第85話「歴史より人の命だろ!」
――ザッパァァァン!!
波が砕けた。
白い飛沫が舞い上がる。
沖に浮かぶ小さな船。
そして。
その近くで溺れている男。
「……どこだ!?」
俺は目を凝らした。
さっきまで見えていた人影がない。
波。
波。
また波。
「……くそっ!」
胸が苦しい。
息が詰まる。
頼む。
生きていてくれ。
「先生!」
門倉が駆け寄ってきた。
「船頭たちが救助の準備を進めております!」
「……本当か!?」
「はい!」
俺は浜を見た。
漁師たちが小舟を押し出そうとしている。
縄。
浮き樽。
長い竹竿。
使えそうなものが集められていた。
「……よし!」
俺は拳を握った。
「絶対に助けるぞ!」
◇
だが。
現実は甘くなかった。
――ドッパァァァン!!
大きな波。
小舟が押し戻される。
「駄目だ!」
漁師が叫んだ。
「このままじゃ船がひっくり返る!」
「くそっ!」
別の男が船縁を押さえる。
「もう一度だ!」
「待て! 今出したらこっちまでやられる!」
声が飛び交う。
誰も諦めていない。
でも。
海がそれを許さない。
「…………」
俺は拳を握った。
どうする。
どうすればいい。
現代なら。
救命胴衣。
救助艇。
海上保安庁。
助けを呼ぶ手段がある。
でも。
ここは江戸時代。
そんなものはない。
「……くそっ」
俺は唇を噛んだ。
そのとき。
――ピコン。
目の前にウインドウが現れた。
【タイムパラドックス発生リスク】
【現在値:12%】
【歴史への介入を検知】
「…………」
俺は画面を睨んだ。
(……今それどころじゃない!)
【本来の歴史と異なる結果が発生する可能性があります】
「…………」
本来の歴史。
異なる結果。
つまり。
この男は。
本当なら。
助からないのか?
「……ふざけんな」
思わず声が漏れた。
◇
「先生!」
郡蔵が駆け寄ってきた。
「縄を集めました!」
「……よし!」
「ですが、沖までは到底届きませぬ!」
「…………」
俺は海を見た。
距離がある。
かなりある。
陸から縄を投げても無理だ。
なら。
船。
でも。
船を出すのは危険。
「…………」
俺は頭を抱えた。
考えろ。
考えろ。
現代人だろ、俺。
何か知ってるはずだ。
……いや。
待て。
現代人だからって。
何でも知ってるわけじゃない。
俺は会社員だぞ?
救助の専門家じゃない。
でも。
「……あっ」
俺は顔を上げた。
浮くもの。
浮くものを使えば。
「門倉!」
「はい!」
「樽は!?」
「……樽?」
「空の樽!」
俺は浜を指さした。
「浮くものがあれば、つかまれるだろ!」
門倉が頷いた。
「なるほど!」
「でも!」
俺は続けた。
「そのまま流したら、どこへ行くか分からない!」
「…………」
「だから縄をつける!」
門倉が目を見開いた。
「……縄を?」
「そう!」
俺は身振りで説明した。
「樽を浮かべて、縄で引けるようにする!」
「なるほど!」
郡蔵が頷いた。
「流れを見れば、届く可能性もございますな!」
「……そうだ!」
俺は海を見た。
波。
風。
流れ。
あの男のいる場所まで。
届くかもしれない。
◇
漁師たちが動き出した。
空の樽を持ってくる。
縄を結ぶ。
長さを確かめる。
「旦那!」
船頭が叫んだ。
「これだけじゃ沖までは届かねえ!」
「……分かってる!」
俺は海を見た。
「船で近づくしかない!」
「…………」
船頭の顔が険しくなる。
「危険ですぜ」
「分かってる!」
「波をかぶれば、こっちも終わりだ!」
「……分かってるよ!」
俺は拳を握った。
分かってる。
分かってるんだ。
でも。
あの男を助けるには。
何かしなきゃいけない。
「……なあ」
俺は船頭を見た。
「無理に出ろとは言わない」
「…………」
「でも、少しでも安全に近づける方法はないか?」
船頭が海を見た。
長い沈黙。
そして。
「……波の切れ目を待つしかねえ」
「……波の切れ目?」
「大きな波が続いた後、少しだけ静かになることがある」
「…………」
俺は海を見た。
確かに。
大きな波。
その後。
少し小さな波。
また大きな波。
「……なるほど」
船頭が続けた。
「ただし、絶対じゃねえ」
「……うん」
「出るなら、命懸けだ」
「…………」
俺は頷いた。
「……分かった」
◇
そのとき。
沖の船から声が聞こえた。
「おーい!!」
全員が振り返る。
船の上の男が何か叫んでいる。
「助けてくれぇぇぇ!!」
「…………」
俺は息を呑んだ。
船の近く。
波の間に。
人影が見えた。
「……いた!」
俺は叫んだ。
「まだいる!!」
男は必死に水面へ顔を出していた。
でも。
動きが鈍い。
かなり疲れている。
時間がない。
「……くそっ!」
俺は歯を食いしばった。
◇
――ピコン。
【警告】
【救助行動による歴史変動の可能性】
【タイムパラドックス発生リスク上昇予測】
「…………」
俺は画面を睨んだ。
(……だから何だよ!)
【本来の歴史と異なる結果が発生する可能性があります】
(知ってるよ!)
【介入を継続した場合、歴史への影響が拡大する可能性があります】
「…………」
俺は目を閉じた。
歴史。
未来。
日本地図。
全部大事だ。
俺がこの時代に来た理由も。
まだ分からない。
でも。
一つだけ。
はっきりしている。
今。
目の前で。
人が死にそうなんだ。
「…………」
俺は目を開けた。
そして。
心の中で叫んだ。
(人が危ない目に遭ってるのに、見過ごすほど俺は非情になれない!)
――ピコン。
【警告継続】
「…………」
俺はウインドウを睨んだ。
(……だったら、好きなだけ警告してろ!)
◇
「門倉!」
「はい!」
「助けるぞ!」
「承知しました!」
「郡蔵!」
「はい!」
「縄を確認してくれ!」
「承知!」
「宗平!」
「はい!」
「樽の結び目を!」
「お任せください!」
「秀蔵! 慶助!」
「はい!」
「漁師たちを手伝ってくれ!」
「承知しました!」
全員が動き出した。
俺は船頭を見た。
「……頼めるか?」
船頭は海を見つめていた。
そして。
ゆっくり頷いた。
「……やるしかねえな」
「…………」
俺は息を呑んだ。
「ただし」
船頭が俺を見る。
「旦那は乗るな」
「……え?」
「船に慣れてねえ者が乗ったら、足手まといだ」
「…………」
俺は固まった。
いや。
正論。
ものすごく正論。
「……分かった」
俺は頷いた。
「俺はここでできることをやる」
船頭が笑った。
「それでいい」
◇
準備が整った。
小舟には経験のある漁師たちが乗り込む。
縄を結んだ浮き樽。
竹竿。
そして。
救助のための道具。
俺たちは浜から見守った。
「……頼む」
俺は小さく呟いた。
波が来る。
――ドッパァァァン!!
小舟が揺れる。
漁師たちが踏ん張る。
そして。
波が少し落ち着いた。
「今だ!!」
船頭が叫んだ。
小舟が動き出す。
――ザザザザッ!
波を越える。
一つ。
二つ。
三つ。
「……行け!」
俺は拳を握った。
「行けぇぇぇ!!」
◇
小舟が沖へ進む。
だが。
途中で大きな波が来た。
――ドッパァァァン!!
船が大きく傾く。
「うわっ!」
浜から悲鳴が上がった。
「……っ!」
俺は息を止めた。
転覆する。
そう思った。
だが。
船頭が叫ぶ。
「踏ん張れぇぇぇ!!」
小舟が持ち直した。
「……よし!」
俺は拳を握った。
「そのまま!」
門倉が隣に立つ。
「先生」
「……何?」
「きっと届きます」
「……ああ」
俺は頷いた。
「絶対に届かせる」
◇
沖の人影が見えた。
小舟が近づく。
漁師が竹竿を伸ばす。
「つかまれぇぇぇ!!」
だが。
男の手が届かない。
波に流される。
「……くそっ!」
俺は浜から叫んだ。
「もう少し右だ!!」
船頭が動く。
小舟が向きを変える。
もう一度。
竹竿を伸ばす。
「つかまれ!!」
男が手を伸ばした。
届く。
あと少し。
あと。
少し。
――ザッパァァン!!
波が来た。
男の姿が消える。
「…………」
俺は固まった。
「……おい」
一秒。
二秒。
三秒。
「……嘘だろ」
そのとき。
船頭が叫んだ。
「いたぞ!!」
小舟の横。
男の手が見えた。
「……っ!」
漁師が身を乗り出す。
竹竿を差し出す。
男の手が。
竿を。
つかんだ。
「……よし!!」
俺は叫んだ。
「つかんだぞぉぉぉ!!」
◇
だが。
まだ終わっていない。
男は疲れ切っている。
自分で船に上がる力がない。
漁師たちが必死に引き寄せる。
小舟が傾く。
「……危ない!」
俺は息を呑んだ。
一人を助けようとして。
全員が海に落ちたら。
意味がない。
「……頼む」
俺は拳を握った。
「頼むから……!」
船頭が叫ぶ。
「反対側を押さえろ!」
漁師たちが身体を動かす。
船の傾きを抑える。
そして。
――ザバァッ!
男の身体が。
船の中へ引き上げられた。
「…………」
俺は目を見開いた。
「……助かった?」
門倉が海を見た。
「……はい!」
郡蔵が叫んだ。
「引き上げましたぞ!!」
「…………」
俺は膝から崩れ落ちた。
「……よかった」
声が震えた。
本当に。
よかった。
◇
だが。
救助はまだ終わらない。
小舟は岸へ戻らなければならない。
波は高い。
風も強い。
俺たちは浜で待った。
一歩も動けなかった。
いや。
動かなかった。
ただ。
祈っていた。
「……頼む」
俺は海を見つめた。
「全員で帰ってこい……!」
門倉が隣で頷いた。
「必ず」
◇
しばらくして。
小舟が浜へ近づいた。
漁師たちが駆け寄る。
「縄を!」
「船を押さえろ!」
「波が来るぞ!」
――ザッパァァン!!
小舟が大きく揺れた。
だが。
皆で支える。
押さえる。
引き寄せる。
そして。
ついに。
船が浜へ上がった。
「……っ!」
俺は駆け寄った。
船の中。
男が横たわっている。
顔色が悪い。
動かない。
「……おい」
俺は膝をついた。
「……大丈夫か?」
返事はない。
「…………」
胸が冷たくなった。
助けた。
引き上げた。
でも。
もし。
間に合わなかったら。
「……頼む」
俺は男の顔を見た。
「生きててくれ……!」
そのとき。
男が。
――ゴホッ!!
激しく咳き込んだ。
「……っ!」
周囲がざわめく。
「息をしたぞ!」
「生きてる!」
「医者を呼べ!」
俺は息を吐いた。
身体から力が抜ける。
「……よかった」
本当に。
よかった。
◇
漁師たちが男を運んでいく。
家族らしき者が泣きながら駆け寄った。
「父ちゃん!」
「よかった……!」
「本当によかった……!」
俺はその光景を見ていた。
胸が熱くなる。
何か。
言葉にできないものが込み上げてきた。
「…………」
門倉が隣に立つ。
「先生」
「……何?」
「お見事でした」
「…………」
俺は首を振った。
「俺じゃないよ」
「……先生?」
「助けたのは漁師たちだ」
俺は海を見た。
「俺は、ちょっと口を出しただけ」
門倉が笑った。
「ですが、その一言が皆を動かしたのです」
「…………」
俺は少し照れた。
「……そうかな」
「はい」
「……まあ」
俺は小さく笑った。
「助かったなら、それでいいや」
◇
その瞬間。
――ピコン。
目の前にウインドウが現れた。
【歴史変動を確認】
「…………」
俺は動きを止めた。
【本来の歴史と異なる結果が発生しました】
「…………」
心臓が跳ねる。
【タイムパラドックス発生リスク】
【現在値:12%】
【再計算中……】
「…………」
俺は息を呑んだ。
数字が変わる。
ゆっくりと。
【13%】
【14%】
【15%】
「…………」
まだ。
上がる。
【16%】
「……っ!」
俺は拳を握った。
そして。
【タイムパラドックス発生リスク:17%】
「…………」
止まった。
十七%。
五%も上がった。
「……そうか」
俺は小さく呟いた。
歴史を変えた。
本当に。
変えてしまった。
◇
門倉が俺を見た。
「先生?」
「……何?」
「どうされました?」
「…………」
俺は海を見た。
さっきまで。
人が溺れていた海。
今は。
波が静かになり始めている。
「……いや」
俺は首を振った。
「何でもない」
門倉が少し心配そうにする。
でも。
俺は笑った。
「……助かってよかったな」
「はい」
「本当に」
俺は頷いた。
「……よかった」
◇
夜。
宿に戻った。
俺は布団に座っていた。
誰もいない部屋。
静かだ。
目の前には。
あのウインドウ。
【タイムパラドックス発生リスク:17%】
「…………」
俺は数字を見つめた。
十七%。
歴史を変えた代償。
これが。
どれほど大きなものなのか。
俺には分からない。
でも。
あの男が助かった。
家族が泣いて喜んでいた。
あの光景は。
間違いなく。
本物だった。
「…………」
俺は目を閉じた。
そして。
小さく呟いた。
「……俺は、間違ってないよな?」
ウインドウは。
何も答えなかった。
ただ。
十七%という数字だけが。
静かに浮かんでいた。




