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第十五話「形稽古」

「『在の形・日輪』」


 シラハはそう呟くと同時に左半身に構える。右拳は左腰に添えるように、左手は開いたまま、前方へ伸ばす。

 左の膝を前に落とすように重心を移動させ、


「……!」


 その流れのまま踏み込む。踏み込みより刹那の後、左手を「蜘蛛の巣を払うように」振る。

 そして間髪を入れず、右拳。捻れた体も、弓なりの右腕も、この一撃を打つための「溜め」である。


「フッ!」


 「溜め」を解き放つように、シラハは右拳の鉄槌打ちを水平に振る。だが横一文字に振り抜くのではなく、正面で止める。シラハがもっとも多用する技『中天槌』だ。


「――、――!」


 その後もシラハは何度も足を踏み換え、拳を振るう。『中天槌』、『昇陽槌』、『昏落槌』、様々な鉄槌打ちが組み込まれているのがこの『在の形・日輪』だ。

 そう、シラハは形稽古をしているのであった。一挙手一投足が風を切るような鋭い動きだったが、シラハ自身はそう速く動いているつもりはなかった。明け方、しかも宿の部屋で形を打っている以上、全力という訳にはいかないのだ。


 だが本気ではあった。シラハの額には薄く汗がにじんでいる。肉体的には一切の疲労がないにもかかわらずだ。


――形は技じゃない。「教材」であり、「鍛錬道具」だ。


 かつて彼の師はそう言った。


――形自体はそれほど戦いの役には立たん。お前が遭遇しうる敵、武装、技、魔術、『天賦(ギフト)』、その他の能力。それらはほとんど無限であり、有限の形に当てはめて対策することなど出来ないからだ。


 その日、同じ形を既に百本以上やらされていたシラハは「じゃあ何でこんなのやらなきゃいけねぇんだ」と訊いた……否、顔に出しただけだったかも知れない。

 いずれにせよ、師はこう続けた。


――だが形を幾千と繰り返すことで、使えないはずの筋肉が使えるようになっていく。本当の意味で、全身の力を使えるようになっていく。そしてさらに幾万と繰り返せば、全身の力を余すことなく使い切る「合理的な動き」が無意識に刻み込まれる。その境地を得るがために形はある。


 激痛。これは今のシラハのものではない。当時のシラハが形の不出来を師によって物理的に矯正されたときの痛みだ。端的に言うと蹴っ飛ばされた。

 疲労のせいで下手くそな受け身をとって転がるシラハを見下ろし、師はなおも


――その域に達すれば、得られた「合理」が体捌きだけの話じゃないことが分かるだろう。勝つための思考。それも無意識に刻まれていると気付くはずだ。形通りに動く敵など存在しない。形に勝つための答えはない。が、ヒントはある。色んな敵を倒すためのヒントが、そうとは分からないままお前の中に蓄積される。そうすればお前の無意識が……


 その続きが思い出せない。もっと真面目に形を学んでおくんだったと、シラハはプリュノールの宿屋の一室で今更ながらに思う。

 当時は形にあまり意味を見いだしていなかった。

 決まり切った動きをなぞるのなら踊りと大して変わらない。それよりも……腹立たしいことこの上ないが……師匠の組手(ぼうりょく)のほうがよっぽど有用だ。どうすれば殴られて気を失わないか、どうすればあの男に一発食らわせてやれるか、それを死に物狂いで追い求めるほうがずっと強くなれる。当時のシラハはそう思っていた。


 しかし今ならば、師の言っていたことがおぼろげながらだが分かる。形は純粋に拳法の『技能(スキル)』を高めてくれるのだ。それは魔物と人間の両方に通じる力だ。

 シラハは考える。


――今から『十騎聖』クラスと同じだけの対人戦闘『技能(スキル)』を身に付けるのは厳しいだろうな。


 それが現時点でのシラハの結論だった。

 専門性というものは一朝一夕には身につかない。冒険者でないレゼーレはシラハのように魔物を手早く倒すことは出来ないし、逆にシラハはレゼーレのようにファスの警護体制を考えることは出来ないし、人を倒すための技に乏しい。

 だが、だからといって『十騎聖』に勝てない訳ではない。


――俺はレゼーレに勝った。


 対人の技に乏しいシラハだが、それでもあの手練れを殺さずに制圧できた。それはきっとシラハの中にヒントがあったからだ。


「色んな敵を倒すためのヒントが形の中にある。形を稽古すれば、そのヒントがそうとは分からないまま無意識に刷り込まれる……そして、そして?」


 何度も師の言葉を咀嚼する。

 意識的に出来るようにならなくてはいけない、とシラハは思う。

 レゼーレは『十騎聖』の末席だという。もし『十騎聖』が敵として現れるのなら、その者はレゼーレよりも強い。そんな相手に、シラハはファスとレゼーレを守りながら勝利しなければならない。しかも一身上の都合により「不殺」という条件までついてくる。

 極めて複雑な勝利条件の中で強敵と戦わなければならない。無意識だけではそんな戦い方は出来ない。無意識の中にあるヒントを意識の上に引っ張り出すのだ。


「シッ!」


 だがどうにもやはり、形というものはよく分からない。

 例えばこの動作。顎が地面に触れる程までに身を倒した状態で歩む『這蛇』の歩法。何がしたいのかよく分からない。

 こんなに体勢を低くしては居着きやすいし、拳にも力が入らない。地面に起伏があれば引っかかって転ぶリスクが高まり、それにそもそもバランスも悪すぎる。


――相手が薙ぎ払って来る、それを体勢を低くして躱しつつ距離を詰める……だけならもっと他の方法も……?


 今の自分に必要なのは本当に形稽古なのだろうか。そんな思いは常にある。だがあの男の亡き後、今のシラハの師に成り得るのはこれらの形だけなのだ。


 考える。記憶をたどり、形をなぞり、『十騎聖』相手に勝つためのヒントを一つでも多く拾い上げようとする。

 だが記憶を遡ろうとすると、決まってあの男の残した呪いにたどり着く。


――済まない。こんな(もの)には何の意味も無い。


「違う」


 思わず否定の言葉が漏れる。


「そんなのは嘘だ。だってあんたは……」


 シラハの言葉が続くことはなかった。独り言が隣室のレゼーレに聞こえてしまうことを思い出したからだ。シラハは舌打ちした。

 ファスも起きたようだ。今朝の稽古はここまでのようである。




「宿屋」を名乗っているような所であれば、朝食にパンと豆のスープくらいは出てくるものである。ちょっと上等な宿ならベーコンやチーズ、腸詰がついてくる。


 その意味で言うとこの宿は食事も上等の類いに入る。パンは噛みごたえがありつつも、中心部には少し柔らかさも残している。麦の香りも損なわれていない。スープもきちんと味がする。玉ねぎとベーコンのおかげだ。ベーコンが持つ塩気や肉の風味、玉ねぎの出すコク、それらがこの料理を「スープ」と呼ぶべきレベルに引き上げている。安宿では本当に豆と水しか使っていないようなところもあるのだ。それを考えれば素晴らしい朝食である。


 ーーもう少し量があれば満足なんだがな。

 

 などと思いつつ、シラハはパンで乾いた口をスープで潤す。

 本当に、味はこのくらいで十分である。


 ーーけど、そりゃ俺みたいな平民の基準だ。


 例えばファスにとってはどうだろうか。シラハはテーブルの向こう側に座ったファスの表情を伺う。

 ファスはスープを含むたびに目を閉じ、口の中で具材を丁寧に転がしているようだった。


エール(レゼーレ)よ。人生はわからぬものだな。豆を美味と感じる日が来ようとは」

「何よりです。これで私は非礼を働かずに済みます。もし好き嫌いをされるようでしたら、どんな手を使ってでも召し上がっていただくつもりでしたので」

「おお怖い。とんだ忠義者よな。わかっている。食べねば体が持たぬというのだろう」


 昨晩の様子だとファスは夕食をろくに取らずに寝たはずだ。

 空腹は胡椒にも勝る、などというが、それはファスも例外ではなかったらしい。


――もっとがっついてもいいような気もするけどな。


 だがファスはあくまでゆっくりとお行儀よく食事を進める。そういう躾を受けた階級の出身なのだ。

 しかもそれだけではない。ファスはレゼーレが料理を毒味するまで手をつけなかった。

 一見穏やかな食事風景にしか見えないが、彼女たちは逃避行の最中である。


 先に食べ終わったシラハは手遊びにテーブルを撫でてみる。木製のテーブルは使い込まれて滑らかな手触りだが、わずかに残ったささくれが指に引っかかる。彼女たちの現状もこれと同じだ。今だけは概ね安全だが、どこに「ささくれ」があるか分からない。本当の意味で気が休まる暇などない。

 しかしそれでも二人は穏やかに会話を続けている。


「今日は街に出るのであろう? 何を用立てるのだ?」

「まずは食料です。が、そもそも私たちは旅に必要な道具をほとんど持っていません。今まではその場にあるもので間に合わせてきましたが、さすがにそれだけでミュライユ伯爵領まで旅するのは難しいと思いますので……たとえば火口(ほくち)さえありません」

「火口?」

「着火剤のことだ。乾燥させた草とか、炭にした布とかそういうやつ。普通は火口なしで火を起こすのはほぼ不可能だ。火種を育てられねぇからな」

「しかしエール(レゼーレ)はいつの間にか火をおこしておったぞ」

「力業でなんとかしたんだろ。こいつぐらいになれば大抵のことは腕力で解決できる」

「見事な洞察力ですね。であれば当然、女心も見通せるはずでしょうね。なのにどうしてそんなことを口に出すのです?」


 レゼーレが言外にシラハの無神経をなじってくるが、腕ずくで火をつけたこと自体は否定はしなかった。

 『(レベル)』が高い人間は肉体が極めて強靭だ。普通の人間が道具で行うことを生身でできてしまう。馬よりも早く走れる。素手で狩りができる。火口なしで火が起こせる。「君たちは本当に工学と対極の位置にいるねぇ」と工学者(セレイン)が口癖のように嘆いていたことをシラハは思い出す。


 シラハは森を縦断するのにほとんど荷物が、物資が必要なかった。レゼーレも似たようなものだったのだろう。

 だがファスを守っていく旅である以上、それだけでは限界がくる。


「そろそろ俺たちも文明の利器の恩恵にあずかるべきってことだな。楽しい楽しいお買い物の時間だが……いいかエール(レゼーレ)、一番最初に行くのは両替商だからな。常識的には、金貨は市場で使うもんじゃない」


 ただ、この時のシラハは本当に「楽しいお買い物」になるなどとは想像もしていなかったのである。

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