第9話「人の優しさにケチつけんな!」
朝。
目が覚めた。
「…………」
足が痛い。
昨日。
福島から木古内まで。
歩いた。
測った。
記録した。
そして。
夜は当然のように天測。
もう分かってきた。
これが伊能忠敬の日常だ。
朝起きる。
歩く。
測る。
記録する。
夜になったら星を見る。
寝る。
そして。
また朝が来る。
「…………」
俺は布団の中で考えた。
おかしい。
絶対おかしい。
五十五歳の生活じゃない。
「先生」
門倉隼太の声がする。
「起きてる」
「まだ何も申しておりません」
「どうせ起きろだろ?」
「はい」
ほら。
俺は身体を起こした。
「今日くらい休まない?」
「参りましょう」
「せめて考えるふりくらいしてくれない?」
容赦ない。
本当に。
容赦ない。
俺は草鞋を履く。
すると。
目の前に。
いつものウインドウが現れた。
【第一次測量】
現在地:木古内
本日の目的地:箱館方面
史実との差:0日
タイムパラドックス発生リスク:0.000%
「…………」
俺は表示を見る。
箱館。
知ってる。
現代でいう。
函館。
ようやく。
俺でも知っている地名が出てきた。
「門倉」
「はい」
「今日は箱館?」
「そちらへ向かいます」
「着く?」
「予定通り進めば」
「…………」
その言い方。
嫌い。
でも。
箱館。
少しだけテンションが上がる。
現代の函館なら知っている。
夜景。
海。
そして。
「海鮮」
「はい?」
「箱館って魚うまい?」
門倉が俺を見る。
「海辺ですからな」
「よし」
「何がです?」
「今日頑張れる気がしてきた」
「それは何よりです」
単純。
我ながら。
単純だと思う。
でも。
目的地に楽しみくらいないと。
やってられない。
「よし」
俺は立ち上がった。
「行くか」
◇
測量開始。
方角を測る。
距離を測る。
記録する。
歩く。
止まる。
また測る。
「宗平」
「はい」
記録を見せる。
平山宗平が確認する。
「よろしいかと」
「よし」
少しずつ。
本当に少しずつ。
慣れてきた。
最初は。
道具の使い方すら分からなかった。
でも。
門倉たちに聞いて。
記録を読んで。
実際にやって。
昨日より。
少しだけ。
できるようになっている。
「…………」
なんだろう。
悪くない。
昨日できなかったことが。
今日できる。
四十歳になってから。
仕事でこんな感覚。
いつ以来だろう。
「父上」
「うわっ!」
横から秀蔵。
まだ。
父上に慣れない。
「どうされました?」
「いや、なんでもない」
俺は歩く。
測る。
記録する。
そして。
また歩く。
ただ。
測量には。
少し慣れてきたが。
歩くことだけは。
「足痛い……」
全然。
慣れない。
◇
しばらく進むと。
道の先に。
人家が見えてきた。
小さな集落だった。
「村か」
家が。
ぽつぽつと並んでいる。
人がいる。
子供もいる。
生活がある。
俺は歩きながら。
その光景を眺めていた。
不思議だった。
俺にとって。
江戸時代は。
歴史だった。
教科書の中。
テレビ。
時代劇。
昔の話。
でも。
今。
目の前で。
人が暮らしている。
洗い物をしている人。
何かを運んでいる人。
走っている子供。
普通だ。
当たり前だけど。
みんな。
普通に生きている。
「…………」
その時。
「お侍様方」
声を掛けられた。
振り返る。
年配の男が立っていた。
俺たちを見る。
そして。
「随分お疲れのようで」
「…………」
俺は。
自分の足を見る。
まあ。
疲れている。
というか。
俺だけ。
めちゃくちゃ疲れた顔してるんだと思う。
「よろしければ」
男が言った。
「少し休んでいかれては?」
「いいんですか!?」
即答した。
「先生」
門倉が俺を見る。
「何?」
「食いつきが早すぎます」
「疲れてるんだよ!」
男が笑った。
「大したもてなしはできませぬが」
そして。
家の方を指す。
「水くらいならございます」
「十分です!」
「先生」
「何!」
「少し落ち着かれては?」
無理。
水。
座れる。
休める。
今の俺には。
全部。
最高級のおもてなしだ。
◇
「…………うまい」
水を飲む。
冷たい。
ただの水。
なのに。
身体に染みる。
「生き返る……」
俺は座っていた。
歩かなくていい。
幸せ。
「よろしければ、こちらも」
「え?」
少しばかりの食べ物まで。
出してくれた。
「いや」
俺は戸惑った。
「そこまでしてもらわなくても」
「旅のお方でしょう?」
男が笑う。
「腹が減っては歩けませぬ」
「…………」
なんだろう。
その言葉。
今の俺には。
ものすごく響いた。
「ありがとうございます」
俺は。
頭を下げた。
食べる。
うまい。
豪華じゃない。
現代なら。
何でもない食事かもしれない。
でも。
今は。
本当にうまい。
「先生」
隣に門倉が座る。
「何?」
「随分静かですな」
「俺だって静かな時くらいある」
「珍しいので」
「失礼だな」
門倉が笑う。
俺も。
少し笑った。
そして。
村の人たちを見る。
この人たちは。
俺が未来から来たなんて知らない。
俺が本当は伊能忠敬じゃないことも。
知らない。
もちろん。
タイムパラドックスなんて。
知るはずもない。
ただ。
疲れている旅人がいた。
だから。
水をくれた。
食べ物をくれた。
休ませてくれた。
それだけ。
「…………」
二百年以上前。
知らない時代。
知らない土地。
生活も違う。
常識も違う。
何もかも。
違うと思っていた。
でも。
「変わらないんだな」
「何がです?」
門倉が聞く。
俺は。
村の人たちを見る。
「人って」
「…………」
「困ってる人がいたら、助けてくれる人がいる」
門倉は。
少しだけ笑った。
「いつの世も、そのようなものでしょう」
「……そうかもな」
俺は。
水をもう一口飲んだ。
この時代に来てから。
初めてだった。
ここにいる人たちが。
歴史上の人じゃなく。
俺と同じ。
普通の人間なんだと思えた。
この人たちも。
笑う。
怒る。
疲れる。
腹が減る。
家族がいる。
そして。
知らない旅人に。
水をくれる。
教科書には。
たぶん。
載らない。
名前だって。
未来には。
残っていないかもしれない。
でも。
俺は。
覚えておこうと思った。
◇
「ありがとうございました」
俺たちは。
再び歩き始めた。
「道中お気をつけて」
男が手を振る。
俺も。
手を振った。
しばらく歩く。
「門倉」
「はい」
「いい人だったな」
「そうですな」
足は。
まだ痛い。
測量も。
大変。
夜になれば。
また天測があるかもしれない。
それでも。
さっきまでより。
少しだけ。
足が軽かった。
「…………」
悪くないな。
こういう旅も。
そう思った。
その瞬間。
ウインドウが現れた。
【第一次測量】
現在地:箱館方面へ進行中
本日の目的地:箱館方面
史実との差:+0.002日
タイムパラドックス発生リスク:0.003%
「…………」
俺は止まった。
「先生?」
もう一度見る。
【史実との差:+0.002日】
【タイムパラドックス発生リスク:0.003%】
「…………おい」
休憩した。
予定より。
少しだけ。
遅れた。
それは分かる。
でも。
今か?
このタイミングで出すか?
【タイムパラドックス発生リスク:0.004%】
「上がった!」
「先生?」
「お前!」
俺は。
ウインドウを指差した。
門倉には。
当然。
何も見えない。
「何のお話です?」
「今いいところだっただろ!」
【0.005%】
「上げんな!」
なんなんだ。
こいつ。
水をもらった。
飯をもらった。
休ませてもらった。
人の温かさを知った。
それくらい。
いいだろ!
「人の優しさにケチつけんな!」
「先生?」
「お前じゃない!」
「では誰に?」
「俺にも分からん!」
ウインドウを見る。
【史実との差:+0.002日】
「分かったよ!」
俺は。
歩く速度を上げた。
「先生?」
「急ぐ!」
「急にどうされたのです?」
「遅れた分取り戻す!」
「それは結構ですが」
歩く。
測る。
記録。
また歩く。
【史実との差:+0.001日】
【タイムパラドックス発生リスク:0.004%】
「下がった!」
さらに。
歩く。
「先生、随分と張り切っておられますな」
「違う! 脅されてるんだよ!」
「誰に?」
「分からん!」
歩く。
測る。
記録。
また歩く。
そして。
【史実との差:0日】
【タイムパラドックス発生リスク:0.001%】
「よし!」
もう少し。
【タイムパラドックス発生リスク:0.000%】
戻った。
「…………」
俺は。
少しだけ笑った。
なんだ。
取り戻せるじゃん。
村で休んだ。
予定より。
ほんの少し遅れた。
でも。
その後。
少し頑張って。
取り戻した。
歴史は。
変わっていない。
未来も。
消えていない。
そして。
俺には。
あの人たちとの記憶が残った。
「…………」
だったら。
これでいい。
史実は守る。
日本地図も完成させる。
でも。
その途中で。
誰かに出会ったり。
誰かと話したり。
誰かの優しさに甘えたり。
それくらい。
いいだろ。
遅れたなら。
俺が歩いて。
取り戻せばいい。
「先生」
門倉が振り返る。
「何?」
「先ほどから随分と嬉しそうですが」
「そう?」
「はい」
「…………」
俺は。
前を見る。
道が続いている。
この先にも。
村がある。
町がある。
人がいる。
今までは。
目的地しか見ていなかった。
福島。
木古内。
箱館。
次はどこ。
その次はどこ。
でも。
その間にも。
人が暮らしている。
「門倉」
「はい」
「この旅」
「はい」
「ちょっとだけ面白いかもしれない」
門倉が。
驚いた顔をした。
「先生がそのようなことを?」
「何だよ」
「つい先日まで、歩きたくないと騒いでおられましたので」
「今も歩きたくないよ」
「…………」
「それとこれは別」
門倉が笑った。
俺も。
笑った。
その瞬間。
【タイムパラドックス発生リスク:0.001%】
「…………」
俺は止まった。
【0.002%】
「おい」
【0.003%】
「だから!」
俺は空に向かって叫んだ。
「人の優しさにケチつけんなって!」
俺の声が。
蝦夷地の道に響いた。
門倉が。
隣で首を傾げている。
それでも。
俺は歩く。
今日も。
測る。
歩く。
記録する。
そして。
この道で出会った人たちを。
少しずつ。
覚えていく。
日本地図完成まで。
まだ。
とんでもなく遠い。
でも。
地図に残るのは。
道や海岸線だけじゃない。
少なくとも。
俺の中には。
この道で出会った人たちも。
残っていく。
そんな気がした。




