番外編「獅子の手懐け方」
俺がその小柄な男を初めて見たのは、アークライトの市場の片隅だった。
冒険者としての長い経験が、俺の直感を常に鋭く研ぎ澄まさせている。
雑踏の中で、その男だけが周囲の景色から切り取られたように浮いていた。
気配がない。
呼吸音も、足音も、生きている人間が発するはずの熱量すらも、極限まで抑え込まれている。
間違いなく、裏社会で生きる手合いだ。
それがなぜ、こんな辺境の市場で野菜を売っているのか。
興味本位で近づき、彼が育てたという赤い果菜を口にした瞬間、俺の直感は確信に変わった。
全身の細胞が歓喜の声を上げるような生命力。
魔力でも薬でもない、純粋な命の味がした。
これほどのものを作れる人間が、ただの悪党であるはずがない。
同時に、俺のαとしての本能が、彼から漂う微かな香りに反応して警告を発した。
雨に濡れて熟れすぎた花弁が、むせ返るような甘さを放っている。
まだ完全に開花していない、危うく脆いΩの香り。
俺は強大な力を持ちすぎるがゆえに、これまで誰かを番として欲したことはなかった。
俺の力に怯え、すり寄ってくる者たちに辟易していたからだ。
だが、この男は違った。
怯えながらも、その瞳の奥には決して折れない芯のようなものがあった。
どうしても、彼の作る料理が食べたかった。
そして何より、あの冷え切った瞳に、温かい光を灯してみたかった。
◆ ◆ ◆
喫茶店を任せてからの日々は、俺にとって未知の驚きの連続だった。
彼は料理の天才だった。
素材の持つ命の輝きを、極限まで引き出す技術。
一口食べるごとに、俺の胃袋は完全に彼に支配されていった。
だが、彼自身はいつも薄い氷の上を歩くように、俺たちとの間に見えない壁を作っていた。
彼の指先に残る剣だこと、時折見せる暗殺者特有の身のこなし。
俺は彼の過去を薄々察していた。
彼が人を殺めてきた手を持つことなど、俺にとっては些末な問題だった。
俺だって、冒険者として幾多の命をこの大剣で断ち切ってきたのだから。
問題は、彼自身がその過去を深く憎み、自分には幸せになる資格がないと思い込んでいることだった。
だから俺は、決して焦らなかった。
毎日店に通い、彼の料理を食べ、少しずつ言葉を交わす。
彼が引けば立ち止まり、彼が少しでも前を向こうとしたら、すかさず手を差し伸べる。
強すぎる俺の力が彼を傷つけないよう、息を潜めて距離を測り続けた。
彼から漂う香りが、日を追うごとに甘く濃密になっていくのを感じながら、俺は己の理性を総動員して欲望を抑え込んだ。
獣のように押し倒し、俺の番だと組み敷きたい衝動。
それを飼い慣らすのは、どんな巨大な魔物を討伐するよりも骨が折れた。
◆ ◆ ◆
あの日、北の街道で討伐隊の野営地を抜け出し、谷の奥へ向かったとき。
俺は、彼が一人で暗殺者たちと対峙しているのを見た。
自分を犠牲にしてでも、俺たちを守ろうとする彼の背中。
そのとき初めて、俺は彼に対する執着が、単なる本能の引力や保護欲ではないことを悟った。
俺は、彼のその不器用で狂おしいほどの優しさを、心の底から愛している。
血塗られた過去を背負いながらも、必死に誰かを生かそうとする彼の魂に、俺自身が救われていたのだ。
洞窟から抜け出し、夜明けの道を彼と手をつないで歩きながら、俺は静かに誓った。
彼が二度と過去の闇に怯えることのないよう、俺が彼の絶対的な盾になる。
そして、彼が作ってくれる温かいスープを、これからの人生でずっと味わい続けるのだと。




