第5話「不器用な手伝いと甘く危険な距離」
ルミナスが後ずさったことで、二人の間に生まれたわずかな空間。
レオンハルトはそれを埋めようとはせず、ただ静かにルミナスの怯えを受け止めていた。
窓の外から吹き込む夜風がランプの炎を揺らし、壁に落ちた影が不規則に踊る。
「……すまない。踏み込みすぎた」
レオンハルトの低い声が、静寂に波紋を広げた。
その声には責めるような響きは微塵もなく、ただ純粋な気遣いだけがにじんでいる。
彼が身を引いたことで、鼻腔を満たしていた乾いた樹皮の香りがふっと薄らいだ。
それなのに、ルミナスの胸の奥では、本能がもっとその匂いを嗅ぎたいと訴えかけてくる。
相反する感情に引き裂かれそうになりながら、ルミナスはかたく唇を結んだ。
「茶は置いていく。冷めないうちに飲んでくれ」
レオンハルトはそれだけを言い残し、静かに裏口の扉を開けて出ていった。
残された厨房には、湯気を立てる二つの杯と、針の落ちる音すら聞こえそうな静けさだけがあった。
ルミナスは壁に背を預け、ずるずると床に座り込む。
温かさを知ってしまったからこそ、それを失うことが恐ろしい。
かつて組織にいた頃は、他者との関わりなど任務を遂行するための手段でしかなかった。
命を奪うことへの忌避感すら、過酷な訓練の中で麻痺させられていた。
しかし、この街で土に触れ、命を育む喜びを知ってしまった今の自分は違う。
レオンハルトの屈託のない笑顔が、ギルドの者たちの美味いという声が、ルミナスの冷え切った心を確実に溶かしている。
床に置かれた杯から、微かな甘い香りが漂ってくる。
ルミナスは震える手を伸ばし、まだ温かい茶を喉の奥へ流し込んだ。
胸の奥でくすぶる熱を、冷たい夜風でどうにか冷まそうと、ルミナスは長く息を吐き出した。
◆ ◆ ◆
翌朝。
いつものように市場へは行かず、ルミナスは直接ギルドの厨房へ向かった。
開店前の仕込みに没頭することで、昨夜の動揺を忘れようとしていた。
だが、野菜を刻む包丁のリズムは、どこか普段より単調だった。
「……おはよう」
不意に背後から声がかかり、ルミナスは肩をびくっと震わせた。
振り返ると、そこには見慣れた金糸の髪を持つ男が立っていた。
いつもより少し早い時間だ。
レオンハルトの革鎧には、朝露のような細かな水滴がついている。
「早いですね。まだ、何も用意できていませんが」
ルミナスは努めて平坦な声を出し、まな板に向き直った。
「いや、飯を食いに来たわけじゃない。少し、手伝わせてくれないか」
予想外の言葉に、ルミナスは包丁を止めた。
「手伝う、ですか。あなたが」
「ああ。俺の肝煎りで始めた店だ。ギルマスがふんぞり返っているだけじゃ、示しがつかないだろう」
レオンハルトは屈託なく笑い、腕まくりをして手洗い場へ向かった。
丸太のように太い腕が水しぶきを上げる。
「それに、君が昨日どれだけ疲れていたか、俺にもわかる」
水音に紛れて落とされた言葉に、ルミナスは目を伏せた。
見透かされている。
どれだけ厚い壁を作ろうとしても、この男の前ではすべてが無意味に思えてくる。
「……では、そこの芋の皮を剥いてください」
ルミナスが指差した先には、泥のついた大ぶりの芋が山のように積まれていた。
レオンハルトは小ぶりのナイフを手に取り、不格好な手つきで皮を剥き始める。
分厚い皮と一緒に、食べられる部分までごっそりと削り取られていく。
「あ……違います。もっと薄く、刃を寝かせるように」
ルミナスは思わず歩み寄り、レオンハルトの手元を覗き込んだ。
その瞬間、二人の距離が急激に縮まった。
レオンハルトの体温が、熱気となってルミナスの頬をなでる。
今度は逃げ場のないほど濃密な、乾いた樹皮のような甘い香りがルミナスを包み込んだ。
「こうか」
レオンハルトが顔を向ける。
鼻先が触れそうな距離で、琥珀色の瞳と視線が絡み合った。
極度の緊張で喉が張り付き、自身の心音が周囲に響き渡っているのではないかという錯覚に陥った。
レオンハルトの視線に射抜かれた瞬間、膝の裏の筋が勝手に弛緩し、脳の奥底で抗えない本能が甘く疼き始める。
「……っ」
ルミナスは弾かれたように後退し、手洗い場の縁に強く背中を打ち付けた。




