第76話「先生、そこは崖です」
朝。
俺は地面を踏みしめていた。
右足。
左足。
もう一度、右足。
「…………」
揺れない。
素晴らしい。
大地って最高だ。
「先生?」
門倉が不思議そうに俺を見た。
「先ほどから何をなさっているのです?」
「地面のありがたみを感じてる」
「……はあ」
「お前には分からないだろうな」
「何がです?」
「昨日、俺がどれだけ船に裏切られたか」
「船は何もしておりませぬが」
「揺れた!」
「船ですからな」
「知ってるよ!」
昨日の船酔い。
思い出しただけで気持ち悪い。
もう船は嫌だ。
絶対に乗らない。
「先生。本日は陸路で測量を進めます」
「おお!」
俺は思わず笑った。
「いいじゃん!」
「海岸沿いを進みます」
「うん!」
「少々険しい場所もございますが」
「うん!」
「足元には十分お気をつけください」
「うん!」
…………。
待て。
今。
なんて?
「……険しい?」
「はい」
「どのくらい?」
「少々です」
「…………」
俺は前方を見た。
岩場。
細い道。
そして。
その向こう。
海。
「……門倉」
「はい」
「あれ、道?」
「そうですな」
「……本当に?」
「はい」
「……俺には崖に見えるんだけど」
「崖沿いの道ですからな」
「崖じゃん!!」
◇
測量が始まった。
海岸沿いの細い道。
片側は岩壁。
反対側は海。
波が岩にぶつかる。
ザザァァァン!
「…………」
俺は足を止めた。
「門倉」
「はい」
「一つ聞いていい?」
「何でしょう?」
「ここ、落ちたらどうなる?」
門倉が海を見た。
「危険ですな」
「だよね!?」
「ですので、お気をつけください」
「それだけ!?」
俺は足元を見た。
細い。
狭い。
しかも。
石が転がっている。
「……これ、絶対危ないだろ」
「先生。無理に進まず、足元をご確認ください」
「言われなくても!」
俺は慎重に一歩を踏み出した。
ざりっ。
小石が動く。
「うおっ!?」
俺は岩壁にしがみついた。
「先生!?」
「今、動いた!」
「小石ですな」
「知ってるよ!」
◇
しばらく進んだ。
測量隊は慎重に道を進む。
郡蔵が間縄を扱う。
宗平が記録を取る。
秀蔵と慶助が荷物を運ぶ。
門倉が前方を確認する。
そして。
俺は。
岩壁に張りついていた。
「…………」
右手。
岩。
左手。
岩。
足元。
崖。
「……門倉」
「はい」
「俺、今ヤモリになってる」
「……やもり?」
「壁に張りついてるだろ?」
「確かに」
「人間の歩き方じゃないよな?」
「安全第一ですからな」
「そこは否定してくれよ!」
◇
少し開けた場所に出た。
俺は大きく息を吐いた。
「はぁぁぁ……」
助かった。
生きてる。
地面が広い。
最高だ。
「先生」
門倉が海の方を指さした。
「こちらから岬の形がよく見えます」
「……そう?」
俺は顔を上げた。
確かに。
岩が海へ突き出している。
その向こうに、小さな入り江が見える。
「……へえ」
昨日、船から見た景色とは違う。
陸から見ると。
岬の形がよく分かる。
「先生。あちらの方角をご確認いただけますか?」
「おう」
俺は少し前に出た。
海が見える。
岬が見える。
入り江も見える。
「……なるほど」
俺は身を乗り出した。
「こっちから見ると、あの岩の向こうが――」
「先生!」
門倉の声。
「そこは崖です!」
「……え?」
足元を見る。
地面がない。
いや。
正確には。
あと一歩で。
ない。
「…………」
俺は固まった。
「……うわ」
足が。
動かない。
頭の中が真っ白になる。
「先生! 下がってください!」
「……分かってる」
分かってるけど。
動けない。
「先生!」
門倉が近づく。
その瞬間。
ざりっ。
足元の小石が崩れた。
「うおおっ!?」
身体が傾く。
海が見えた。
青い。
綺麗だ。
……いや。
今そんなこと考えてる場合じゃない!
「先生!!」
ぐいっ!
腕を掴まれた。
門倉だ。
「こちらへ!」
「うわぁぁぁ!!」
俺は引き戻された。
どさっ!
尻もちをつく。
「…………」
心臓が。
ものすごい勢いで鳴っている。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「……生きてる?」
「生きております!」
「……本当に?」
「はい!」
俺は自分の手を見た。
足を見た。
身体を触った。
ある。
全部ある。
「……よかったぁぁぁ!!」
◇
門倉が膝をついた。
「先生! お怪我は!?」
「……ない」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります!」
郡蔵たちも駆け寄ってきた。
「先生!」
「大丈夫ですか!」
「どこか痛みますか!」
「…………」
全員。
真剣な顔だ。
俺は少し驚いた。
いつも。
俺が休みたいと言うと笑う。
歩きたくないと言うと呆れる。
でも。
今は。
誰も笑っていない。
「……ごめん」
思わず口から出た。
門倉が顔を上げる。
「先生?」
「ちょっと、調子に乗った」
「…………」
「景色がよく見えたからさ」
俺は海を見た。
さっきまで綺麗だと思っていた景色。
今は。
少し怖い。
「……悪かった」
門倉はしばらく黙っていた。
そして。
大きく息を吐いた。
「……ご無事で何よりです」
「うん」
「ですが」
「……はい」
「次からは、必ず足元を確認してください」
「……はい」
「先生に何かあれば、測量どころではございませぬ」
「…………」
俺は門倉を見た。
いつも。
うるさい。
厳しい。
休ませてくれない。
でも。
こういうとき。
真っ先に助けてくれる。
「……ありがとう」
俺は小さく言った。
門倉が少し笑った。
「当然のことです」
◇
しばらく休憩した。
俺は岩に腰を下ろしていた。
足が。
まだ少し震えている。
「…………」
怖かった。
本当に怖かった。
もし。
あのまま落ちていたら。
どうなっていたんだろう。
考えたくない。
そのとき。
目の前に文字が浮かんだ。
【史実情報】
第二次測量進行中。
【タイムパラドックス発生リスク】
数字が表示されている。
「…………」
俺はそれを見つめた。
史実通りに進むこと。
それが大事なのは分かっている。
でも。
俺が怪我をしたら。
仲間が怪我をしたら。
それどころじゃない。
「……無事に帰らないとな」
思わず呟いた。
「先生?」
隣にいた宗平が顔を上げる。
「何か?」
「いや」
俺は仲間たちを見た。
門倉。
郡蔵。
宗平。
秀蔵。
慶助。
みんな。
ここにいる。
「……全員で帰ろうな」
宗平が少し驚いた顔をした。
そして。
笑った。
「もちろんです」
◇
午後。
測量は続いた。
ただし。
危険な場所では無理をしない。
安全な場所から方角を確認する。
必要なら回り道をする。
そして。
足元を確認する。
何度も。
何度も。
「先生」
門倉が声をかけた。
「こちらへ」
「……おう」
「足元にお気をつけください」
「分かってる」
「そちらは滑りやすいですぞ」
「分かってるって!」
「その石は踏まぬ方がよろしい」
「……門倉」
「はい」
「お前、さっきから俺の足元ばっかり見てない?」
「もちろんです」
「…………」
「先生がまた崖へ向かわぬように」
「俺は子供か!」
「先ほどのことがございますので」
「……それ言われると何も返せない」
◇
夕方。
宿に到着した。
俺は畳に座り込んだ。
「はぁぁぁ……」
疲れた。
今日も疲れた。
でも。
今日はそれ以上に。
怖かった。
「……生きて帰ってきた」
俺は足を伸ばした。
動く。
ちゃんと動く。
地面がある。
壁もある。
崖はない。
最高だ。
そのとき。
門倉がやってきた。
「先生」
「……何?」
「明日の行程についてですが」
「……はい」
「本日よりは歩きやすい道を選ぶ予定です」
「おお!」
俺は顔を上げた。
「本当!?」
「はい」
「崖は?」
「なるべく避けます」
「岩場は?」
「必要に応じて」
「海は?」
「海岸の測量ですからな」
「…………」
そうだった。
海岸線を測ってるんだった。
俺は肩を落とした。
「……門倉」
「はい」
「一つお願いがある」
「何でしょう?」
「明日は絶対、安全な道にしてくれ」
「承知しました」
「あと」
「はい」
「できれば平らで」
「はい」
「広くて」
「はい」
「石がなくて」
「はい」
「坂もなくて」
「…………」
門倉が俺を見る。
「先生」
「何?」
「それは測量する道ではなく、先生の理想の道ですな」
「理想くらい語らせろよ!」
俺は布団に倒れ込んだ。
そして。
心の底から叫んだ。
「歩くだけでも嫌なのに、命まで懸けたくないんだよぉぉぉ!!」




