きな誤りだった。
レゼーレは長剣と短剣とはいえ元々二刀流の剣士である。右で長剣、左で短剣を基本としながらも、その逆で剣を扱うことも出来る。左手で長剣を扱うことも当然出来た。
そして『晦冥の森』でもそうだったように、レゼーレは抜刀術を得意としている。彼女の技の中には左手で左腰の長剣を抜いて斬る技もあったのだ。
だがそれはシラハが想像するよりもずっと困難な絶技であるらしかった。
「大したもんだぜぇ、左手で左に差した剣を抜くなんてよぉ……」
クネヒトはレゼーレと距離を取りながら空中の小剣を左手で引っ掴んでいた。その剣を構え直しながら、
「いくらテメェのタッパと腕が無駄に長ぇたぁいえ……その刃渡りの剣を左手で抜くのは出来ねぇ。引っかかるはずだからよぉ」
例えばレゼーレの短剣の抜刀術『潜み狩るは黒梟』は左の逆手で左腰の剣を抜くが、これは短剣だから出来ることだ。レゼーレが長剣で同じ事をしようとすればどうしても切っ先が鞘に引っかかって抜けなくなるはずなのだ。
体を大きく捻って無理矢理抜くことは出来るが、その場合は抜刀と同時に斬り付けることは出来ない。無理のある体勢であるからだ。
抜き打ちで斬るには拳一個分弱が足りない。あと拳一個分弱だけレゼーレの腕が長いか、長剣が短いかすれば剣が引っかかることなく引き抜け、そのまま斬り付けることが出来るだろう。
だが現実にはそうではない。では彼女は一体どうやって拳一個の長さを埋め合わせたのか。
クネヒトは見逃さなかった。
「だからテメェは柄じゃなくて鍔を掴んで抜刀した。剣の鍔……そこを掴んで引き抜きゃ確かに拳一個……には少し足りねぇが、ともかくそれ位の長さを稼げる。左手で左腰の剣を引っかからずに抜けて、抜刀と同時に斬撃を繰り出せる。もちろんどう考えたって力は入らねぇから、人間の指を何本か切り落とすのが精々だろうがよぉ……意表は突けるわな。まんまと引っかかっちまったぜぇ」
クネヒトは親指と人差し指だけの右手をひらひらと振って見せた。残りの指があった場所から血を滴らせながらも、『極彩色』は骨太に笑う。
「いいもん見せてもらったぜ、これが『柄斬り』リシュー直伝の抜刀術って訳か。こういう初見殺しみてぇなのをいっぱい持ってる訳だな、レゼーレ卿はよぉ。こりゃ第八席がやられても不思議はねぇ。……けどいいのかよぉ、これ、身内以外に見せちゃいけねぇんだろ? 試合だの演武だのでも、基本の抜刀一種類しか見せてはならない。リシューのジジイもテメェもそうだったよなぁ?」
シラハの意識は朦朧としていたが、それでもクネヒトの言葉にハッとした。
これはレゼーレにとって奥の手だったのだ。
レゼーレはファスの護衛だ。たとえ左手しか使えなくとも、最悪の場合は『十騎聖』や、もしシラハが裏切ったのならシラハとも戦わなくてはいけない。
だがそうなれば彼女は勝てない。レゼーレは『十騎聖』の中で末席だ。真っ当に斬り合えば彼女が一番弱いのだ。そしてシラハにも敗れている。
そんな彼女が負傷した状態で格上に勝るには不意打ちしかない。そのための手段の一つがこの技だった。
シラハはレゼーレが左手で長剣を使えるとは思っていなかったし、クネヒトは左手で左腰の剣が抜けるとは思っていなかった。そして実際にクネヒトは指を斬り飛ばされている。もし別の状況でもっとタイミングを測って繰り出したのなら、クネヒトやシラハを倒すことも出来たかも知れない。そういう技だった。
以前、シラハがレゼーレ達に『雷勁』を敢えて見せたことがあった。その時レゼーレは「なぜ」とシラハを問い詰めた。
当然だと今なら分かる。レゼーレは左手だけでも他の『十騎聖』やシラハに勝つことを諦めていなかった。最悪の事態にも万に一つの勝ち筋を残そうとしていた。そのために隠した手の内は明かそうとしなかった。それがあの時の彼女の覚悟だった。
そんな彼女にはあっさりと手の内を明かしたシラハのことが分からなかっただろうし、あるいはシラハのおおらかさに苛立ちを覚えたかも知れなかった。
だが今、彼女は奥の手を見せたのだ。シラハを助けるために。
シラハを助けるために短剣を投げたからクネヒトの狙いがレゼーレへと移り、奥の手を披露する必要に迫られた。
クネヒトは下卑た口調で、
「そこまでしてこいつを助けたかったかよぉ。らしくねぇぜレゼーレ卿。テメェならシラハを見捨ててファス様連れて逃げるって判断が出来ただろうが。そりゃこれだけの駒を手放すのは惜しかろうが、オレを足止めできるなら悪くねぇ手だ。オレならそうする。あー、それとも、誑し込まれたのはこいつじゃなくてレゼーレ卿の方だったってオチか? デカブツでひいひい啼かされたか?」
レゼーレは美しい肖像画のように微笑んでいる。……が、まともな神経を持つ人間なら、それが激怒の表情だとすぐに分かっただろう。
「あぁ、やはりあなた、二度と囀れないようにして差し上げましょうか。ファス様に聞かせるにはあまりにも品性の欠けた語りです」
「出来るもんならやってみなよぉ、確かに指が詰められたのはキツいが……それでもまだオレに分があると思うぜぇ」
「もちろんお望みならそうしてもよろしくてよ。けれどもっと確実な方法があります。だからシラハを助けたのです」
「へっ、あいつに何が出来るってんだ? 確かに大した戦い振りだったがよぉ、もう限界だろ。ネタばらししてやるよ……確かにあれは麻痺毒だ。けど凡人が食らえば痺れで心臓が止まるかもしれねぇくれぇには効き目がある。いくら相手が『雷拳』でも、あの段階まで痺れちまったらもう戦えねぇよぉ」
「この半月、シラハを見ていて気付いたことがあります」
レゼーレは左手で長剣を青眼に構えながらクネヒトとの間合いを測っている。
「彼はああ見えて生真面目な人物のようなのです。そうですね。一言で言うのなら背負ってしまうというのでしょうか。役割に向き合い、周囲に気を配る……そうせずにはいられない。この護衛の仕事についてもそう。だからクネヒト卿も言うように……今のシラハは極めて多くの制限を負っている」
クネヒトもレゼーレと対峙し剣を構えている。シラハのことは視界に入れてはいるようだが、もはやクネヒトの警戒心はレゼーレの方へと向いている。
だが。
「だからクネヒト卿、あなたはまだシラハという武人を見誤っています。重い荷を負った駿馬が歩むのを見て駑馬と笑っているようなものです。あなたはその荷の分を差し引いたつもり、その上で彼の力の底を見切ったつもりでいるのかも知れませんが、そんなものは浅瀬に過ぎない。だから負けるのです」
「んだとぉ……?」
その時、手負いの『十騎聖』達の耳はうわごとのような呟きを捉えた。
「……一拳、三界二十五有」




