第62話「何もしないって最高」
朝。
目が覚めた。
「…………」
天井。
見慣れてきた。
自分の家の天井。
いや。
正確には。
伊能忠敬の家の天井。
まあ。
細かいことはいい。
俺は起き上がろうとして――
止まった。
「…………」
待てよ。
俺。
今日。
何するんだ?
測量は。
終わった。
幕府への報告も。
終わった。
歩かなくていい。
測らなくていい。
星も見なくていい。
地図も作らなくていい。
つまり。
「…………」
何も。
しなくていい。
俺は。
ゆっくり。
布団へ戻った。
「最高」
声が出た。
なんだ。
これ。
最高じゃん。
蝦夷地にいた頃なら。
朝。
目が覚める。
歩く。
飯を食う。
歩く。
測る。
また歩く。
雨が降る。
休める!
そう思う。
地図をまとめる。
休めない。
夜。
星を見る。
寝る。
そして。
朝。
また歩く。
「…………」
何だったんだ。
あの生活。
俺。
よく生きて帰ってきたな。
ごろり。
右。
ごろり。
左。
もう一度。
右。
誰も怒らない。
進捗率も。
出ない。
「…………」
幸せ。
俺は。
目を閉じた。
◇
「おはようございます」
ようやく。
起きた。
飯がある。
座って。
食べる。
「…………」
うまい。
歩かなくても。
飯が食える。
最高。
「ずいぶん、ゆっくりでしたね」
「いいんだよ」
俺は。
飯を口に運ぶ。
「今日は休むって決めたから」
「昨日も休んでいませんでした?」
「…………」
箸が。
止まった。
目の前で。
笑っている女性を見る。
エイ。
伊能忠敬の。
内縁の妻。
らしい。
蝦夷地から。
帰ってきたあと。
佐原から。
俺のところへ来てくれた。
最初は。
すぐに戻るつもりだったらしい。
でも。
俺と話して。
何か。
違和感を覚えたらしい。
「…………」
そりゃ。
そうですよね。
ごめんなさい。
中身。
別人です。
最初の頃は。
時々。
不思議そうに。
俺を見ていた。
俺としては。
いつ。
「あなた、本当に忠敬さんですか?」
そう言われるのか。
結構。
ドキドキしていた。
でも。
エイは。
帰らなかった。
俺のそばに。
残ってくれた。
そして。
いつの間にか。
あの頃の。
探るような目も。
なくなった。
今は。
こうして。
普通に。
俺に笑ってくれる。
「忠敬さん?」
「ん?」
「どうされました?」
「いや」
なんでもない。
俺は。
飯を食べる。
そして。
心の中で。
呟いた。
忠敬さん。
貴方の奥さん。
いい人です。
本当に。
いい人です。
だから。
少しだけ。
申し訳なくなる。
俺。
貴方じゃ。
ないんです。
でも。
エイは。
そんな俺に。
今日も。
普通に話しかけてくれる。
「今日は、どちらかへ?」
「行かない」
即答。
エイが。
少し笑った。
「そうですか」
「ああ」
俺は。
茶を飲む。
「今日は何もしない」
「昨日も聞いたような気がしますけど」
「昨日は昨日」
「今日は今日」
エイが。
笑った。
俺も。
笑った。
「…………」
こういう会話にも。
慣れてきた。
最初は。
俺も。
どう接していいのか。
分からなかった。
だって。
俺からしたら。
知らない人だ。
でも。
一緒に飯を食って。
話して。
笑って。
帰ってきたら。
迎えてくれた。
そうしているうちに。
少しずつ。
変わった。
家族って。
こういうものなのかな。
「…………」
温かいな。
俺は。
伊能忠敬じゃない。
それは。
今も。
変わらない。
でも。
ここにいる時くらい。
俺も。
この家の人間で。
いいのかもしれない。
「忠敬さん?」
「ん?」
「お茶、なくなっていますよ」
「…………」
湯呑を見る。
空。
「もう一杯」
「はい」
エイが。
笑う。
「ありがとう」
自然に。
出た。
なんか。
いいな。
こういうの。
◇
昼。
寝た。
◇
起きた。
「…………」
まだ。
昼。
◇
もう一度。
寝た。
◇
起きた。
夕方。
「…………」
俺。
今日。
何もしてない。
本当に。
何もしてない。
なのに。
進捗率。
出ない。
「…………」
いい。
すごく。
いい。
数字に。
追われないって。
こんなに。
いいんだな。
少しだけ。
外へ出た。
歩くためじゃない。
測るためでもない。
ただ。
風に。
当たりたかった。
空を。
見上げる。
暗くなり始めた空。
ぽつ。
ぽつ。
星が。
見え始めている。
「…………」
俺は。
なんとなく。
足を止めた。
あの星。
なんだったっけ。
「…………」
北。
こっち。
だよな。
空を見ながら。
身体の向きを変える。
探す。
「…………」
あれか?
いや。
違うか。
「…………」
なんで。
俺。
星なんか。
探してるんだ?
少し前まで。
興味なんて。
なかったのに。
「まあ、いいか」
今日は。
何もしない日だ。
考えるのも。
やめよう。
家へ戻る。
明かりが。
見える。
中から。
エイの声がする。
「…………」
帰る場所。
か。
戸を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「…………」
なんか。
いいな。
俺は。
家へ入った。
今日は。
ほとんど。
歩いていない。
測っても。
いない。
何も。
成し遂げていない。
それなのに。
なんだか。
足が。
軽かった。
明日も。
何も。
ありませんように。




