第70話「もう歩けません。まだ江戸です」
享和元年。
四月二日。
ついに、この日が来てしまった。
第二次測量。
出発の日だ。
「…………」
俺は布団の中にいた。
いや。
正確には。
布団の中に立てこもっていた。
「あなた」
エイの声が聞こえる。
「朝ですよ」
「…………」
聞こえない。
何も聞こえない。
俺は今、眠っている。
そういうことにしておこう。
「あなた?」
「…………」
「皆様がお待ちですよ」
「…………」
待たせておけばいい。
俺は決めた。
今日は出ない。
明日も出ない。
できれば一生出ない。
「あなた」
「……はい」
「起きていらっしゃいますね?」
「寝てます」
「お返事なさっておりますよ」
しまった。
「今日は大切な日でしょう?」
「そうなんだけどさぁ……」
俺は布団を頭までかぶった。
「エイ」
「はい」
「一つ提案がある」
「何でしょう?」
「第二次測量、中止にしない?」
「なりません」
即答。
早い。
せめて考えてくれ。
「じゃあ延期!」
「なりません」
「一週間!」
「なりません」
「三日!」
「なりません」
「半日!」
「あなた」
布団がめくられた。
眩しい。
朝日が眩しい。
そして。
エイの笑顔が眩しい。
「皆様がお待ちですよ」
「……はい」
負けた。
完全敗北だ。
◇
屋敷の外。
すでに測量隊が集まっていた。
門倉隼太。
平山郡蔵。
平山宗平。
そして、新たに加わった仲間たち。
荷物。
測量道具。
旅支度。
見覚えのある光景だ。
嫌な意味で。
「先生!」
門倉がこちらに気づいた。
「おはようございます!」
「……おはよう」
「いよいよですな!」
「そうだね……」
「準備は万全です!」
「そうだね……」
「では参りましょう!」
「そうだね……」
「…………」
門倉が俺を見る。
「先生?」
「何?」
「随分と元気がございませんな」
「元気があるように見える?」
「見えません」
「だろ?」
俺は空を見上げた。
青い。
ものすごく青い。
絶好の旅日和だ。
最悪だ。
「雨、降らないかな……」
「本日はよい天気ですな!」
「知ってるよ!」
門倉は笑っている。
こいつ。
本当に楽しそうだな。
「先生」
郡蔵が近づいてきた。
「道具の確認は済んでおります」
「うん」
「宗平も荷物を確認いたしました」
「うん」
「秀蔵殿と慶助殿も準備を整えております」
「うん」
「後は先生だけです」
「…………」
全員。
準備万端。
俺だけ。
心の準備ができていない。
「門倉」
「はい」
「俺、まだ準備が……」
「何かお忘れですか?」
「覚悟」
「それは道具ではございません」
「知ってるよ!」
◇
出発前。
俺はエイの方を振り返った。
「じゃあ……行ってくる」
「はい」
エイは穏やかに笑っている。
「どうか、お気をつけて」
「うん」
「皆様と、無事にお帰りくださいませ」
「…………」
俺は仲間たちを見た。
門倉。
郡蔵。
宗平。
秀蔵。
慶助。
それぞれが、これから始まる旅に向けて準備を整えている。
前回の測量を思い出す。
雨。
寒さ。
泥だらけの道。
何度も転びそうになった。
何度も帰りたくなった。
だけど。
最後は全員で帰ってきた。
今回も。
そうしたい。
「……ああ」
俺は頷いた。
「全員で帰ってくるよ」
エイが微笑む。
「お待ちしております」
よし。
言った。
言ってしまった。
もう後には引けない。
……いや。
引けるなら引きたい。
ものすごく引きたい。
そのとき。
目の前に文字が浮かんだ。
【史実情報】
第二次測量開始。
享和元年四月二日。
【史実との差:〇日】
【タイムパラドックス発生リスク】
数字が表示されている。
俺は思わず顔をしかめた。
「……お前も待ってたのかよ」
「先生?」
「なんでもない」
そうだった。
こいつもいるんだった。
史実通りに動かなければ、数字が上がる。
休みたい。
逃げたい。
でも、勝手に予定を変えるわけにはいかない。
なんて面倒な人生だ。
「では先生!」
門倉が声を上げた。
「出立いたしましょう!」
「……おう」
こうして。
俺たちは江戸を出発した。
◇
最初に向かったのは、富岡八幡宮。
旅の無事を祈るためだ。
境内に入ると、自然と背筋が伸びる。
俺は手を合わせた。
頼む。
神様。
今回も全員無事に帰らせてください。
怪我なく。
病気なく。
事故なく。
そして。
できれば。
歩く距離を少なめにしてください。
「先生」
隣から門倉の声。
「随分と熱心にお祈りされておりますな」
「そりゃそうだろ」
「旅の無事を?」
「もちろん」
「他には?」
「……休憩時間の確保」
「…………」
「あと、できれば坂道を減らしてほしい」
「先生」
「何?」
「神仏にお願いすることではございません」
「じゃあ誰に頼めばいいんだよ!」
「先生ご自身でしょうな」
「俺かよ!」
神様。
聞いた?
俺にはもう味方がいないらしい。
◇
参拝を終えた。
そして。
本格的に歩き始めた。
江戸の町を進む。
人が行き交う。
商人が声を張り上げる。
荷車が通る。
店先には品物が並んでいる。
活気がある。
いい町だ。
本当にいい町だ。
だから。
「……帰りたい」
「先生?」
「いや、なんでもない」
まだ江戸だ。
まだ江戸にいる。
今なら帰れる。
今なら屋敷まで戻れる。
そう思った瞬間。
目の前の数字が、わずかに動いた。
「うわっ!」
「どうなされました!?」
「なんでもない!」
危ない。
考えるだけでも油断できない。
いや。
さすがに考えただけで上がるのは理不尽すぎないか?
俺は前を向いた。
歩く。
歩く。
ひたすら歩く。
しばらくして。
「門倉」
「はい」
「一つ聞いていい?」
「何でしょう?」
「今日、どこまで行くんだっけ?」
「川崎宿です」
「……川崎?」
「はい」
川崎。
聞いたことがある。
もちろんある。
現代なら電車で行ける場所だ。
「ちなみに」
「はい」
「ここから?」
「はい」
「歩いて?」
「もちろんです」
「…………」
そうだった。
電車なんてない。
バスもない。
タクシーもない。
あるのは。
自分の足だけ。
「門倉」
「はい」
「馬は?」
「必要に応じて利用いたしますが」
「今は?」
「歩きます」
「駕籠は?」
「先生」
「はい」
「まだ出発したばかりです」
「知ってるよ!」
◇
歩いた。
とにかく歩いた。
町並みが少しずつ変わっていく。
江戸の賑わいが遠ざかる。
道が続く。
人が行き交う。
そして。
俺の足が重くなる。
「……門倉」
「はい」
「休憩」
「先ほど取りました」
「もう一回」
「まだ早うございます」
「じゃあ五分」
「なりません」
「三分!」
「先生」
「一分!」
「歩きながらお話しください」
「それ休憩じゃないだろ!」
郡蔵が笑っている。
宗平も笑っている。
秀蔵と慶助まで笑っている。
おい。
新入り。
お前たちまで笑うな。
俺、一応先生だからな?
「先生」
宗平が声をかけてきた。
「お疲れですか?」
「見れば分かるだろ」
「まだ初日ですが」
「初日だから疲れるんだよ!」
「先は長うございますよ」
「それを言うなぁぁぁ!!」
分かっている。
分かっているんだ。
今回も長い旅になる。
三浦半島。
伊豆半島。
そして、その先。
考えたくない。
本当に考えたくない。
俺は足元を見た。
草鞋。
前回の旅でも散々世話になった。
こいつとまた長い付き合いになるのか。
「……よろしくな」
「先生?」
「草鞋に挨拶してた」
「…………」
門倉が黙った。
やめろ。
その顔。
俺だって変だと思ってる。
◇
夕方。
ようやく川崎宿へ到着した。
「着きましたぞ、先生!」
門倉の声。
俺は立ち止まった。
「…………」
着いた。
本当に着いた。
今日の目的地。
川崎宿。
つまり。
今日はもう歩かなくていい。
「……終わり?」
「本日の行程は、ひとまず」
「本当に?」
「はい」
「追加で歩いたりしない?」
「その予定はございません」
「…………」
俺は両手を上げた。
「やったぁぁぁ!!」
周囲の人々が振り返る。
知らん。
そんなことはどうでもいい。
今日は終わりだ。
歩かなくていい。
これ以上の幸せがあるだろうか。
「先生」
門倉が近づいてきた。
「何?」
「宿に入りましたら、本日の記録を確認いたしましょう」
「…………」
「明日の行程についても相談がございます」
「…………」
「先生?」
俺は空を見上げた。
神様。
さっきお願いしたよね?
休憩時間。
確保してって。
なのに。
なのに!
「門倉」
「はい」
「俺、もう歩けません」
「ご安心ください」
「……え?」
「本日の歩行は終わりです」
「おお!」
「これからは座って仕事ができます」
「…………」
違う。
そうじゃない。
俺が求めているのは。
仕事の姿勢を変えることじゃない。
休みだ。
完全な休みだ。
「先生?」
「…………」
「参りましょう」
「……はい」
俺は肩を落とした。
第二次測量。
初日。
江戸から川崎宿まで。
まだ始まったばかり。
それなのに。
「もう歩けません……」
門倉が笑う。
「先生。まだ江戸を出たばかりですぞ」
「知ってるよぉぉぉ!!」
こうして。
俺の第二次測量は。
初日から絶望的な幕開けとなった。
ついに第二次測量が始まりました!
第一次測量であれだけ歩いたのに、また歩くことになった浩哉。
今度こそ少しは楽ができるのか?
それとも、前回以上の地獄が待っているのか?
そして、仲間たちと歩く二度目の旅は、どんな日本地図を描くのか。
ここから第二次測量編、本格始動です!
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