第6話「静寂を裂く黒い気配」
鈍い痛みが背中に走り、ルミナスは小さく息を呑んだ。
その拍子に、レオンハルトが持っていたナイフが手から滑り落ち、硬い床板を叩く。
「すまない、驚かせたか」
レオンハルトはすぐにルミナスの異変に気づき、一歩だけ後退した。
その距離の取り方が、数日前の路地裏で見せた気遣いと同じだった。
彼が少し離れただけで、息苦しいほどの甘い香りがわずかに和らぐ。
ルミナスは荒くなった呼吸を整えようと、手洗い場の縁を強く握りしめた。
「……いえ。私の不注意です。芋の皮むきは、私がやりますから。あなたは向こうで、火の番をお願いします」
目を合わせずに指示を出す。
レオンハルトは何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずに竈の方へと向かった。
薪がはぜる音が、不自然に静まり返った厨房に響く。
ルミナスは冷たい水で手を洗いながら、己の不甲斐なさに唇を噛んだ。
本能に振り回されている。
かつてはどれほど血の匂いの中で過酷な状況に置かれても、心拍数一つ乱すことはなかったのに。
この温もりに、この香りに、自分は確実に絆されている。
それがどれほど危険なことか、わかっているはずなのに。
◆ ◆ ◆
その日の営業も、途切れることなく冒険者たちが訪れ、厨房は忙殺された。
ルミナスは調理に集中することで、レオンハルトへ向かう意識を無理やり切り離していた。
夕刻が近づき、店内の客がまばらになり始めた頃だった。
入り口の扉が、ゆっくりと重い音を立てて開いた。
入ってきたのは、全身を黒い外套で包んだ三人組だった。
アークライトの冒険者たちは、派手な装備や大声を好む者が多い。
しかし、その三人からは一切の物音がしなかった。
足音すら石畳に吸い込まれるように消え、気配そのものが周囲の空気から浮き上がっている。
カウンターの奥にいたルミナスは、鍋をかき混ぜる手をぴたりと止めた。
背筋を、氷のような冷たさが駆け抜ける。
間違いない。
この歩法。
気配の殺し方。
かつての過酷な訓練で培われたその眼と身体制御が、今は最大級の警鐘を鳴らしていた。
三人は店内をぐるりと見渡し、壁際の薄暗い席に腰を下ろした。
他の客たちは彼らの異様な空気に当てられ、そそくさと店を出ていく。
店内に残ったのは、ルミナスと、カウンターの端で書類に目を通していたレオンハルト、そして黒ずくめの三人だけとなった。
「……おい。エールを三つ。それと、適当なつまみを出せ」
三人組の一人が、低くしゃがれた声を上げた。
フードの奥から覗く双眸が、厨房のルミナスを真っ直ぐに射抜いていた。
完全に、こちらを認識している。
アークライトの街に潜伏していることが、ついに露見したのだ。
ルミナスの指先から血の気が引き、冷たい汗が背中を伝う。
ここで騒ぎになれば、レオンハルトやこの店が巻き込まれる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
「……ただいま」
ルミナスは震えそうになる声を必死に抑え込み、木製のジョッキにエールを注いだ。
盆にジョッキを乗せ、ゆっくりとした足取りで三人のテーブルへと向かう。
歩くたびに、組織で叩き込まれた恐怖の記憶が蘇る。
失敗すれば死。
不要になれば死。
逃亡者への処罰は、死よりも過酷な拷問だと聞かされていた。
テーブルに盆を置いた瞬間。
三人組の一人が、盆の下から音もなく短剣を滑らせ、ルミナスの手首に刃を押し当てた。
「探したぞ、裏切り者。夜更けに、街の北にある廃教会へ来い。逃げれば、この店にいる金髪の男の命はない」
微かに唇だけを動かし、周囲には聞こえない声で囁く。
冷たい金属の感触が、ルミナスの皮膚を薄く切り裂いた。
赤い血が、一筋だけ手首を伝って落ちる。
ルミナスは声を出さず、ただわずかに顎を引いた。
三人はエールに口をつけることもなく、銀貨を一枚テーブルに弾いて立ち上がった。
足音を立てず、幻のように店から出ていく。
残されたルミナスは、血のにじむ手首を反対の手で覆い隠し、その場に立ち尽くしていた。
「……どうした。知り合いか」
カウンターからレオンハルトが声をかけてきた。
ルミナスは振り向かず、ただ首を横に振った。
「いえ。人違いだったようです」
嘘をつく声は、ひび割れて震えていた。
その夜、ルミナスは誰にも何も告げず、ただ一人で北の廃教会へと向かった。




