52.アベル王子3
お読みいただきありがとうございます
今回も残酷な描写がありますので、苦手な人は飛ばしてください
「貴様は王国のために売られたのだ。敬愛する兄によってな」
皇帝の言葉は今度はしっかりとアベル王子の耳に届いていた。
「しかしあの小倅め。貴様を失った代償は大きいと今更言いよって、砦までの領土を寄越せと宣いよったわ」
皇帝はそう言うとアベル王子の横面を蹴り飛ばした。
木でできた靴はアベル王子の顎を砕き、奥歯が数本折れたのがわかった。
舌のない口腔内で折れた歯はうまく吐き出せず、アベル王子は口をだらりと開けて、口の中の異物を外に垂れ流した。
兄上が私を売った――
しかしそれはアベル王子にとって絶望ではなかった。
賢く勇敢な兄のことだ。私1人の犠牲で王国の民を救えるのならと判断したのだろう。それなら私のこの苦痛は全て兄上の――王国のためであるのだ。
兄の名を聞いて、アベル王子の心にすっかり失われた自尊心が蘇ってきた。
アンドレア王国の王族である事、トバル王子の弟であり、兄を、王家を支えることこそが自身の役割であると疑わなかったアベル王子にとって、この状況が王族としての役割であると思えることは、喜びでもあった。
「何を笑っておる。ついに気が触れたか」
皇帝は笑みを浮かべるアベル王子に畏怖を覚えた。
「お前の兄は、要件を飲まねばこの事を世界に公表すると脅してきよったわ」
そうだろう。兄上は最小の犠牲で最大の成果を上げることができるお方だ。
帝国の砦があった場所までを王国のものにできれば、港が手に入り海外との交易もしやすくなる上に、帝国の国力も削ぐ事ができる。帝国が要件を飲まなかった場合、アベル王子を差し出した王国も非難されるだろうが、あくまで捕虜として扱われるものと思っていたのだと言ってしまえばいい。
帝国は非道な国と、他国から交易や国交を拒絶される事だろう。そうなればこの強大な国土を維持することは難しくなる。
どちらにしても王国の利になる事に変わりはない。
自分一人を失うだけで帝国の威を削ぎ、王国の勢力を拡大できるのだ。さすがは兄上だとアベル王子は思った。
この愚かな皇帝は、兄の意を伝え自分を失意に叩き落とすつもりだったのだろうが、目論見は外れたようだ。
アベル王子は目の前の皇帝の器量の小ささに、同情すら覚えた。
現状に満足していれば良いものを、王国に現れた魔法使いに怯えて王国に攻め込み、自ら窮地を招いた愚かな男。
「あの生意気な小倅も言うておったわ。貴様が魔力だの魔法だのと言い出さねば戦争など起きなかったとな。あの小倅も余程貴様の魔法だのには辟易しておったようだ」
愉悦に満ちた皇帝の言葉は、今度は見事にアベル王子の心を貫いた。
兄上が?
自分が魔力を発現させた時は、誰よりも喜んでくれて、誰よりも支えてくれていたあの兄上が――?
戦争が始まると、戦場に出ようとする自分を涙ながらに止めて、止められないと知ると惜しみない支援をしてくれたあの兄上が、私の力を疎んでいらした。
いいや。兄上の事だ。皇帝を信じさせるための方便に違いない。
この矮小で単純な皇帝は見事に兄上の方便を信じ込んでいるではないか。
「貴様が何故ここで捕虜ではなく、罪人以下の扱いを受けていると思う。貴様の兄がそうしろと言ったからだ」
皇帝はアベル王子の顔から笑みが消えた事に気がつくと、ご機嫌よろしく続けた。
「かようにしてもしても構わんとな。わしが拷問を与え苦しみの限り殺しても良いのかと尋ねると、むしろそうしてほしいとさえ言っておったわ。余程貴様が憎いのだろうな」
いいや。兄上は高潔な御方だ。もし本当に私をお恨みになっていてもこのような下卑た輩に手を貸すような事はなさらない。
むしろ、やはり帝国の非道さを証明するために手段を取られたに違いない。
アベル王子は一瞬でも兄を疑った自分を恥じた。
「その目。気に入らぬな」
皇帝はアベル王子の意志のこもった瞳を見て呟くと、牢番に目配せをした。
「もうこの世を見る必要もないだろう。その体では長くは生きれぬ。その目も不要と言うわけだ」
皇帝の高笑いと共に、赤くなった火かき棒を持った牢番が近付いてくるのが見えた。
そして、その光景はアベル王子が瞳で捉えた最後の光景となったのだった。
激痛と暗闇の中、アベル王子は冷たい床に横たわっていた。
垂れ流された糞尿の中で蛆に体を食われても動く事すらできず、ただ暗闇の中で静かに息をしていた。
何日経ったのだろうか。
幾度も眠っては目覚めを繰り返していた。
顎が砕かれた口は食事も水も取れず、そしてアベル王子自身、既に何も欲しなくなっていた。痛みすらどこか別の場所で起きているような感覚となっていた。死が近いのだとアベル王子は感じていた。
食事も水も欲しなくなったおかげでアベル王子の体の毒は抜け、魔力を練れるようになっていた。
しかし、今更何をしろと言うのだ。
皇帝の妄言を信じる気は毛頭なかった。しかし、以前のように王国に戻りたいという想いも湧き出てこなかった。
何故だろう。自分は兄を信じているのに。
ああ、そうだ。自分が王国に戻ることを兄上は望んでおられない。
アベル王子は確信した。
それならば自分の取る道はただ一つ。
けれど――。
ひとつだけ思い浮かぶ事があった。
まだ見ぬ我が子セツの事だった。
子を作るためだけに娶った妻が産んだ息子。そして、その役割を受け入れてくれた顔も思い出せない妻。
自分は感謝を伝えられただろうか。子が生まれる前に城を出て、子が生まれたと知らせを聞いても文一つのみで帰ることもしなかった自分を、そしてそのまま帰らぬ自分を許してくれるのだろうか。
死の直前にようやく妻子を思い浮かべる自分も薄情だと、アベル王子は自嘲した。
ああ。それもこれまでだ。
どうせ尽きる命であれば――帝国ごと道連れにしてやろう。
兄上、我が王よ。あなたの治世に不要なものは残すまい。最後の私の献身です。
アベル王子は残った力を奮い起こし、ゆっくりと魔力を練り始めた。
次回の更新は1月23日の予定です
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