第83話「海が荒れているんですけど!?」
朝。
俺は決意していた。
もうシステムは見ない。
絶対に見ない。
何があっても見ない。
第二次測量進捗率、十五%。
日本地図完成まで、三%。
「…………」
思い出しただけで胃が痛い。
昨日の俺は馬鹿だった。
知らなくてもいいことを知ってしまった。
世の中には。
知らない方が幸せなことがある。
例えば。
嫁のへそくりの隠し場所。
上司の本音。
そして。
日本地図完成までの残り九十七%。
「……忘れよう」
俺は布団から起き上がった。
「先生!」
廊下から門倉の声。
「本日は船を使う予定ですぞ!」
「…………」
俺は動きを止めた。
船。
今。
船って言った?
「……門倉」
「はい!」
「船って、あの船?」
「ほかにどのような船が?」
「……地面を走る船とか」
「ございませぬな」
「…………」
俺は布団に戻った。
本日の営業は終了しました。
◇
朝食。
俺は門倉を問い詰めていた。
「ちょっと待て!」
「はい」
「船に乗るなんて聞いてないぞ!」
「昨日、お伝えしましたが」
「……え?」
「明日は海路の利用も検討すると」
「…………」
思い出した。
昨日。
進捗率三%を見た直後。
門倉が何か話していた。
でも。
俺の頭の中は。
三%。
三%。
三%。
それどころじゃなかった。
「……聞いてない」
「お伝えしました」
「俺の耳には届いてない!」
「先生の耳は、都合の悪い話だけ聞こえなくなるのですか?」
「便利だろ?」
「不便です」
「即答するな!」
◇
俺たちは海岸へ向かった。
道を下る。
潮の匂いが強くなる。
波の音が聞こえてくる。
――ザザァァァン!
「…………」
俺は足を止めた。
波。
結構大きい。
いや。
結構どころじゃない。
――ドッパァァァン!!
岩にぶつかった波が砕けた。
白い飛沫が舞い上がる。
「…………」
俺は門倉を見た。
「……なあ」
「はい」
「海、怒ってない?」
「……怒る?」
「めちゃくちゃ機嫌悪そうなんだけど」
門倉が海を見た。
「確かに、少々荒れておりますな」
「少々!?」
――ドッパァァァン!!
俺は波を指さした。
「今の見た!?」
「はい」
「岩より高く上がったぞ!?」
「そうですな」
「これを少々って言うなら、大荒れって何!? 海がひっくり返るの!?」
◇
浜に着いた。
船頭らしき男が、海を眺めていた。
腕を組んでいる。
眉間にしわ。
明らかに難しい顔だ。
俺は近づいた。
「……すみません」
「へい」
「今日、船は出せます?」
男は海を見た。
「…………」
沈黙。
長い。
ものすごく長い。
「……風次第ですな」
「…………」
俺は門倉を振り返った。
「聞いた!?」
「はい」
「風次第だって!」
「そうですな」
「つまり、危ないんだよ!」
「まだ決まったわけでは」
「船頭さんが難しい顔してる時点で、もう答え出てるだろ!」
船頭が苦笑した。
「旦那、船が苦手で?」
「得意な人間が、あの波見て喜ぶと思う!?」
「漁師なら喜ぶ者もおりますが」
「漁師と一緒にするな! 俺は元会社員だぞ!」
「……かいしゃいん?」
「……いや、何でもない」
危ない。
また変なことを口走った。
◇
船頭は海を見つめたまま言った。
「今すぐ出るのは勧めませんな」
「ほらぁぁぁ!!」
俺は両手を上げた。
「専門家の意見!」
門倉が頷く。
「では、しばらく様子を見ましょう」
「そうしよう!」
「風が落ち着けば出船できるかもしれませぬ」
「…………」
俺は固まった。
「……まだ乗る気?」
「安全が確認できれば」
「…………」
しぶとい。
門倉の予定表並みにしぶとい。
俺は船頭に近づいた。
そして。
小声で尋ねた。
「……なあ、船頭さん」
「へい?」
「今日は絶対に出ないって言ってくれない?」
「…………」
男が俺を見た。
「旦那」
「はい」
「海は嘘をつくと命を取りますぜ」
「…………」
俺は黙った。
そして。
深く頷いた。
「……名言だ」
「恐れ入ります」
「今の言葉、門倉にも聞かせて!」
「先生、聞こえておりますぞ」
「…………」
◇
しばらく浜で待つことになった。
俺は岩に腰を下ろした。
波を眺める。
――ザザァァン。
――ドッパァァン!
怖い。
でも。
見ているだけなら迫力がある。
「……すげえな」
思わず呟いた。
郡蔵が隣に来た。
「海の力は大きいですな」
「本当だよ」
「この海岸も、長い年月をかけて形づくられたのでしょうな」
「……そうか」
俺は岩場を見た。
削られた岩。
入り組んだ海岸線。
白い波。
地図では。
ただの線になる。
でも。
実際は。
こんなに激しい。
「…………」
俺は少し考えた。
「……なあ、郡蔵」
「はい」
「こういう場所って、船から測る方がいいの?」
「陸からでは見通しにくい場所もございますからな」
「……なるほど」
だから船を使う。
歩きたくない俺のためじゃない。
測量のためだ。
「…………」
分かってる。
分かってるけど。
船酔いだけは勘弁してほしい。
◇
昼前。
風は弱まらなかった。
むしろ。
少し強くなった気がする。
――ゴォォォ!
俺の髪が乱れる。
「……門倉」
「はい」
「これ、無理だろ?」
門倉は船頭に目を向けた。
船頭が首を横に振る。
「今日はやめた方がよろしい」
「…………」
俺は拳を握った。
よし。
勝った。
いや。
勝負じゃないけど。
とにかく。
船に乗らなくて済む!
「よっしゃぁぁぁ!!」
俺は思わず叫んだ。
全員が振り返る。
「先生?」
「いや!」
俺は慌てて言い直した。
「安全第一!」
門倉が頷く。
「その通りですな」
「だろ!?」
「では、予定を変更しましょう」
「おう!」
「陸路で進みます」
「…………」
俺は固まった。
「……え?」
「船が使えぬ以上、陸から進める場所を測量いたします」
「…………」
俺は海を見た。
そして。
山を見た。
海。
山。
海。
山。
「……門倉」
「はい」
「陸路って、あの山?」
「そうですな」
「…………」
俺は船頭を見た。
「……船頭さん」
「へい」
「さっきの船、もう一回考えてもらっていい?」
「駄目です」
「ですよねぇぇぇ!!」
◇
午後。
俺たちは陸路を進んだ。
坂。
坂。
また坂。
「…………」
俺は息を切らしていた。
「はぁ……はぁ……」
船に乗らずに済んだ。
それはいい。
でも。
山道。
これはこれで地獄だ。
「……門倉」
「はい」
「今日の予定、どうなってる?」
「変更しております」
「……見せて」
門倉が懐から紙を取り出した。
――バサッ。
「…………」
俺は固まった。
昨日見た予定表。
あれと同じくらい長い。
いや。
むしろ。
増えてない?
「……なあ」
「はい」
「船がなくなったのに、なんで予定が増えてるの?」
「代わりに陸路で確認する箇所を加えました」
「…………」
俺は紙を見た。
船での移動。
中止。
その下。
陸路測量。
追加。
地形確認。
追加。
道の状態確認。
追加。
「…………」
俺は門倉を見た。
「……お前さ」
「はい」
「予定表に空白ができると死ぬ病気なの?」
「そのような病は存じませぬ」
「俺は今、予定表を見ると死にそうなんだけど!」
◇
そのとき。
秀蔵が足を滑らせた。
――ズルッ!
「うわっ!」
「秀蔵!」
俺は反射的に手を伸ばした。
秀蔵の腕をつかむ。
――ガシッ!
「おっと!」
二人で踏ん張った。
何とか転ばずに済んだ。
「……大丈夫か?」
「はい! ありがとうございます!」
俺は足元を見た。
濡れた土。
滑りやすい。
昨日の雨が残っている。
「…………」
危ない。
船だけじゃない。
陸も危ない。
俺は門倉を呼んだ。
「門倉!」
「はい!」
「この道、やめよう」
「……先生?」
「滑る。荷物を持ってたら危ない」
門倉が地面を確認する。
郡蔵も頷いた。
「確かに、この先も足場が悪そうですな」
宗平が言う。
「遠回りになりますが、別の道を探した方がよろしいかと」
「……だよな」
俺は秀蔵を見た。
「怪我してからじゃ遅いし」
秀蔵が少し驚いた顔をした。
「先生……」
「全員で帰るって決めただろ?」
「……はい!」
門倉が頷いた。
「では、道を改めましょう」
◇
夕方。
俺たちは無事に宿へ到着した。
予定していた場所までは進めなかった。
でも。
誰も怪我をしていない。
「……よし」
俺は畳に座った。
今日は。
これで十分だ。
門倉が記録を広げる。
「先生。本日の行程ですが」
「……うん」
「予定より遅れております」
「……そうだな」
「明日以降、調整が必要です」
「…………」
俺は少し考えた。
そして。
「……無理はしないでおこう」
門倉が顔を上げる。
「先生?」
「船も山道も、危ないときは危ない」
「はい」
「遅れた分を取り戻そうとして、誰かが怪我したら意味ないだろ?」
「…………」
門倉が笑った。
「おっしゃる通りです」
俺も笑った。
「だろ?」
なんだ。
今日は少し先生らしいことを言えた気がする。
……まあ。
船に乗りたくなかったのも本当だけど。
◇
夜。
俺は布団に入った。
今日は疲れた。
でも。
少し安心していた。
誰も怪我をしなかった。
船にも乗らなかった。
それだけで十分だ。
「……ふぅ」
目を閉じる。
そのとき。
門倉が声をかけてきた。
「先生」
「……何?」
「明日の予定についてですが」
「…………」
来た。
予定表だ。
俺は覚悟した。
でも。
門倉の言葉は予想外だった。
「明日は天候と道の状態を見て、無理のない行程にいたしましょう」
「…………」
俺は目を開けた。
「……本当?」
「はい」
「無理しない?」
「もちろんです」
「…………」
俺は笑った。
「……門倉」
「はい」
「お前、成長したな」
「先生に教わりましたので」
「……ふふ」
いいこと言うじゃん。
俺は布団をかぶった。
そして。
安心して眠ろうとした。
すると。
「なお」
門倉が続けた。
「明朝は道の状態を確認するため、少々早めに出立いたします」
「…………」
俺は布団から顔を出した。
「……何時?」
「夜明け前には準備を始めたいところですな」
「…………」
俺はゆっくり起き上がった。
そして。
門倉を見た。
「……なあ」
「はい」
「無理しないって言ったよな?」
「はい」
「早起きは無理に入らないの?」
「先生なら大丈夫です」
「…………」
俺は天井を見上げた。
そして。
心の底から叫んだ。
「海が荒れてるのは分かったけど、俺の生活まで荒らすなよぉぉぉ!!」




