第75話「船に乗れば歩かなくていいと思った」
朝。
俺は海を見ていた。
昨日も海。
今日も海。
明日もきっと海。
もういい。
海は十分だ。
「…………」
波が寄せる。
ザザァァァ……。
風が吹く。
気持ちいい。
景色もいい。
でも。
俺には一つだけ不満がある。
「……なんで海なのに歩いてるんだ?」
「先生?」
門倉が振り返った。
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、海だろ?」
「はい」
「海ってさ、船があるだろ?」
「ございますな」
「だったら船に乗ればいいじゃん!」
「…………」
門倉が俺を見る。
あの顔だ。
またあの顔。
「先生」
「何?」
「船に乗ってしまっては、陸の細かな様子が分かりませぬ」
「……そうだよね」
分かってる。
分かってるけど。
言わせてくれ。
歩きたくないんだよ!
◇
そのとき。
郡蔵が近づいてきた。
「先生」
「何?」
「本日は一部、船を利用することになりそうです」
「…………」
俺は固まった。
「……船?」
「はい」
「今、船って言った?」
「申しました」
「乗るの?」
「その予定です」
「…………」
俺はゆっくり門倉を見た。
門倉が頷く。
「陸路では確認しにくい場所もございますので」
「…………」
来た。
ついに来た。
俺の時代が。
「よっしゃぁぁぁ!!」
両手を突き上げた。
郡蔵が驚く。
宗平が笑う。
秀蔵と慶助まで笑っている。
知るか!
船だぞ!
船!
「門倉!」
「はい!」
「今日は歩かなくていいんだな!」
「船に乗る間は、そうですな」
「最高じゃん!」
「ただし」
「ただし?」
「測量はいたします」
「…………」
俺は少し考えた。
測量。
船。
座れる。
つまり。
勝ちだ。
「いいよ!」
俺は胸を張った。
「座ってできるなら何でもやる!」
門倉が笑った。
「では、お願いいたします」
「任せろ!」
……このときの俺は。
まだ知らなかった。
船の上にも。
地獄があるということを。
◇
浜へ向かった。
そこには一艘の船が用意されていた。
「…………」
俺は船を見た。
木造。
帆はない。
人が漕ぐ小舟だ。
思っていたより小さい。
「……これ?」
「はい」
門倉が答えた。
「こちらに乗ります」
「…………」
俺は船を見た。
そして海を見る。
もう一度、船を見る。
「……もっと大きいのない?」
「本日の作業には、こちらが適しております」
「屋根は?」
「ございません」
「椅子は?」
「腰を下ろす場所はございます」
「トイレは?」
「…………」
門倉が黙った。
しまった。
聞くんじゃなかった。
「先生」
宗平が笑いをこらえている。
「短い時間ですから」
「そういう問題じゃないんだよ!」
◇
船に乗った。
ぎしっ。
木が軋む。
ゆらっ。
船が揺れる。
「…………」
俺は動きを止めた。
ゆらっ。
もう一度揺れる。
「……門倉」
「はい」
「これ、大丈夫?」
「大丈夫です」
「沈まない?」
「沈みませぬ」
「絶対?」
「…………」
門倉が少し考えた。
「よほどのことがなければ」
「その『よほど』が怖いんだよ!」
船頭が笑った。
「旦那、今日は穏やかな海でさぁ」
「本当に?」
「へえ。こんな日は船にゃもってこいです」
「……そう?」
俺は海を見た。
確かに穏やかだ。
波も小さい。
風も弱い。
よし。
大丈夫。
大丈夫だ。
「出しますぜ!」
船頭が声をかけた。
船が岸を離れる。
ゆらっ。
「うおっ!?」
俺は思わず船べりを掴んだ。
門倉が笑う。
「先生。落ち着いてくだされ」
「揺れた!」
「船ですからな」
「知ってるよ!」
◇
船が進む。
海の上。
陸が少しずつ遠ざかる。
「…………」
俺は周囲を見渡した。
海。
海。
海。
そして。
遠くに見える海岸線。
「……おお」
思わず声が出た。
すごい。
陸から見ていた景色と全然違う。
昨日、あれだけ文句を言った入り江。
岬。
岩場。
それが。
海から見ると、また違った形に見える。
「……へえ」
俺は身を乗り出した。
「門倉!」
「はい」
「海から見ると、結構分かりやすいな!」
「そうですな」
「昨日歩いたところも見える!」
「はい」
「だったらさ!」
俺は笑った。
「全部船から測ればよくない?」
「…………」
門倉が黙った。
郡蔵も黙った。
宗平まで黙った。
嫌な予感。
「先生」
門倉が静かに言った。
「船は動いております」
「……うん」
「波や潮の流れもございます」
「……うん」
「陸上での測量と同じようには参りませぬ」
「……そうだね」
「また、陸に上がって確認せねばならぬ場所もございます」
「…………」
俺は海を見た。
夢が。
消えた。
◇
しばらくして。
測量が始まった。
陸の目印を確認する。
方角を調べる。
記録する。
船頭に位置を調整してもらう。
そして。
また確認する。
「…………」
俺は船べりを掴んでいた。
ゆらっ。
ゆらっ。
ゆらっ。
「……門倉」
「はい」
「ちょっと待って」
「どうなされました?」
「なんか……」
俺は口元を押さえた。
「……気持ち悪い」
「…………」
門倉が俺を見る。
「船酔いですか?」
「……たぶん」
「まだ乗って間もないですが」
「時間の問題じゃないんだよ!」
ゆらっ。
「うっ……」
まずい。
非常にまずい。
胃の中が。
揺れている。
いや。
胃だけじゃない。
世界そのものが揺れている。
「先生。遠くをご覧ください」
宗平が声をかけた。
「遠く?」
「はい」
俺は水平線を見た。
青い。
広い。
綺麗だ。
ゆらっ。
「……駄目だ」
「先生?」
「水平線まで揺れてる!」
「それは船が揺れているからです」
「分かってるよ!」
◇
船頭が心配そうに振り返った。
「旦那、大丈夫ですかい?」
「……大丈夫に見える?」
「いやぁ……」
「正直でよろしい!」
俺は船べりを掴んだ。
郡蔵が記録を取っている。
宗平が方角を確認している。
門倉が指示を出している。
全員。
普通に仕事している。
なんで?
なんで平気なの?
「門倉……」
「はい」
「お前、酔わないの?」
「多少は揺れを感じますが」
「……気持ち悪くならない?」
「今のところは」
「郡蔵は?」
「問題ございません」
「宗平!」
「大丈夫です」
「秀蔵!」
「はい!」
「慶助!」
「こちらも問題ございません!」
「…………」
全員。
平気。
俺だけ。
瀕死。
「なんで俺だけぇぇぇ!!」
◇
しばらくして。
船が岸へ戻ることになった。
「先生。もう少しですぞ」
門倉が声をかける。
「……本当?」
「はい」
「あと何分?」
「まもなくです」
「その『まもなく』って何分!?」
「先生、落ち着いて」
「落ち着けるかぁぁぁ!!」
船が岸へ近づく。
ゆらっ。
ぎしっ。
そして。
ようやく。
船が着いた。
「着きましたぞ!」
俺は立ち上がろうとした。
しかし。
「……あれ?」
足元がふらつく。
地面が。
揺れている。
いや。
地面じゃない。
俺が揺れている。
「先生!?」
門倉が慌てて支えてくれた。
「大丈夫ですか!」
「……陸が揺れてる」
「揺れておりません」
「嘘だ……」
「本当です」
「……陸って、こんなに不安定だったっけ?」
「先生。しっかりしてくだされ」
◇
しばらく休んだ。
ようやく気分が落ち着いてきた。
俺は地面に座り込んだ。
「…………」
土。
素晴らしい。
動かない。
揺れない。
安定している。
「……地面って最高だな」
門倉が笑った。
「先生。先ほどまで歩きたくないとおっしゃっておりましたが」
「……言った」
「船に乗ればよいとも」
「……言った」
「いかがでした?」
「…………」
俺は海を見た。
青い。
綺麗だ。
でも。
もう乗りたくない。
絶対に。
「……歩く方がマシかもしれない」
「ほう!」
門倉の目が輝いた。
しまった。
「では、明日からも元気に歩けますな!」
「待って!」
「先生のお言葉ですぞ!」
「違う!」
「歩く方がよいと!」
「そうじゃない!」
俺は慌てて立ち上がった。
「歩きたいとは言ってない!」
「では?」
「船に乗りたくないだけ!」
「つまり、歩くと」
「二択にするなぁぁぁ!!」
◇
夕方。
宿に戻った。
俺は布団に倒れ込んだ。
「…………」
今日は歩かなかった。
いや。
少しは歩いた。
でも、いつもよりは少ない。
その代わり。
船で地獄を見た。
「……何なんだよ」
歩けば足が痛い。
船に乗れば気持ち悪い。
雨が降れば書類仕事。
晴れれば測量。
逃げ道がない。
完璧な包囲網だ。
そのとき。
門倉がやってきた。
「先生」
「……何?」
「本日の記録を整理いたしましょう」
「…………」
俺は布団を頭までかぶった。
「先生?」
「…………」
「船から確認した海岸線の形も記録せねばなりませぬ」
「…………」
「先生?」
俺は布団の中で叫んだ。
「船に乗れば歩かなくていいと思ったのに、なんで陸に戻っても働くんだよぉぉぉ!!」




