第84話「誰かが海に落ちた」
朝。
俺は眠かった。
ものすごく眠かった。
理由は簡単だ。
門倉が夜明け前から動き始めたからだ。
「先生! 朝でございます!」
「……嘘つけ」
「何がです?」
「まだ暗い」
「夜明けが近づいております」
「それは夜だろ!」
「朝の準備をするには、ちょうどよい時刻です」
「…………」
俺は布団から顔だけ出した。
門倉が笑っている。
爽やかだ。
腹が立つくらい爽やかだ。
「……なあ、門倉」
「はい」
「お前、寝てる?」
「もちろんです」
「いつ?」
「夜です」
「…………」
俺は天井を見上げた。
こいつ。
絶対に人間じゃない。
もしかして。
門倉の正体って。
予定表が人間の姿になった妖怪なんじゃないか?
「……門倉」
「はい」
「お前の本体って紙?」
「……は?」
「水に濡れたら溶ける?」
「先生、まだ寝ぼけておられますな」
「寝ぼけてるのはお前の予定表だよ!」
◇
朝食を終えた。
今日も海岸沿いを進む。
昨日の荒れた海は、少し落ち着いていた。
ただ。
沖の方には、まだ白い波が見える。
「……なあ」
俺は海を眺めた。
「今日は船、乗らないよな?」
門倉が頷く。
「本日は陸から測量を進めます」
「よっしゃ!」
俺は拳を握った。
「陸最高!」
郡蔵が笑った。
「昨日は山道を随分と嫌がっておられましたが」
「昨日の俺と今日の俺は違う!」
「何が違うのです?」
「海の怖さを知ってる!」
「昨日も知っておられたでしょう」
「細かいことは気にするな!」
◇
海岸に出た。
岩場が続いている。
潮の匂い。
波の音。
遠くには漁船が見える。
俺は足を止めた。
「……おお」
海だ。
やっぱり。
見ている分にはいい。
青い。
広い。
気持ちいい。
「……こうして見ると、綺麗だよな」
宗平が頷く。
「そうですな」
「船に乗らなければ最高だ」
「先生らしいですな」
俺は笑った。
そのとき。
遠くから声が聞こえた。
「おーい!」
俺は顔を上げた。
浜の方だ。
漁師らしき男が手を振っている。
「……ん?」
門倉も気づいた。
「何でしょうな」
男がこちらへ駆けてきた。
「旦那方!」
「どうされました?」
門倉が尋ねる。
男は息を切らしていた。
「沖の船が!」
「……船?」
「仲間がまだ戻ってこねえんです!」
「…………」
俺は海を見た。
沖。
小さな船が見える。
波に揺れている。
「……あれか?」
「そうです!」
男が頷いた。
「風が強くなる前に戻るはずだったんですが……!」
門倉が海を見つめる。
「確かに、沖はまだ荒れておりますな」
俺は男に尋ねた。
「何人乗ってるんです?」
「二人です!」
「……二人」
「親父と弟です!」
男の顔は青ざめていた。
「頼みます! 何かあったら……!」
「…………」
俺は海を見た。
小さな船。
波。
風。
嫌な予感がした。
◇
俺たちは浜へ向かった。
近くには漁師たちが集まっていた。
皆、沖を見ている。
「まだ戻らねえのか!」
「風が変わった!」
「こりゃまずいぞ!」
俺は一人の漁師に声をかけた。
「……船を出せないんですか?」
男が首を振る。
「この波じゃ危ねえ!」
「…………」
俺は沖を見た。
確かに。
波が高い。
昨日より少し落ち着いたとはいえ。
沖は別だ。
「……門倉」
「はい」
「俺たち、何かできないかな」
門倉が考える。
「まずは状況を確かめましょう」
「……そうだな」
俺は頷いた。
そのとき。
――ザザァァァン!
大きな波が浜に押し寄せた。
俺は思わず後ずさった。
「うわっ!」
「先生!」
門倉が俺の腕をつかむ。
「大丈夫ですか!」
「……大丈夫!」
俺は海を見た。
沖の船。
小さく揺れている。
いや。
揺れているどころじゃない。
大きく傾いた。
「……おい」
俺は目を凝らした。
「……あれ」
船の上で人影が動いた。
一人。
二人。
何か叫んでいる。
でも。
波の音で聞こえない。
「……門倉」
「はい」
「なんか様子がおかしくない?」
門倉も目を細めた。
「……確かに」
◇
漁師たちが騒ぎ始めた。
「おい! あの船!」
「傾いてるぞ!」
「波をかぶった!」
俺は息を呑んだ。
船が大きく揺れる。
――ザッパァァン!!
波が船を叩いた。
人影がよろめく。
「……危ない!」
俺は思わず叫んだ。
次の瞬間。
――ドッパァァァン!!
大きな波。
船が跳ねる。
そして。
人影が。
一つ。
消えた。
「…………」
俺は固まった。
今。
何が起きた?
「……え?」
誰かが叫んだ。
「落ちた!!」
「人が落ちたぞ!!」
「…………」
俺は沖を見た。
船の横。
波の間に。
小さな影が見えた。
人だ。
人が。
海に浮かんでいる。
「……嘘だろ」
◇
浜が騒然となった。
「誰か船を!」
「無理だ! この波じゃ!」
「縄はないか!」
「届く距離じゃねえ!」
俺は立ち尽くしていた。
沖。
人影。
波。
消える。
また見える。
「…………」
心臓が速くなる。
怖い。
ものすごく怖い。
俺は海が嫌いだ。
船酔いする。
波も怖い。
泳ぐのだって得意じゃない。
でも。
今。
そんなことを言っている場合じゃない。
「……門倉」
「はい」
「何か方法ないか?」
門倉は真剣な顔をしていた。
「船を出せる者がいるか、確認しましょう」
「……分かった」
俺は漁師たちを見た。
皆、必死だ。
でも。
誰も動けない。
いや。
動きたくても。
動けないんだ。
あの波じゃ。
船を出した人間まで危なくなる。
「…………」
俺は拳を握った。
どうする。
どうすればいい。
◇
そのとき。
――ピコン。
目の前に半透明のウインドウが現れた。
【歴史変動を検知】
「…………」
俺は目を見開いた。
(……何だよ、今!?)
――ピコン。
【現在の状況に介入した場合、歴史への影響が発生する可能性があります】
「…………」
は?
俺は沖を見た。
人が溺れている。
今にも波に呑まれそうだ。
なのに。
歴史?
「……ふざけんな」
思わず声が漏れた。
【警告】
【タイムパラドックス発生リスク上昇の可能性】
「…………」
俺は歯を食いしばった。
またか。
またこれか。
この世界に来てから。
何度も見てきた。
歴史を変えるな。
本来の流れから外れるな。
そういう警告。
でも。
今。
目の前で。
人が死にそうなんだぞ?
「…………」
俺は海を見た。
波。
人影。
消える。
また見える。
「……くそっ」
◇
「先生!」
門倉が駆け寄ってきた。
「近くの漁師が、小舟を出せるか検討しております!」
「……本当か!?」
「はい!」
「じゃあ!」
「ですが、波が高く、危険が大きいと」
「…………」
俺は海を見た。
時間がない。
あの人影。
さっきより動きが小さい。
「……門倉」
「はい」
「俺たちの間縄は?」
「……え?」
「間縄!」
門倉が目を見開いた。
「ございますが!」
「長さは!?」
「いくつかございます!」
「つなげられるか!?」
「……先生?」
俺は漁師たちを振り返った。
「誰か!」
全員がこちらを見る。
「縄を使って、人を引き上げる方法はないか!?」
一人の漁師が首を振る。
「旦那! あそこまでは届かねえ!」
「だったら!」
俺は沖を指さした。
「船から縄を伸ばせば!?」
「…………」
漁師たちが顔を見合わせた。
「……船から?」
「そうだ!」
俺は叫んだ。
「助けに行く船が流されないように、陸とつなげないか!?」
一人の漁師が海を見た。
「……そりゃ、距離がありすぎる」
「…………」
俺は唇を噛んだ。
駄目か。
でも。
何か。
何かあるはずだ。
「……考えろ」
俺は自分に言い聞かせた。
「考えろ、俺!」
◇
沖で。
再び人影が消えた。
「……っ!」
俺は息を止めた。
一秒。
二秒。
三秒。
「…………」
出てこない。
「……おい」
四秒。
五秒。
「……嘘だろ」
そのとき。
波の向こうに。
小さな手が見えた。
「いた!!」
俺は叫んだ。
「まだ生きてる!!」
浜の漁師たちが動き出した。
「船を出すぞ!」
「縄を持ってこい!」
「浮くものはないか!」
「手伝え!」
声が飛び交う。
俺は門倉を見た。
「……門倉」
「はい!」
「俺たちも手伝うぞ!」
「承知しました!」
郡蔵が間縄を運ぶ。
宗平が道具をまとめる。
秀蔵と慶助が漁師たちに駆け寄る。
全員が動き始めた。
俺も。
走った。
足が痛い。
息が切れる。
でも。
今は。
そんなことを気にしていられない。
◇
浜に縄が集められた。
漁師たちが船を準備している。
しかし。
波はまだ高い。
「……くそっ!」
俺は海を見た。
人影が見えない。
どこだ。
どこにいる。
「……頼む」
俺は小さく呟いた。
「まだ、沈むなよ……!」
そのとき。
――ピコン。
再びウインドウが現れた。
【警告】
【歴史への介入を継続しますか?】
「…………」
俺は画面を睨んだ。
(……うるさい)
【タイムパラドックス発生リスクが上昇する可能性があります】
(分かってるよ!)
【歴史の変動が発生する可能性があります】
「…………」
俺は拳を握った。
歴史。
未来。
日本地図。
分かってる。
全部大事だ。
でも。
今。
目の前にいる人間は。
どうなるんだよ。
「……ふざけんなよ」
俺は海を見た。
そして。
一歩踏み出した。
◇
門倉が俺の腕をつかんだ。
「先生!」
「……何だ!」
「どちらへ!?」
「助けるんだよ!」
「先生が海へ入られては危険です!」
「分かってる!」
俺は門倉を見た。
「俺だって怖い!」
「…………」
「船も嫌いだし!」
「…………」
「泳ぐのも得意じゃない!」
「…………」
「でも!」
俺は沖を指さした。
「あそこに人がいるんだぞ!」
門倉が息を呑んだ。
俺は続けた。
「何かできることがあるなら、やるしかないだろ!」
「…………」
門倉が俺を見つめる。
そして。
ゆっくり頷いた。
「……承知しました」
「……門倉」
「ただし」
門倉の目が鋭くなる。
「先生ご自身が海へ飛び込むことは、決して許しませぬ」
「…………」
俺は固まった。
「……え?」
「先生には、ここで皆を指揮していただきます」
「…………」
門倉は俺の肩をつかんだ。
「全員で帰ると、おっしゃったではありませぬか」
「…………」
俺は言葉を失った。
そうだ。
言った。
全員で帰る。
誰も欠けずに。
だったら。
俺が無茶をしてどうする。
「…………」
俺は深く息を吸った。
そして。
頷いた。
「……分かった」
◇
波が砕ける。
風が吹く。
沖の人影は。
まだ見えない。
漁師たちが船を押し出そうとしている。
縄が運ばれる。
声が飛び交う。
俺は海を睨んだ。
「……絶対に助ける」
その瞬間。
――ピコン。
【警告】
【歴史への介入により、タイムパラドックス発生リスクが上昇する可能性があります】
「…………」
俺はウインドウを見た。
そして。
小さく呟いた。
「……知ってるよ」
もう。
何度も聞いた。
でも。
今は。
そんなことより。
大事なことがある。
俺は拳を握った。
そして。
海に向かって叫んだ。
「待ってろぉぉぉ!! 絶対に助けてやるからなぁぁぁ!!」




