第4話「喧噪の裏側で揺れる熱」
ギルド併設の喫茶店が産声を上げたのは、その三日後のことだった。
朝日が石畳を照らし始める頃、ルミナスはすでに厨房の竈に火を入れていた。
磨き上げられたカウンターの奥で、数種類の鍋から白い蒸気が立ち上っている。
野菜を刻む小気味よい音が、静かな店内に一定のリズムを刻む。
開店の時刻を知らせる鐘が街に響き渡ると同時に、入り口の扉が勢いよく押し開けられた。
「おい、本当にこんなところに飯屋ができたのか」
「ギルマスの肝煎りだって話だが、料理人はずいぶん小柄な兄ちゃんじゃないか」
泥にまみれたブーツを引きずりながら、数人の冒険者がぞろぞろと足を踏み入れてくる。
彼らの視線が、厨房に立つルミナスに値踏みするように注がれた。
小柄な体躯と、前髪で目を隠した地味な風貌。
腕っぷしが物を言うこの街では、頼りなく映るのは無理もない。
ルミナスは視線を合わせず、ただ淡々と手を動かした。
大皿に盛り付けられたのは、厚く切った豚肉と、色鮮やかな根菜の炒め物。
鉄板の上で肉の脂が跳ねる音が響き、焦げた醤油とニンニクの香りが冒険者たちの鼻腔を容赦なくくすぐる。
先頭にいた大柄な戦士が、ごくりと喉を鳴らした。
ルミナスは無言で皿をカウンターに置き、湯気を立てるスープと黒パンを添えた。
戦士は疑わしげにフォークを突き刺し、肉と野菜を口に運ぶ。
噛み締めた瞬間、戦士の動きが止まった。
「……うまっ」
言葉にならない声が漏れる。
「なんだこれ。肉は柔らかいし、野菜が異様に甘い。食ってるだけで、体の底から力が湧いてくるみたいだ」
戦士は夢中になって皿を平らげ始めた。
その様子を見ていた他の冒険者たちも、次々とカウンターに身を乗り出して注文の声を上げる。
ルミナスは炎の熱に顔を火照らせながら、次々と料理を仕上げていった。
かつて死線の中で研ぎ澄まされたその眼と身体制御は、今は複数の鍋の沸騰を同時に見極めるために使われている。
剣の代わりに包丁を振るい、血の代わりに野菜の汁を飛び散らせる。
冒険者たちの豪快な咀嚼音と、美味いと唸る声。
それは、ルミナスがこれまでの人生で一度も経験したことのない、温かく騒がしい光景だった。
◆ ◆ ◆
昼を過ぎ、夕刻が近づくにつれて、客足はさらに増していった。
ギルド内での口コミが広がり、生産職の者や受付嬢までもが足を運ぶようになっていた。
ルミナスが一息ついたのは、外がすっかり暗くなり、最後の客が満足げに腹をさすりながら帰っていった後だった。
入り口の扉に鍵をかけ、ルミナスは壁際の椅子に深く腰を下ろした。
腕は鉛のように重く、足の裏は痺れている。
ふと、裏口の扉が控えめにノックされた。
ルミナスが立ち上がって閂を外すと、そこにはレオンハルトが立っていた。
夜の冷気をまとう分厚い外套からは、陽に焼かれた乾いた樹皮の匂いが漂う。
それが残っていた料理の匂いを上書きし、ルミナスの鼻腔を満たした。
「遅くまで悪かったな。初日の客入りはどうだった」
「……用意した食材は、すべて使い切りました」
ルミナスの答えに、レオンハルトは表情を緩めることなく、ただ深くうなずいた。
「そうか。よくやってくれた」
レオンハルトは持っていた木箱をカウンターに置いた。
中には、上質な茶葉と果実の砂糖漬けが入っている。
「俺からの開店祝いだ。少し、休もう」
レオンハルトの手で湯が沸かされ、温かい茶が二つの杯に注がれる。
湯気の向こう側で、レオンハルトがルミナスを見つめていた。
昼間の冒険者たちへ向ける気さくな視線とは違う、もっと深く、粘度の高い熱を帯びた眼差し。
ルミナスの奥底に眠るΩの本能が、その視線に反応して警鐘を鳴らす。
首筋が熱くなり、呼吸がわずかに浅くなる。
杯を持つ指先が微かに震えた。
「君の料理を食べた連中が、みんな良い顔をして帰っていった」
レオンハルトの低い声が、静かな店内に響く。
「君の手は、人を幸せにする手だ」
その言葉が、ルミナスの胸に鋭い痛みを走らせた。
幸せにする手。
とんでもない。この手は、数え切れないほどの命を奪ってきたのだ。
温かな茶の香りが、不意に血の匂いにすり替わるような錯覚に陥る。
ルミナスは耐えきれずに立ち上がり、カウンターから一歩後ずさった。
「……買い被らないでください」
絞り出すような声は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
レオンハルトの琥珀色の瞳が、微かに揺らぐ。
「私は、あなたが思っているような人間ではありません。ただ、過去から逃げてきただけの……」
言葉を紡ぐほどに、息が詰まる。
これ以上近づかないでほしい。
この温もりに慣れてしまったら、真実を知られたときの絶望に耐えられない。
ルミナスは両手で自らの腕を抱きしめ、うつむいた。
ランプの灯りが揺れ、二人の間に落ちた影が、触れ合いそうで触れ合わない距離で揺らいでいた。
客のいなくなった薄暗い店内で、ルミナスは空になった大鍋の底を見つめた。
鉛のように重い腕とは裏腹に、胸の奥底で、小さな炭火がパチリとはぜるような心地よい熱が灯っている。
彼は無意識のうちに、かつて刃を握っていた指先で、温かい鍋の取っ手を愛おしむようになぞっていた。




