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第三十五話「無根拠な」

 どこか遠くで陶器が割れるような音がした。クネヒトが投げ上げた小瓶が落下して立てた音だろうか。


「へヘッ! これでテメェはおしまいだなぁ! 解毒剤がなくなっちまったんだから……オレはただ守りに徹してテメェが死ぬのを待ってりゃ良いんだよぉ!」


 クネヒトは勝ち誇った表情だが、シラハは


「あぁ、そういうのもう要らないぜ。あんたの言うことは嘘だ……って方に賭けると決めたんでな!」


 シラハの眉間に向かって槍が音も無く伸びてくる。シラハは外受けに凌いだ。受け流すと言うより弾くような動き。受けた次の瞬間には腕を引っ込める。なぜそうするか。引き戻される穂先で腕を斬られないようにするためだ。


 クネヒトの槍に塗られている毒は致死性では無い。……と、シラハは信じることに決めた。が、毒がシラハのコンディションを低下させているのは事実なのだ。今はまだクネヒトと打ち合えているが、これ以上傷を受け毒を打ち込まれてはクネヒトの槍を躱せなくなるだろう。


 ただ、クネヒトはあくまで「毒が致死性である」と演じるつもりのようだ。


「悲しいねぇ、テメェほどの男も結局女に騙されて死ぬたぁよぉ。簡単に人を信じちゃあいけねぇぜ。この世界で本当に信じられるのは自分だけなんだからよぉ」

「ふぅん。信じられるのは自分だけ、か。どうせそれも芝居の台詞の一つなんだろうが……もし本心で言ってるなら、あんたの器が知れるぜ――小さい男だな、『十騎聖』クネヒト」

「へぇ?」

「自分しか信じない奴は、自分の手の届くところにあるものしか掴めない。慎ましいあんたはそれで満足なのかも知れねぇが……俺はそうじゃない」


 シラハにはやらねばならないことがある。


 この拳法の価値を証明すること。そして、師匠(クソじじい)が今際の際に遺した言葉を、完膚無きまでに否定すること。


 師を埋葬し、あの庵を後にした当時は簡単なことだと思っていた。

 だが戦えば戦うほどに、シラハは武器を持たないということがいかに不合理であるかを知った。


 拳をどれほど硬く鍛え上げたとしても、それで刃を受けることは叶わない。

 拳をどれほど強く突き込んだとしても、腕の長さより先には届かない。


 利点が皆無とまでは言わないが、拳が他の武器に勝っているとは思えないのだ。

 だから今のシラハにはまだ分からない。この拳に価値があるかどうか、だけではない。


――人殺しにだけは、向いていたか。下らねぇ拳の、下らねぇ答えだ。


 なぜ師がそう言い残したのか、その真意が。あらゆる武器に劣っているように思える拳が、なぜ殺しにだけは向いているのか。真意が分からない言葉を、本当の意味で否定することは出来ない。


 シラハ一人ではもう、行き詰まっているのだ。


「この拳の「答え」はどうも、俺の手の届く所にはないみたいでな。だったら誰かの力を借りるしかねぇだろ。自分以外の誰かを信じてみて、自分一人じゃ届かない景色を見せてもらうしかねぇだろうが」


 かつてのシラハは「答え」へのアプローチとして魔物を倒し続けることを選んだ。そのアプローチは上手くいかなかった訳だが、「上手くいかなかった」と判断できたのは魔物の畢竟たる孤王を討ち取ったからだ。


 明けぬ夜(ムルケティド)を倒しても得られなかった答えが、他の魔物と戦って得られるとは思えない。だからシラハは『晦冥(かいめい)の森』を離れ、新たなアプローチを模索する段階に入れたのだ。『射干玉狩る七曜(カールスヴォグナ)』の仲間がいなければ辿り着けなかった境地である。


 もし彼らと出会わなければシラハは今もずっと凡百の冒険者の一人として、『晦冥(かいめい)の森』の魔物を倒し続けていたかも知れない。魔物を倒して、倒して、倒して、最後に『明けぬ夜(ムルケティド)』を倒せば、答えが得られるかも知れない――そんな思い込みを抱いたまま生涯を終えただろう。


――あの時も、何かが変わるって信じたんだ。


 五年前、あの森で冴えない中年親父に出会った。くたびれた顔をしているくせに馬鹿でかい斧を担いで、目だけはまだ死んでいなかった、怪しい親父だ。


「そりゃあ、誰も彼も信じる訳にはいかねぇさ。……けど、自分一人じゃ行けねぇ所に行こうと思うなら誰かを信じることが必要で、その「信じる」の一番最初はやっぱり腹括るしかねぇんだよ」


 自分以外の何者も信じない。他人などいつ裏切るか分かったものではない。あらゆるリスクに備え、慎重に生きる。それも一理ある、とシラハは思う。確かにその方が長生きできるのかも知れない。

 だが自分一人では叶わない望みを持ち、諦めないというのなら、どこかで自分の命運を他人の手に委ねなければならない。


「まともに考えりゃあんたの言うとおり……この世で信じられるのは自分だけだ。理屈だの根拠だのをこねくり回したらそうなる。けど、信じるってのはそうじゃない。散々こねくり回した理屈や根拠を全部ぶっ飛ばせるくらいの予感。それに命運を任せるのが信じるってことだ」


 シラハの理性はファスとレゼーレに関わるべきでないとずっと訴えている。

 だが予感があった。彼女たちについて行けば何かが得られるという予感が。誰を信じるべきかなど最初からこの予感が教えてくれている。


 だからこそ、問われているのは覚悟なのだ。

 予感などと根拠のない曖昧なものを信じて戦い抜くことが出来るのか。その結果がもたらすものと向かい合うことが出来るのか。

 シラハははっきりと宣言する。


「だから俺はファスとレゼーレ(こいつら)を信じる。こいつらのこと、まだ少ししか知らねぇし、その「少し」すら嘘なのかも知れねぇが、それでも信じる。だってまだ俺は裏切られてねぇからな」

「シラハ……」


 ファスが名を呼ぶのが聞こえた。何かを言いたげに、しかし言葉が見つからず飲み込んでいるようだった。

 ファスとレゼーレはシラハの背後にいるため、その表情は見えない。それでも構わない。

 一方、クネヒトの顔はよく見える。シラハが話している間、クネヒトは唖然としていたが、やがて「へっへっ」と笑い出し、そんな笑い方では我慢できぬとさらに大笑い。


「ヘヘヘヘっ! マジかよぉ、ほんっとに、ほんっとにバカっているんだなぁ! こりゃあ傑作だ! テメェの人生を見知らぬ他人に景気よく全賭け(全ツッパ)しやがるなんてよぉ!」

「だからそれが小さいって言ってんだよクネヒト。あんたから予感がしないのはそのせいかもな。俺が探してる「答え」は、『明けぬ夜(ムルケティド)』をぶち殺してさえ見つからなかった。自分で言うのも何だが、何百年振りの……いや、もしかしたら人類史上初かも知れねぇ大仕事をやってもダメだった。だから大きく賭けるのさ」

「ヘヘ……よく分かっていらっしゃいますなぁ。オレを強欲だの成り上がり者だの何だの言う奴らは多いがよぉ、確かにテメェのバカさ加減に比べりゃオレは小せぇ男だ。オレが欲しいのは美味い飯、美味い酒、美味い女、それ位なもんだからよぉ。だからこそ――」


 クネヒトの笑みの質が変わる。嘲笑から不敵へと。


「オレは大物の足をいくつも掬ってきたんだぜぇ。上ばっかり見てるヤツは足下にいるオレみてぇな小物に見向きもしねぇからよぉ。それを何度も何度も続けてたら『十騎聖』なんて呼ばれるようになっちまった……今日も同じことをしてやるまでだ、『雷拳』シラハ!」

「上等――!」


 毒の痺れで力の入らぬ足に、それでも満身の力を込めて踏み込むシラハをクネヒトが迎え撃つ。

 果たしてシラハは己が拳で『十騎聖』の槍に勝ることが出来るのか。

 クネヒトが再び槍を回転させ始める。


「『疾風無槍』!」


 それは本来、戦場で多勢を相手取るための技なのかもしれなかった。

 身の丈を超える槍をぐるぐると回転させながら振り回す。こうすることで柄でさえ致死の凶器と化す。雑兵の首程度なら打撃の威力だけで叩き飛ばせるはずだ。


 だが単に防御の面でおいても優れている。遠心力により半端な防御を敵に許さない。また間合いの外から攻撃することも容易でない。

 もちろんこの『疾風無槍』をずっと維持することはクネヒトにも出来ないのだろうが、クネヒトが技を解くよりも、シラハが毒で弱りヘマをする方が先のように思えた。


 よって取るべき戦略は「待ち」ではなく、この槍の暴風をかいくぐること。

 シラハは毒のせいで少しずつ朦朧としていく意識をかき集めながら考える。


――二回だ。


 槍を一回凌ぐだけではダメだ。間合いを詰め切れない。クネヒトのバックステップは音よりも遅いが、そうはいっても『十騎聖』の足。決して侮って良い速度ではない。

 だから二回だ。槍を二回凌げばクネヒトに拳が届く。

 手段は回避か受け流し。とはいっても、腕だけで受け流せるような威力ではないので、結局は回避主体で、受け流しはその補助程度にしか使えない。


 シラハはクネヒトの槍の動きを見る。槍を回転させるとはいうが、本当にぐるぐると風車のように回すためには回転の軸を胸より上に取らなくてはいけない。槍はクネヒトの背丈よりも少し長いからだ。

 ゆえに足下付近には隙がある。圧倒的な攻撃範囲と速度を誇る『疾風無槍』はまるで竜巻のようだが、回避しながら懐に踏み込むことは可能なのだ。


 しかしクネヒトもそんなことは心得ていて、回転の軸を絶えず動かすことで全方位をカバーできるようにしている。それでも生じる隙は足捌きで前後左右に動くことで打ち消している。


 となると避ける方向を気取られないようにしなければならない。


 だが対人戦経験の浅いシラハが、『十騎聖』クラスを相手にそれを成しうるだろうか。それが出来ないことが問題だったはずではないか。


 事実、先ほどのシラハは『疾風無槍』を破ることが出来なかった。今よりもう幾分か毒の効きが浅かった時でさえだ。


――とにかく狙いを目線に出さない。あとは……何とかするさ!


 シラハは咆哮した。そうしなければ意識を保てなくなりそうだった。

 痺れは全身に回り、手足の感覚は薄れている。絶不調だ。


 だが、この程度で戦えなくなるほど生温い鍛え方はしていない。シラハは再び稲妻と化して『疾風無槍』に挑む。


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