第5話「俺、伊能忠敬なのに測量できません」
――三十日目。
「…………」
俺は海を見ていた。
正確には。
海を見ながら、死んだ魚みたいな目をしていた。
「先生」
隣から門倉隼太の声がする。
「何?」
「随分とお疲れのようですが」
「…………」
俺は門倉を見る。
「疲れてないように見える?」
「見えませんな」
「じゃあ聞くなよ……」
足が痛い。
腰が痛い。
肩も痛い。
というか。
身体中が痛い。
江戸を出てから。
三十日。
三十日だぞ?
俺がアニメイトへフィギュアを買いに向かっていたのは。
俺の感覚では、たった一ヶ月前。
あの日。
小石につまずかなければ。
今頃。
俺の部屋には新しいフィギュアが飾られていたかもしれない。
それが今は。
「…………」
自分の足を見る。
草鞋。
そして顔を上げる。
海。
その向こう。
蝦夷地。
「人生って分からないな……」
「何のお話です?」
「なんでもない」
この三十日間。
歩いた。
ひたすら歩いた。
朝起きて。
歩く。
休んで。
また歩く。
宿に着いて。
寝る。
起きたら。
また歩く。
最初の頃は。
「もう無理!」
とか。
「今日は休もう!」
とか。
色々言っていた。
だが。
そのたびに。
【タイムパラドックス発生リスク:0.001%】
【0.002%】
【0.003%】
こいつが俺を脅してくる。
だから。
歩いた。
歩いた。
歩いた。
そして。
ようやく。
本州の北の端まで来た。
「長かった……」
本当に。
長かった。
でも。
俺は一つだけ。
勘違いをしていた。
ここまで来れば。
すぐ蝦夷地へ渡れる。
そう思っていた。
◇
「本日は渡れません」
「…………え?」
門倉の言葉に。
俺は固まった。
「なんで?」
「風です」
海を見る。
「じゃあ明日は?」
「風次第でしょうな」
「…………」
まあ。
仕方ない。
自然には勝てない。
それに。
考えてみれば。
これはチャンスでは?
ここまで。
ずっと歩いてきた。
足が痛い。
腰も痛い。
身体も重い。
つまり。
「休める……」
思わず口元が緩んだ。
「先生?」
「いや。なんでもない」
一日くらい休んだっていい。
むしろ。
神様が俺にくれた休日だ。
そう思っていた。
翌日。
「本日も渡れません」
「…………」
まあ。
二日くらいなら。
その翌日。
「本日も」
「うん」
その翌日。
「本日も」
「はい」
その翌日。
「先生」
「風?」
「はい」
「…………」
その翌日。
「先生」
「聞きたくない」
さらに翌日。
「先生」
「まだ?」
「まだです」
「…………」
そして。
九日目。
俺は海岸に座っていた。
「門倉」
「はい」
「九日だぞ」
「はい」
「俺たち」
「はい」
「九日間、ここにいるぞ」
「風を待っておりますので」
「知ってるよ!」
最初は嬉しかった。
休める!
そう思った。
二日目も。
まあいい。
三日目。
ちょっと長いな。
四日目。
まだ?
五日目。
本当に?
六日目。
暇。
七日目。
不安。
八日目。
そして。
九日目。
俺は。
別の意味で怖くなっていた。
理由は。
目の前にある。
【第一次測量】
現在地:三厩
史実との差:0日
【タイムパラドックス発生リスク】
0.000%
「…………」
ゼロ。
九日。
ここで足止め。
それなのに。
史実との差は。
ゼロ。
つまり。
「門倉」
「はい」
「俺たち、ここで九日待つ予定だったの?」
「予定ではありません」
「だよね」
じゃあ。
この表示が正しいなら。
本物の伊能忠敬も。
ここで。
同じように。
九日間。
風を待った。
「…………」
俺は海を見る。
「伊能忠敬」
「はい?」
「いや。俺じゃなくて」
「先生が伊能忠敬ですが」
「もういい」
俺はため息をついた。
「本物も大変だったんだな……」
「先生?」
「なんでもない」
少しだけ。
本当に少しだけ。
伊能忠敬という人間に。
同情した。
◇
そして。
ようやく。
「先生! 船が出せます!」
「マジで!?」
俺は立ち上がった。
「まじ?」
門倉が首を傾げる。
「本当に!?」
「はい!」
「行ける!?」
「行けます!」
「蝦夷地!?」
「はい!」
「よっしゃあ!」
九日。
待った。
ついに。
蝦夷地。
俺は喜んで船に乗った。
この時の俺は。
まだ知らなかった。
俺が。
船に弱いということを。
「…………うっ」
揺れる。
「先生?」
「ちょっと……待って」
揺れる。
「先生、顔色が」
「言うな」
また揺れる。
「うっ!」
気持ち悪い。
めちゃくちゃ気持ち悪い。
「先生!?」
「無理……」
歩いて。
足が死んだ。
船に乗って。
今度は胃が死んだ。
江戸時代。
俺に厳しすぎない?
「もう……着く?」
「もう少しかと」
「箱館……?」
「いえ」
「…………え?」
「吉岡です」
「…………」
どこ?
「箱館じゃないの?」
「風の具合がありますので」
「また風!?」
もう嫌だ。
全部風じゃん。
俺は船の上で倒れながら。
ウインドウを見る。
【史実との差:0日】
「…………」
合ってる。
これで。
合ってる。
「目的地と違うところに着いても史実通りなの……?」
もう。
史実が信用できない。
◇
ようやく。
陸に降りた。
蝦夷地。
吉岡。
俺は地面に手をついた。
「地面……」
動かない。
揺れない。
素晴らしい。
「地面って最高……」
「先生」
「今ちょっと感動してるから待って」
俺はしばらく。
地面のありがたさを噛み締めた。
歩くのは嫌いになった。
だが。
地面は好きだ。
この二つは両立する。
その日は吉岡に泊まった。
そして。
翌朝。
「先生」
「ん?」
「参りましょう」
「箱館?」
「はい」
俺は少し安心した。
今日は船で箱館へ行く。
そう思った。
「船は?」
「出せません」
「…………」
「風向きが変わりませんので」
また。
風。
「じゃあどうするの?」
門倉が当然のように答えた。
「陸路で参ります」
「…………」
陸路。
俺は。
自分の足を見る。
草鞋。
「また歩くの?」
「はい」
「昨日、船で死にかけたんだけど」
「存じております」
「その前は一ヶ月近く歩いてたんだけど」
「存じております」
「足痛いんだけど」
「存じております」
「休まない?」
「参ります」
「…………」
容赦ない。
この男。
本当に容赦ない。
仕方なく立ち上がる。
そのとき。
門倉が何かを俺に差し出した。
「先生」
「何?」
「こちらを」
「…………?」
受け取る。
見る。
「…………」
何これ。
見たことがない。
ひっくり返す。
分からない。
横から見る。
やっぱり分からない。
俺は門倉を見る。
「何これ?」
門倉が止まった。
「…………」
「いや」
俺は手に持った物を見せる。
「これ」
「先生?」
「何に使うの?」
門倉の顔が。
この一ヶ月で何度も見た顔になった。
――この人大丈夫か?
そんな顔。
「測量に使いますが」
「…………」
測量。
そうだった。
忘れていた。
俺たちは。
旅行に来たんじゃない。
日本地図を作りに来たんだ。
いや。
忘れてはいない。
忘れたいだけだ。
「門倉」
「はい」
「これ」
道具を持ち上げる。
「どうやって使うの?」
「…………」
空気が止まった。
門倉だけじゃない。
周囲にいた人たちまで。
俺を見る。
やめろ。
そんな目で見るな。
仕方ないだろ。
俺。
一ヶ月前まで会社員だぞ。
測量なんて。
学校の授業ですらまともにやった記憶がない。
「先生」
「はい」
「本当にお忘れになったのですか?」
「…………」
俺は答えなかった。
代わりに。
ウインドウを見る。
頼む。
お前。
こういう時のためにあるんだろ?
【史実情報】
第一次測量。
現在地:吉岡。
蝦夷地測量開始。
史実との差:0日。
「違う」
欲しいのはそれじゃない。
測量方法。
【――】
「測量方法」
【表示対象外】
「…………は?」
測量器具の使用方法。
【表示対象外】
「おい」
伊能忠敬がどうやって測量したのか。
【史実上の事実のみ表示可能】
「それも史実だろ!」
「先生!?」
「なんでもない!」
もう一度。
心の中で念じる。
頼む。
俺は。
伊能忠敬なんだぞ。
日本地図を作る人なんだぞ。
測量のやり方くらい。
教えてくれ!
【詳細な技術情報は表示されません】
「使えねえぇぇぇ!!」
「先生!?」
俺は頭を抱えた。
歩いた。
約一ヶ月。
風を待った。
九日。
船に乗った。
酔った。
ようやく蝦夷地へ来た。
そして。
今。
俺はようやく。
とんでもない事実に気づいた。
目の前には。
俺の指示を待つ人たち。
手には。
使い方の分からない道具。
そして。
目の前には。
【タイムパラドックス発生リスク:0.001%】
「あ」
【0.002%】
「ちょっと待って」
【0.003%】
「待て待て待て!」
数字が上がる。
「やる!」
【0.004%】
「やるから!」
問題は。
そこじゃない。
俺はゆっくり。
門倉を見る。
「……門倉」
「はい」
「大変申し上げにくいんだけど」
「何でしょう」
俺は手に持った測量器具を見る。
もう一度。
門倉を見る。
そして。
言った。
「俺……測量できないんだけど?」
「…………」
門倉の顔から。
表情が消えた。
日本地図完成への道。
たぶん。
ものすごく長い。
俺はもう。
歩く以前の問題にぶち当たっていた。




