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コケて立ち上がったら伊能忠敬でした。歴史に名を残す人は頭のネジが外れてるみたいです。もう俺は歩けません  作者: まろじろう
第一次測量 蝦夷地

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5/85

第5話「俺、伊能忠敬なのに測量できません」

――三十日目。


「…………」


俺は海を見ていた。


正確には。


海を見ながら、死んだ魚みたいな目をしていた。


「先生」


隣から門倉隼太の声がする。


「何?」


「随分とお疲れのようですが」


「…………」


俺は門倉を見る。


「疲れてないように見える?」


「見えませんな」


「じゃあ聞くなよ……」


足が痛い。


腰が痛い。


肩も痛い。


というか。


身体中が痛い。


江戸を出てから。


三十日。


三十日だぞ?


俺がアニメイトへフィギュアを買いに向かっていたのは。


俺の感覚では、たった一ヶ月前。


あの日。


小石につまずかなければ。


今頃。


俺の部屋には新しいフィギュアが飾られていたかもしれない。


それが今は。


「…………」


自分の足を見る。


草鞋。


そして顔を上げる。


海。


その向こう。


蝦夷地。


「人生って分からないな……」


「何のお話です?」


「なんでもない」


この三十日間。


歩いた。


ひたすら歩いた。


朝起きて。


歩く。


休んで。


また歩く。


宿に着いて。


寝る。


起きたら。


また歩く。


最初の頃は。


「もう無理!」


とか。


「今日は休もう!」


とか。


色々言っていた。


だが。


そのたびに。


【タイムパラドックス発生リスク:0.001%】


【0.002%】


【0.003%】


こいつが俺を脅してくる。


だから。


歩いた。


歩いた。


歩いた。


そして。


ようやく。


本州の北の端まで来た。


「長かった……」


本当に。


長かった。


でも。


俺は一つだけ。


勘違いをしていた。


ここまで来れば。


すぐ蝦夷地へ渡れる。


そう思っていた。


     ◇


「本日は渡れません」


「…………え?」


門倉の言葉に。


俺は固まった。


「なんで?」


「風です」


海を見る。


「じゃあ明日は?」


「風次第でしょうな」


「…………」


まあ。


仕方ない。


自然には勝てない。


それに。


考えてみれば。


これはチャンスでは?


ここまで。


ずっと歩いてきた。


足が痛い。


腰も痛い。


身体も重い。


つまり。


「休める……」


思わず口元が緩んだ。


「先生?」


「いや。なんでもない」


一日くらい休んだっていい。


むしろ。


神様が俺にくれた休日だ。


そう思っていた。


翌日。


「本日も渡れません」


「…………」


まあ。


二日くらいなら。


その翌日。


「本日も」


「うん」


その翌日。


「本日も」


「はい」


その翌日。


「先生」


「風?」


「はい」


「…………」


その翌日。


「先生」


「聞きたくない」


さらに翌日。


「先生」


「まだ?」


「まだです」


「…………」


そして。


九日目。


俺は海岸に座っていた。


「門倉」


「はい」


「九日だぞ」


「はい」


「俺たち」


「はい」


「九日間、ここにいるぞ」


「風を待っておりますので」


「知ってるよ!」


最初は嬉しかった。


休める!


そう思った。


二日目も。


まあいい。


三日目。


ちょっと長いな。


四日目。


まだ?


五日目。


本当に?


六日目。


暇。


七日目。


不安。


八日目。


そして。


九日目。


俺は。


別の意味で怖くなっていた。


理由は。


目の前にある。


【第一次測量】


現在地:三厩


史実との差:0日


【タイムパラドックス発生リスク】


0.000%


「…………」


ゼロ。


九日。


ここで足止め。


それなのに。


史実との差は。


ゼロ。


つまり。


「門倉」


「はい」


「俺たち、ここで九日待つ予定だったの?」


「予定ではありません」


「だよね」


じゃあ。


この表示が正しいなら。


本物の伊能忠敬も。


ここで。


同じように。


九日間。


風を待った。


「…………」


俺は海を見る。


「伊能忠敬」


「はい?」


「いや。俺じゃなくて」


「先生が伊能忠敬ですが」


「もういい」


俺はため息をついた。


「本物も大変だったんだな……」


「先生?」


「なんでもない」


少しだけ。


本当に少しだけ。


伊能忠敬という人間に。


同情した。


     ◇


そして。


ようやく。


「先生! 船が出せます!」


「マジで!?」


俺は立ち上がった。


「まじ?」


門倉が首を傾げる。


「本当に!?」


「はい!」


「行ける!?」


「行けます!」


「蝦夷地!?」


「はい!」


「よっしゃあ!」


九日。


待った。


ついに。


蝦夷地。


俺は喜んで船に乗った。


この時の俺は。


まだ知らなかった。


俺が。


船に弱いということを。


「…………うっ」


揺れる。


「先生?」


「ちょっと……待って」


揺れる。


「先生、顔色が」


「言うな」


また揺れる。


「うっ!」


気持ち悪い。


めちゃくちゃ気持ち悪い。


「先生!?」


「無理……」


歩いて。


足が死んだ。


船に乗って。


今度は胃が死んだ。


江戸時代。


俺に厳しすぎない?


「もう……着く?」


「もう少しかと」


「箱館……?」


「いえ」


「…………え?」


「吉岡です」


「…………」


どこ?


「箱館じゃないの?」


「風の具合がありますので」


「また風!?」


もう嫌だ。


全部風じゃん。


俺は船の上で倒れながら。


ウインドウを見る。


【史実との差:0日】


「…………」


合ってる。


これで。


合ってる。


「目的地と違うところに着いても史実通りなの……?」


もう。


史実が信用できない。


     ◇


ようやく。


陸に降りた。


蝦夷地。


吉岡。


俺は地面に手をついた。


「地面……」


動かない。


揺れない。


素晴らしい。


「地面って最高……」


「先生」


「今ちょっと感動してるから待って」


俺はしばらく。


地面のありがたさを噛み締めた。


歩くのは嫌いになった。


だが。


地面は好きだ。


この二つは両立する。


その日は吉岡に泊まった。


そして。


翌朝。


「先生」


「ん?」


「参りましょう」


「箱館?」


「はい」


俺は少し安心した。


今日は船で箱館へ行く。


そう思った。


「船は?」


「出せません」


「…………」


「風向きが変わりませんので」


また。


風。


「じゃあどうするの?」


門倉が当然のように答えた。


「陸路で参ります」


「…………」


陸路。


俺は。


自分の足を見る。


草鞋。


「また歩くの?」


「はい」


「昨日、船で死にかけたんだけど」


「存じております」


「その前は一ヶ月近く歩いてたんだけど」


「存じております」


「足痛いんだけど」


「存じております」


「休まない?」


「参ります」


「…………」


容赦ない。


この男。


本当に容赦ない。


仕方なく立ち上がる。


そのとき。


門倉が何かを俺に差し出した。


「先生」


「何?」


「こちらを」


「…………?」


受け取る。


見る。


「…………」


何これ。


見たことがない。


ひっくり返す。


分からない。


横から見る。


やっぱり分からない。


俺は門倉を見る。


「何これ?」


門倉が止まった。


「…………」


「いや」


俺は手に持った物を見せる。


「これ」


「先生?」


「何に使うの?」


門倉の顔が。


この一ヶ月で何度も見た顔になった。


――この人大丈夫か?


そんな顔。


「測量に使いますが」


「…………」


測量。


そうだった。


忘れていた。


俺たちは。


旅行に来たんじゃない。


日本地図を作りに来たんだ。


いや。


忘れてはいない。


忘れたいだけだ。


「門倉」


「はい」


「これ」


道具を持ち上げる。


「どうやって使うの?」


「…………」


空気が止まった。


門倉だけじゃない。


周囲にいた人たちまで。


俺を見る。


やめろ。


そんな目で見るな。


仕方ないだろ。


俺。


一ヶ月前まで会社員だぞ。


測量なんて。


学校の授業ですらまともにやった記憶がない。


「先生」


「はい」


「本当にお忘れになったのですか?」


「…………」


俺は答えなかった。


代わりに。


ウインドウを見る。


頼む。


お前。


こういう時のためにあるんだろ?


【史実情報】


第一次測量。


現在地:吉岡。


蝦夷地測量開始。


史実との差:0日。


「違う」


欲しいのはそれじゃない。


測量方法。


【――】


「測量方法」


【表示対象外】


「…………は?」


測量器具の使用方法。


【表示対象外】


「おい」


伊能忠敬がどうやって測量したのか。


【史実上の事実のみ表示可能】


「それも史実だろ!」


「先生!?」


「なんでもない!」


もう一度。


心の中で念じる。


頼む。


俺は。


伊能忠敬なんだぞ。


日本地図を作る人なんだぞ。


測量のやり方くらい。


教えてくれ!


【詳細な技術情報は表示されません】


「使えねえぇぇぇ!!」


「先生!?」


俺は頭を抱えた。


歩いた。


約一ヶ月。


風を待った。


九日。


船に乗った。


酔った。


ようやく蝦夷地へ来た。


そして。


今。


俺はようやく。


とんでもない事実に気づいた。


目の前には。


俺の指示を待つ人たち。


手には。


使い方の分からない道具。


そして。


目の前には。


【タイムパラドックス発生リスク:0.001%】


「あ」


【0.002%】


「ちょっと待って」


【0.003%】


「待て待て待て!」


数字が上がる。


「やる!」


【0.004%】


「やるから!」


問題は。


そこじゃない。


俺はゆっくり。


門倉を見る。


「……門倉」


「はい」


「大変申し上げにくいんだけど」


「何でしょう」


俺は手に持った測量器具を見る。


もう一度。


門倉を見る。


そして。


言った。


「俺……測量できないんだけど?」


「…………」


門倉の顔から。


表情が消えた。


日本地図完成への道。


たぶん。


ものすごく長い。


俺はもう。


歩く以前の問題にぶち当たっていた。

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