第80話「俺の計算が合っているはずがない」
朝。
俺は布団の中で考えていた。
昨日。
温泉に入れなかった。
正確には。
温泉まで歩くのが嫌で、入らなかった。
「…………」
何かがおかしい。
温泉に入りたい。
でも歩きたくない。
歩かなければ温泉に入れない。
つまり。
「……詰んでる」
「先生!」
戸の向こうから門倉の声。
「お目覚めですか!」
「……寝てる」
「お返事が聞こえましたぞ!」
「寝言!」
「本日もよい天気です!」
「……最悪だ」
「測量日和ですな!」
「それが最悪なんだよ!」
◇
朝食を終えた。
測量の準備が進む。
郡蔵が間縄を確認する。
宗平が記録帳をまとめる。
秀蔵と慶助が荷物を整える。
門倉が今日の行程を確認している。
そして。
俺は。
「…………」
昨日の記録を見ていた。
いや。
見せられていた。
「先生」
門倉が言った。
「昨日の測量記録ですが」
「……うん」
「一か所、数字が合いませぬ」
「…………」
俺は顔を上げた。
「……数字?」
「はい」
「何の?」
「距離と方角から求めた位置です」
「…………」
嫌な予感。
ものすごく嫌な予感。
「……それって」
「はい」
「測り直し?」
「その可能性がございます」
「…………」
俺は天井を見上げた。
神様。
昨日は温泉を諦めました。
なのに。
今日は測り直しですか?
俺、何か悪いことしました?
……いや。
結構してるかもしれないけど。
◇
門倉が記録帳を広げた。
「こちらをご覧ください」
「……はい」
数字。
数字。
数字。
また数字。
「…………」
俺は目を細めた。
「……門倉」
「はい」
「これ、全部数字だな」
「記録ですからな」
「……そうだね」
当たり前だ。
当たり前なんだけど。
俺は数字が苦手だ。
いや。
現代でも仕事で数字は使っていた。
売上。
在庫。
納期。
予算。
でも。
これは違う。
距離。
方角。
測量。
しかも。
間違えたら。
地図がずれる。
「……責任重くない?」
「先生が総責任者ですからな」
「言わないで!」
◇
郡蔵が別の記録を持ってきた。
「先生。こちらが前日の数字です」
「……うん」
「そして、こちらが昨日の数字」
「……うん」
「つなぎ合わせると、位置が少々合いませぬ」
「…………」
俺は紙を見た。
線が引かれている。
曲がっている。
伸びている。
そして。
最後のところで。
微妙にずれている。
「……あれ?」
俺は顔を近づけた。
「これ、なんでつながらないの?」
門倉が頷いた。
「そこを確かめたいのです」
「…………」
俺は紙を見た。
そして。
一つの可能性に気づいた。
「……なあ」
「はい」
「これってさ」
俺は記録の一か所を指さした。
「どっかの数字を間違えたら、全部ずれる?」
「その通りです」
「…………」
怖い。
ものすごく怖い。
たった一つの間違いで。
その先が全部ずれる。
「……地図って怖いな」
「正確さが大切ですからな」
「……そうだね」
◇
俺は記録を見比べた。
距離。
方角。
距離。
方角。
「…………」
分からん。
まったく分からん。
いや。
分かる部分もある。
でも。
全部は無理。
「……門倉」
「はい」
「一つ提案がある」
「何でしょう?」
「俺の計算が合っているはずがない」
「…………」
門倉が黙った。
郡蔵も黙った。
宗平までこちらを見た。
「先生?」
門倉がゆっくり言った。
「何をおっしゃっているのです?」
「だってさ!」
俺は記録を指さした。
「俺だぞ!?」
「はい」
「現代では普通の会社員だったんだぞ!?」
「……げんだい?」
しまった。
「いや!」
俺は慌てて言い直した。
「普通の人間だったんだぞ!」
「先生は測量を長年研究されておりますが」
「…………」
そうだった。
伊能忠敬。
この身体の持ち主。
本来なら。
測量の達人。
でも。
中身は俺。
澤田浩哉。
四十歳。
ただの会社員。
「……無理だって」
俺は小さく呟いた。
◇
そのとき。
宗平が声をかけてきた。
「先生」
「……何?」
「まずは一つずつ確認いたしましょう」
「……一つずつ?」
「はい」
宗平が記録を指さした。
「距離の記録」
「うん」
「方角の記録」
「うん」
「そして、図面」
「うん」
「それぞれを別々に確かめれば、どこに違いがあるか分かるかもしれませぬ」
「…………」
俺は宗平を見た。
「……なるほど」
全部を一気に理解しようとするから。
頭が混乱する。
だったら。
一つずつ。
「……よし」
俺は頷いた。
「やってみよう」
◇
確認が始まった。
郡蔵が距離を読み上げる。
宗平が記録を照合する。
門倉が方角を確認する。
俺は図面を見る。
「……ここは合ってる」
「はい」
「ここも」
「その通りです」
「じゃあ次」
「はい」
少しずつ進む。
数字。
数字。
数字。
でも。
さっきよりは分かる。
「……あれ?」
俺は手を止めた。
「門倉」
「はい」
「ここ、なんか変じゃない?」
門倉が覗き込む。
「どちらです?」
「この数字」
俺は一か所を指さした。
「前の記録と比べると、急に変わってない?」
「…………」
門倉が確認する。
郡蔵も近づいてきた。
「……確かに」
「先生のおっしゃる通りですな」
「え?」
俺は驚いた。
「本当に?」
「はい」
宗平が別の記録を確認する。
「こちらの控えでは、異なる数字が記されております」
「…………」
俺は二つの紙を見た。
数字が違う。
ほんの少し。
でも。
確かに違う。
「……これ?」
門倉が頷いた。
「転記の際に誤った可能性がございます」
「…………」
俺は固まった。
「……つまり?」
「元の記録を確認すれば、解決するかもしれませぬ」
「…………」
測り直し。
しなくていい?
「……門倉」
「はい」
「もう一回聞くぞ」
「何でしょう?」
「歩かなくていい?」
「まずは記録の確認ですな」
「…………」
俺は両手を上げた。
「よっしゃぁぁぁ!!」
◇
確認を続けた。
元の記録。
控え。
図面。
一つずつ照らし合わせる。
そして。
ついに。
「先生」
郡蔵が顔を上げた。
「原因が分かりました」
「……本当!?」
「はい」
「どこ!?」
「こちらの数字です」
俺は覗き込んだ。
一つの数字。
書き写すときに、違う数字になっていた。
「…………」
たったこれだけ?
これだけで。
あんなにずれていたのか?
「……怖っ」
思わず声が出た。
門倉が笑う。
「ですから、記録の確認が大切なのです」
「……そうだね」
俺は図面を見た。
修正された線。
今度は。
ちゃんとつながっている。
「……おお」
思わず笑った。
「つながった!」
「はい!」
郡蔵も笑った。
宗平も頷いた。
秀蔵と慶助まで嬉しそうだ。
「……すげえな」
俺は図面を見つめた。
昨日まで。
ただの数字にしか見えなかった。
でも。
その一つ一つが。
地図の形を決めている。
「……なるほどな」
少しだけ。
分かった気がした。
◇
昼。
俺は道端に座っていた。
測量は予定通り進んでいる。
結局。
測り直しは必要なかった。
「……助かったぁぁぁ」
俺は水を飲んだ。
うまい。
最高だ。
門倉が隣に座る。
「先生。本日はよい働きでしたな」
「……そう?」
「はい。先生が違いにお気づきにならなければ、確認に時間がかかったかもしれませぬ」
「…………」
俺は少し照れた。
「……まあな」
「さすが先生です」
「……だろ?」
ちょっと嬉しい。
いや。
かなり嬉しい。
でも。
調子に乗ると仕事が増える。
それは学習した。
だから。
「……今日はもう褒めなくていい」
「何故です?」
「嫌な予感がするから」
「…………」
門倉が笑った。
◇
夕方。
宿に到着した。
俺は畳に座り込んだ。
「はぁぁぁ……」
疲れた。
今日も疲れた。
でも。
今日は少し違う。
歩くだけじゃなく。
考えた。
数字を見た。
間違いを見つけた。
そして。
地図が正しくつながった。
「……悪くないな」
思わず呟いた。
そのとき。
門倉がやってきた。
「先生」
「……何?」
「本日の記録を整理いたしましょう」
「…………」
俺は門倉を見た。
「……また?」
「はい」
「今日、朝から数字見てたよな?」
「はい」
「昼も測量したよな?」
「はい」
「夕方まで歩いたよな?」
「はい」
「…………」
俺は天井を見上げた。
そして。
静かに言った。
「……門倉」
「はい」
「俺、今日すごく頑張ったと思うんだ」
「その通りです」
「じゃあ」
「はい」
「休んでもよくない?」
「記録を終えてからですな」
「…………」
俺は布団に倒れ込んだ。
やっぱり。
やっぱりそうなるのか。
俺は布団を頭までかぶった。
そして。
心の底から叫んだ。
「計算が合ったのに、なんで俺の休み時間だけ合わないんだよぉぉぉ!!」
今回もお読みいただきありがとうございます!
歩くのも嫌、計算も苦手。
そんな浩哉が、まさかの測量記録の間違いを発見!
少しずつ伊能忠敬らしくなってきた……と思いきや、やっぱり休みたい気持ちは変わりません(笑)。
でも、仲間と力を合わせて一つの地図を完成させていく楽しさには、少しずつ気づき始めているようです。
次回も伊豆での測量は続きます!
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次回もよろしくお願いします!




