第3話「夜明けの決意と新しい厨房」
月が中天を過ぎ、地平線へと傾き始めた頃。
ルミナスは粗末な山小屋の硬い寝台で目を覚ました。
隙間風が吹き込む室内は冷え切っている。
薄い毛布を引き上げても、肌を刺すような寒さは拭えなかった。
窓枠の隙間から差し込む青白い月光が、床板に長い影を落としている。
毛布の中から右手を取り出し、月明かりの下に透かしてみた。
節の目立つ細い指。
かつては短剣の柄を握り、音もなく他者の命の灯火を摘み取ってきた手だ。
しかし昨日の朝、レオンハルトはこの手から生み出された野菜を食べて笑った。
生命への慈しみがある。
そう言われた瞬間、胸の奥底で凍りついていた何かが、小さく音を立ててひび割れた気がした。
起き上がり、冷たい床に素足を下ろす。
外へ出ると、夜露に濡れた土の匂いが鼻腔を満たした。
丘陵地帯の冷気は厳しいが、土の下では確かに命が脈打っている。
ルミナスは膝をつき、まだ何も植えられていない畝に手のひらを当てた。
指先から淡い緑色の光を流し込む。
地中に潜ませた香草の種が、ルミナスの力を吸い上げて一気に芽吹く。
青々とした葉が月光を弾き、独特の清涼な香りを周囲に放ち始めた。
レオンハルトのまとう、乾いた樹皮の匂い。
あの力強く甘い香りを思い出しながら、ルミナスは無心で土と向き合った。
誰かのために何かを作ろうと考えるのは、いつ以来だろうか。
暗殺組織にいた頃は、標的の息の根を止めることだけが己の価値だった。
逃亡の果てにたどり着いたこの街でも、ただ息を潜めて生き延びるためだけに野菜を育ててきた。
だが今は違う。
あの琥珀色の瞳を持つ男に、もう一度自分の作ったものを食べてもらいたい。
夜が白み始める頃には、収穫用の木箱は色鮮やかな野菜と香草で埋め尽くされていた。
◆ ◆ ◆
朝靄が立ち込める市場。
昨日と同じ路地の片隅に敷物を広げ、ルミナスは膝を抱えて待っていた。
行き交う人々の足音が石畳を叩く。
日常の風景の中に身を置きながら、ルミナスの視線は人混みの向こう側を探していた。
やがて、朝陽を背にして歩いてくる背の高い影が見えた。
大剣を背負ったレオンハルトの姿は、群衆の中でも一目でそれとわかる。
彼はルミナスの姿を見つけると、柔和な笑みを浮かべて歩みを速めた。
革鎧の擦れる音が近づき、あの深い香りがルミナスを包み込む。
「おはよう。待たせたな」
レオンハルトは腰を下ろし、ルミナスと目線を合わせた。
大きな手のひらが膝の上に置かれている。
ルミナスは小さく息を吸い込み、伏せていたまつ毛をゆっくりと持ち上げた。
「……やらせてください」
かすれた声だった。
それでも、言葉の輪郭ははっきりと空気に溶け込んだ。
レオンハルトの琥珀色の瞳が、わずかに見開かれる。
「厨房に立つのは初めてですし、気の利いた接客もできません。それでも、私の野菜でよければ」
言い終える前に、大きな手がルミナスの頭に軽く触れた。
なでるわけでもなく、ただ温かさを伝えるだけの不器用な接触。
「ありがとう。君ならそう言ってくれると信じていた」
レオンハルトの声には、隠しきれない喜びがにじんでいた。
ルミナスは頭上の熱から逃れるように小さくうつむき、手元の木箱を引き寄せた。
「さっそく、場所を案内する。ついてきてくれ」
レオンハルトが立ち上がり、手を差し出す。
ルミナスはその手を取ることはせず、自力で立ち上がって木箱を抱えた。
少しだけ前を歩く広い背中を見つめながら、ルミナスは街の中心部へと足を踏み出した。
◆ ◆ ◆
アークライトのギルド本部は、街で最も巨大な石造りの建築物だった。
吹き抜けのロビーには数え切れないほどの冒険者たちがひしめき合い、依頼書が張り出された掲示板の前で声を張り上げている。
圧倒されるようなざわめきの中を、レオンハルトは慣れた足取りで進んでいく。
彼が通るたびに、荒くれ者たちが道を譲り、親しげな挨拶を投げかけた。
この男がいかに慕われ、尊敬されているかが、言葉を交わさずとも伝わってくる。
「こっちだ」
レオンハルトが振り返り、ロビーの奥にある重厚な木扉を開けた。
壁沿いには真新しい木張りのカウンターが設置され、奥には立派な石造りの竈が据え付けられている。
床は磨き上げられ、新しい木材の香りが漂っていた。
「内装は数ヶ月前から終わっていた。君が来るのを待っていたんだ」
レオンハルトが壁際の棚を指差す。
ルミナスは木箱をカウンターに置き、ゆっくりと厨房の中へ足を踏み入れた。
鉄製の重い包丁を手に取る。
柄の感触が、かつて愛用していた短剣の重さと重なり、一瞬だけ背筋がこわばった。
だが、刃の厚みも形状も、命を奪うためのものではない。
これは命を繋ぐための道具だ。
ルミナスは小さく息を吐き、包丁をまな板の上に置いた。
「……少し、火を借りてもいいですか」
ルミナスの問いに、レオンハルトは満足げにうなずいた。
ルミナスは木箱から根菜と香草を取り出し、水瓶の水で手早く泥を落とす。
まな板の上で包丁を滑らせる。
かつて組織で延髄の構造を解剖させられた記憶が、現在の包丁さばきと皮肉なほどに重なり合っていた。
竈に薪をくべ、火を起こす。
鉄鍋に少量の油を引き、刻んだ根菜を炒める。
油がはぜる微かな音とともに、野菜の甘い香りが厨房に広がっていく。
水を注ぎ、夜明け前に育てた香草をちぎって加える。
鍋の底から細かな気泡が立ち上り、水面を揺らし始めた。
木の椀にスープをよそい、レオンハルトの前に差し出した。
彼は木のスプーンを手に取り、一口すする。
厨房に静寂が落ちた。
「……美味いな」
短く、腹の底から絞り出すような声。
「野菜の甘みが体に染み渡るようだ。香草の爽やかな風味が、疲れを洗い流してくれる」
レオンハルトは目を開け、ルミナスを真っ直ぐに見つめた。
その眼差しの熱さに、ルミナスはたまらず目を逸らした。
「明日から、店を開けよう。君の料理なら、間違いなくギルドの連中の胃袋を掴める」
レオンハルトの力強い宣言が、新しい厨房の壁に響き渡った。




