第79話「温泉があるなら話は別だ」
朝。
俺は目を覚ました。
「…………」
足が痛い。
腰も痛い。
肩も痛い。
いつもの朝だ。
もはや痛くない場所を探す方が難しい。
「……帰りたい」
布団の中で呟いた。
でも。
今日は少しだけ希望がある。
伊豆。
そう。
伊豆だ。
温泉。
昨日から俺の頭の中は、それでいっぱいだった。
「……温泉」
俺は天井を見上げた。
温かい湯。
肩まで浸かる。
疲れた身体がほぐれていく。
ああ。
想像しただけで幸せだ。
「……よし!」
俺は布団を跳ね上げた。
「今日こそ温泉だぁぁぁ!!」
「先生!」
戸の向こうから門倉の声。
「お目覚めですな!」
「おう!」
「本日は随分とお元気ですな!」
「温泉が待ってるからな!」
「…………」
沈黙。
嫌な予感。
「先生」
「何?」
「本日も測量でございます」
「知ってるよ!」
◇
朝食を終えた。
出発の準備が進む。
郡蔵が測量道具を確認する。
宗平が記録帳をまとめる。
秀蔵と慶助が荷物を整える。
門倉が行程を確認する。
そして。
俺は。
「…………」
地図を見ていた。
伊豆半島。
大きい。
昨日も思ったけど。
やっぱり大きい。
しかも。
海岸線が複雑だ。
曲がっている。
入り組んでいる。
山まである。
「……なあ、門倉」
「はい」
「この辺って温泉あるよな?」
「伊豆には湯の湧く土地がございますな」
「だよな!」
俺は笑った。
「じゃあさ!」
「はい」
「今日は温泉のあるところまで行こう!」
門倉が地図を見た。
「本日の行程とは異なりますな」
「…………」
「測量すべき場所がございます」
「……ちょっとくらい寄り道しても」
「先生」
「はい」
「測量のために参っております」
「…………」
知ってる。
知ってるけど。
温泉くらい入らせてくれよ!
◇
出発した。
道を歩く。
海が見える。
山が見える。
坂がある。
また坂がある。
「…………」
俺は足を止めた。
「門倉」
「はい」
「伊豆ってさ」
「はい」
「温泉があるんだよな?」
「ございます」
「じゃあ、なんでこんなに坂があるの?」
「……は?」
「温泉地って、もっとこう」
俺は手を広げた。
「のんびり歩けるところじゃないの?」
門倉が周囲を見た。
「土地によるでしょうな」
「…………」
正論。
また正論。
俺は空を見上げた。
神様。
温泉を作るなら。
そこまでの道も平らにしてください。
お願いします。
◇
しばらく歩くと。
道端で休んでいた旅人たちの会話が聞こえてきた。
「いやぁ、あの湯はよかった」
「身体が軽くなるようだったな」
「また入りたいものだ」
「…………」
俺は立ち止まった。
今。
なんて?
湯?
身体が軽くなる?
「……すみません!」
俺は思わず声をかけた。
旅人たちが振り返る。
「何でしょう?」
「今、温泉の話してました?」
「おお。湯治の帰りでしてな」
「湯治!」
俺の目が輝いた。
ある。
やっぱりある。
温泉だ。
「どこですか!?」
「え?」
「その湯! どこにあるんですか!?」
旅人が少し驚いた顔をした。
「この先の道を――」
「先生!」
門倉の声。
来た。
来やがった。
「何をなさっているのです?」
「温泉の場所を聞いてる!」
「本日の行程とは関係ございませんぞ」
「関係ある!」
「どのように?」
「俺の健康!」
「…………」
門倉が黙った。
よし。
今だ。
「考えてみろ!」
俺は胸を張った。
「測量って体力勝負だろ?」
「そうですな」
「疲れが溜まるだろ?」
「はい」
「だったら温泉!」
「…………」
「身体を休める!」
「…………」
「明日から元気に歩ける!」
「…………」
完璧。
完璧な理論だ。
これ以上ないくらい正しい。
門倉が腕を組んだ。
「なるほど」
「だろ!?」
「確かに、身体を休めることは大切ですな」
「そうそう!」
「ですが」
「……ですが?」
「本日の測量を終えてから考えましょう」
「…………」
俺は膝から崩れ落ちた。
「今じゃ駄目なのかよぉぉぉ!!」
◇
昼。
休憩になった。
俺は道端に腰を下ろした。
「はぁぁぁ……」
足を伸ばす。
気持ちいい。
でも。
温泉ならもっと気持ちいいはずだ。
「……温泉」
俺は呟いた。
「先生」
宗平が水を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
水を飲む。
うまい。
でも。
温泉には勝てない。
「……なあ、宗平」
「はい」
「温泉って疲れにいいと思わない?」
「そうですな」
「だろ!?」
「湯に浸かれば、身体も温まりましょう」
「そうそう!」
俺は勢いよく頷いた。
「じゃあさ!」
「はい」
「今日、温泉行かない?」
宗平が少し考えた。
「先生。門倉殿には?」
「…………」
俺は目を逸らした。
「……まだ」
「では、先にご相談を」
「相談したら駄目って言われるんだよ!」
◇
午後。
測量が再開した。
距離を測る。
方角を確認する。
記録する。
進む。
また測る。
また確認する。
また記録する。
「…………」
俺は歩きながら考えていた。
温泉。
温泉。
温泉。
頭の中が温泉でいっぱいだ。
そのとき。
前を歩いていた秀蔵が少し足を止めた。
「……ん?」
俺は顔を上げた。
「どうした?」
「いえ、少々足が」
秀蔵が笑った。
「大したことではございません」
「…………」
俺は秀蔵の足元を見た。
草鞋。
足首。
歩き方。
少しだけ。
いつもと違う。
「……痛いの?」
「少々ですが」
「……そう」
俺は門倉を呼んだ。
「門倉!」
「はい!」
「ちょっと休憩!」
「先生。先ほど休んだばかりですが」
「俺じゃない!」
「……え?」
俺は秀蔵を指さした。
「足、痛いみたいだから」
門倉が秀蔵を見る。
「大丈夫ですか?」
「はい。少し休めば」
「…………」
門倉は頷いた。
「では、ここで休みましょう」
「おお!」
俺は思わず笑った。
「そうしよう!」
……いや。
別に休みたかったわけじゃないぞ?
本当に。
秀蔵のためだからな?
◇
休憩中。
俺は秀蔵の隣に座った。
「……なあ」
「はい」
「無理するなよ」
「ありがとうございます」
「俺たち、まだまだ歩くんだから」
「はい」
「今から足を痛めたら大変だろ?」
「おっしゃる通りです」
俺は少し考えた。
そして。
「……やっぱり温泉だな」
「……え?」
「温泉!」
俺は立ち上がった。
「身体を休めるには温泉だ!」
門倉が振り返る。
「先生?」
「ほら! 秀蔵だって足が痛いって!」
「…………」
「だから温泉!」
門倉がため息をついた。
「先生」
「何?」
「秀蔵殿の足を休めることと、温泉へ寄り道することは別です」
「…………」
「まずは無理のない行程を考えましょう」
「……そうだね」
正論。
また正論。
でも。
今回は少し違う。
門倉の言うことも分かる。
温泉に行きたいのは俺だ。
秀蔵の足が心配なのも本当だ。
でも。
それを一緒にするのは。
ちょっと違うかもしれない。
「……分かった」
俺は頷いた。
「今日は無理しないようにしよう」
門倉が笑った。
「承知しました」
◇
夕方。
宿に到着した。
俺は畳に座り込んだ。
「はぁぁぁ……」
疲れた。
今日も疲れた。
結局。
温泉には入れなかった。
最悪だ。
……いや。
今日は少しだけよかったこともある。
秀蔵の足は、休憩を挟んだことで落ち着いたらしい。
よかった。
本当によかった。
「……まあ、いいか」
俺は足を伸ばした。
そのとき。
慶助が部屋に入ってきた。
「先生」
「……何?」
「宿の者から聞いたのですが」
「うん」
「近くに湯の湧く場所があるそうです」
「…………」
俺は固まった。
「……湯?」
「はい」
「温かい?」
「そのようです」
「入れる?」
「詳しくは確かめておりませぬが」
「…………」
俺はゆっくり立ち上がった。
「門倉ぁぁぁ!!」
「はい!?」
「温泉だ!!」
門倉が振り返る。
「先生?」
「近くに温泉があるって!」
「……ほう」
「行こう!」
「本日の記録整理がございます」
「…………」
またか。
またそれか。
「じゃあ!」
俺は勢いよく言った。
「記録整理、今すぐ終わらせよう!」
「…………」
門倉が目を丸くした。
郡蔵も顔を上げた。
宗平まで驚いている。
「先生」
門倉がゆっくり言った。
「自ら仕事を急がれるとは」
「温泉のためだ!」
「素晴らしい意欲ですな!」
「理由はどうでもいいだろ!」
◇
その夜。
俺は必死に記録を確認した。
距離。
方角。
図面。
数字。
数字。
数字。
「……よし!」
俺は筆を置いた。
「終わった!」
門倉が記録を確認する。
「確かに」
「じゃあ!」
俺は立ち上がった。
「温泉!」
そのとき。
慶助が申し訳なさそうに口を開いた。
「先生」
「何?」
「先ほど、宿の者に改めて尋ねたのですが」
「うん!」
「湯の湧く場所までは、少々歩くそうです」
「…………」
俺は固まった。
「……歩く?」
「はい」
「どれくらい?」
「詳しくは分かりませぬが、山道を進む必要があるようで」
「…………」
山道。
歩く。
夜。
疲れた身体。
「……門倉」
「はい」
「温泉ってさ」
「はい」
「疲れを取るために行くんだよな?」
「そうですな」
「なのに」
「はい」
「温泉に入るために疲れるって、おかしくない?」
「…………」
門倉が笑った。
「確かに、一理ございますな」
「だろ!?」
俺は布団を見た。
柔らかい。
温かい。
そして。
歩かなくていい。
「…………」
俺はゆっくり布団に倒れ込んだ。
「……今日は寝る」
「よろしいのですか?」
「うん」
「温泉は?」
「……また今度」
門倉が笑う。
「先生らしいですな」
俺は布団を頭までかぶった。
そして。
心の底から叫んだ。
「温泉に入るために歩くくらいなら、もう布団が温泉でいいよぉぉぉ!!」




