第74話「海岸線が曲がりすぎている件」
朝。
俺は海を見ていた。
青い。
広い。
波が静かに寄せては返す。
潮の匂いがする。
「…………」
いい景色だ。
現代だったら、絶対に写真を撮っている。
スマホを取り出して。
海を背景に一枚。
そのままSNSに投稿。
『伊豆旅行なう!』
……いや。
まだ伊豆じゃないけど。
ここは三浦半島。
それでも。
海は海だ。
「……いいなぁ」
思わず声が出た。
「先生」
隣から門倉の声。
「何でしょう?」
「いや、海っていいなと思って」
「そうですな」
「こうやって眺めてるだけなら最高だよな」
「はい」
「波の音を聞いてさ」
「はい」
「のんびりして」
「はい」
「昼寝でもして」
「…………」
門倉が黙った。
嫌な予感。
「先生」
「何?」
「本日は海岸沿いの測量を進めます」
「…………」
知ってた。
分かってた。
でも。
言わないでほしかった。
◇
測量が始まった。
郡蔵が間縄を伸ばす。
宗平が記録を取る。
秀蔵と慶助が道具を運ぶ。
門倉が方角を確認する。
そして。
俺は海岸線を見ていた。
「…………」
曲がっている。
ものすごく曲がっている。
右。
左。
また右。
少し進んで左。
さらに右。
「……何これ?」
「先生?」
門倉が振り返る。
「どうなされました?」
俺は海岸線を指さした。
「曲がりすぎじゃない?」
「…………」
「なんでこんなに曲がってるの?」
「自然の地形ですからな」
「知ってるよ!」
でも。
限度ってものがあるだろ。
もっとこう。
真っすぐ。
すっきり。
分かりやすく。
できなかったのか?
「門倉」
「はい」
「一つ提案がある」
「何でしょう?」
「海岸線、直線にしない?」
「…………」
門倉が俺を見る。
郡蔵も見る。
宗平まで見る。
あの顔だ。
またあの顔。
「先生」
門倉が静かに言った。
「地形は変えられませぬ」
「地形じゃなくて地図!」
「それでは正しい地図になりませぬ」
「……そうだよね」
正論。
完全な正論。
俺だって分かってる。
でも。
言いたくなるだろ。
◇
海岸沿いを進む。
岩場。
砂浜。
また岩場。
小さな入り江。
そして。
また曲がる。
「…………」
俺は立ち止まった。
「門倉」
「はい」
「今、何回曲がった?」
「数えておりませんが」
「俺は数えた」
「ほう」
「十七回」
「それはまた」
「まだ昼前だぞ!?」
門倉が笑った。
「先生。海岸線とはそういうものです」
「そういうもので済ませるなよ!」
郡蔵が記録を確認している。
宗平が縄を巻いている。
秀蔵と慶助が次の場所へ移動している。
全員。
当たり前のように働いている。
俺だけ。
海岸線に文句を言っている。
「……なあ、門倉」
「はい」
「海ってさ」
「はい」
「もっと真っすぐでもよくない?」
「海にお尋ねください」
「海ぃぃぃ!!」
俺は海に向かって叫んだ。
波が返ってきた。
ザザァァァ……。
返事はない。
当たり前だ。
◇
しばらくして。
小さな入り江に差しかかった。
俺はその景色を見た。
「……あれ?」
「先生?」
「ここさ」
俺は入り江を指さした。
「向こう側、結構近くない?」
「そうですな」
「だったらさ」
俺は対岸を指さした。
「あそこまで真っすぐ測ればよくない?」
門倉が入り江を見る。
「入り江の奥の形はどうなさるのです?」
「…………」
「奥へ入り込んでいる部分も、海岸線です」
「…………」
「そこを省けば、地図から消えてしまいますな」
「……そうだね」
俺は入り江を見た。
小さな湾。
波が静かに入り込んでいる。
漁船が浮かんでいる。
岸には家が見える。
人がいる。
暮らしがある。
「…………」
もし。
ここを地図から消したら。
この入り江も。
この村も。
存在しないみたいになるのか。
「……そっか」
思わず呟いた。
門倉がこちらを見る。
「先生?」
「いや」
俺は入り江を見た。
「ちゃんと測らないとな」
「…………」
門倉が少し驚いた顔をした。
そして。
笑った。
「その通りですな」
「……ただし!」
「はい?」
「歩く距離は減らしたい!」
「それは別の話です」
「知ってるよ!」
◇
昼。
ようやく休憩になった。
俺は岩に腰を下ろした。
「はぁぁぁ……」
足を伸ばす。
気持ちいい。
最高だ。
波の音が聞こえる。
風が吹く。
潮の匂い。
「……いいなぁ」
俺は海を眺めた。
「先生」
宗平が水を持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
水を飲む。
うまい。
生き返る。
「……なあ、宗平」
「はい」
「海岸線って、どれくらいあるんだ?」
「どれくらい、とは?」
「日本全部」
「…………」
宗平が考え込んだ。
門倉も近づいてきた。
「先生。それを調べるためにも測量をしているのでは?」
「…………」
そうだった。
「じゃあさ」
「はい」
「日本って、なんでこんなに島が多いの?」
「それは……」
「本州だけでも大変なのに、島まであるんだぞ?」
「…………」
「誰だよ、こんな地形にしたの!」
門倉が空を見上げた。
「神仏でしょうか」
「じゃあ神様に苦情入れたい!」
「先日、富岡八幡宮でお祈りされておりましたな」
「お願いしたのに聞いてくれなかったんだよ!」
郡蔵が笑った。
宗平も笑った。
秀蔵と慶助まで笑っている。
もういい。
好きなだけ笑え。
俺は本気なんだ。
◇
午後。
測量を再開した。
また岩場。
また曲がり。
また入り江。
「…………」
俺は黙って歩いていた。
いや。
正確には。
黙って歩こうとしていた。
でも。
無理だった。
「門倉」
「はい」
「また曲がった」
「そうですな」
「さっきも曲がった」
「はい」
「その前も曲がった」
「はい」
「……俺たち、ちゃんと前に進んでる?」
門倉が笑う。
「進んでおりますとも」
「本当に?」
「はい」
「なんか同じところをぐるぐる回ってる気がするんだけど」
「海岸線を追っておりますからな」
「……海岸線って敵?」
「敵ではございません」
「じゃあ何?」
「測るべきものです」
「それが一番厄介なんだよ!」
◇
夕方。
ようやく本日の測量が終わった。
宿に入った俺は、畳に倒れ込んだ。
「…………」
疲れた。
今日も疲れた。
足が痛い。
腰が痛い。
そして。
何より。
頭の中が曲がっている。
右。
左。
右。
左。
目を閉じても海岸線が見える。
「……もう嫌だ」
そのとき。
門倉が図面を持ってきた。
「先生。本日の成果です」
「……今?」
「はい」
「明日じゃ駄目?」
「確認だけでも」
「…………」
俺は渋々身体を起こした。
図面を見る。
そこには。
今日歩いた海岸線が描かれていた。
細かく曲がった線。
入り江。
岬。
岩場。
「…………」
俺は指で線を追った。
朝、見た海。
何度も曲がった道。
あの小さな入り江。
漁船が浮かんでいた場所。
全部。
ここにある。
「……すげえな」
思わず呟いた。
門倉が笑う。
「先生?」
「いや」
俺は図面を見た。
「ちゃんと残るんだな」
「はい」
「俺たちが歩いたところ」
「その通りです」
「…………」
俺は少しだけ笑った。
悪くない。
こうして見ると。
今日の苦労にも意味があった気がする。
……いや。
苦労はしたくないけど。
「先生」
門倉が言った。
「明日も海岸沿いを進みます」
「…………」
俺は図面から顔を上げた。
「……明日も?」
「はい」
「曲がる?」
「当然でしょうな」
「何回?」
「それは分かりませぬ」
「…………」
俺はゆっくり布団に倒れ込んだ。
もう無理。
本当に無理。
日本地図を作るって。
こんなに大変なのかよ。
俺は布団を頭までかぶった。
そして。
心の底から叫んだ。
「日本列島ぉぉぉ!! もうちょっと真っすぐになれよぉぉぉ!!」




